前-2
学校からの帰り道、母から頼まれた木綿豆腐を買うために、駅前の商店街にある小さなスーパーに立ち寄った。五時を過ぎて値引きシールが貼られ始めたらしく、生鮮品と惣菜売り場は年配の人たちで賑わっていた。明日が賞味期限の木綿豆腐は三十円引きになっている。少し迷ってそれを買った。
店を出ると、淡い夕闇が道行く人を景色の中に溶かし込み、レトロな映画のワンシーンを見ているような感じがした。夜もいいが夕暮れもいい。少し遠回りして帰ろう。右や左に目をやりながら駅前通りをのんびりと歩く。古びた雑居ビルの前にさしかかり、ふと顔を上げると、それを待っていたかのようなタイミングで二階の窓に明かりが灯った。
東 堂 塾
それは三枚の窓ガラスに貼られた紙に一文字ずつ、黒々とした明朝体で印刷されていた。頭の中で「とうどうじゅく」と声に出してみる。月齢十二の月と品の良い男性の顔が浮かんだ。そうだ、あのとき名刺を受け取った警察官が「東堂塾ですか」と言っていた。
ここだったのか。
あらためて窓を見上げた。ちらりと人影が動いた。
ちょうどいいじゃないか。お礼をかねて顔を出してみよう。
いやまてよ、もう塾の授業が始まってるかもしれないな。やっぱりやめておこうか、と迷いつつも、足は雑居ビルの方へと向いていた。狭い階段を上った先に薄暗い廊下があり、一番手前のドアに、「東堂塾」と書かれた白いプレートが掲げられていた。
「どうぞ、開いてますよ」
三つめのノックにかぶせるように中から声が返ってきた。ほぼ同時に足音が聞こえ、内側にドアが開かれた。
「やあいらっしゃい。入塾希望ですか?」
細身で色白の男性が、愛嬌のある笑みを浮かべて立っていた。
違う。髭がない。
あの夜の口髭の男性が迎えてくれるものだと思い込んでいたので、一瞬言葉に詰まってしまった。
「あ、そうではなくて、先日こちらの先生にお世話になった者です。近くを通りかかったので、ご挨拶をと思って」
「ほう。先日といいますと、いつのことでしょう」
「二日前の火曜日の夜です」
「お世話とはどのような」
「あの、こちらの先生はおられないのですか」
「いますよ。ここに」
男性は自分の顔を指さした。
「え?」「ん?」
内側に開かれたドアの上部にあるプレートを確認する。「東堂塾」で間違いない。駅前のビルという条件も満たしている。ということは、あの口髭の男性は塾長で、このくせ毛の男性は講師の一人ということになるのだろうか。
「すいません、ちゃんと説明していませんでした。ぼくがお世話になったのは東堂先生の方なんです」
「東堂ですか」
なんとなくだが会話がかみ合っていないのはわかる。
「東堂先生、今日はおられないんでしょうか」
「いますよ。ボクが東堂です」
くせ毛の男性は自分の顔を指さした。
念のため、もう一度よく見てみる。三十歳前後だろうか。髪だけでなく眉も濃い。まつげも長いし目は切れ長で深い二重だ。すっと通った鼻筋や頬からあごにかけてのシャープな輪郭は先日の男性と似ているような気がするが、髪の質が違っているし、目の前の男性の方が明らかに若い。
間違いようがない。二日前の夜に出会った口髭の男性とは別人だ。
「ややこしい話になりそうですか」
「あ、いえ、ぼくの勘違いだったみたいです。すいません」
「あなたが二日前にお世話になった男性が東堂と名乗ったのですね」
「はい。『とうどう』と聞こえました」
「そしてあなたがここを訪ねてこられたということは、その男性はここの住所もしくはこの塾のこともあなたに教えたのですね」
正確には、ぼくにではなく警察官に教えたのだが、別人になりすましていたということには変わりはない。その嘘にはどんな意味があるのか。なりすまされた当の本人だって気になるところだろう。
「えっと、警察も関わっている話なので、最初からちゃんと説明した方がいいですよね」
「おやおや、ここで立ち話という感じじゃなくなってきましたね。生徒たちが来るまでまだ少し時間があります。とりあえずお入りください」
くせ毛の男性――本物の東堂さんに招かれて中に入ると、そこは長机が整然と並ぶ昔ながらの学習塾の教室だった。
「トイレの水を流してないなあ」
「え?」
「今の話の中に、公衆トイレの水を流す音のことが出てきませんでしたが、どうです、あなたは音を聞きましたか?」
どうだったか。
今一度、もみじ公園についたときからのあれこれを思い起こしてみる。
「聞いてないですね」
「ということは、おなかが痛くなって公衆トイレに駆け込んだというのが嘘ということになりますね。いや、嘘じゃないと困ります。使用後に水を流さないなんて、そんなのだめでしょう。想像もしたくない」
「でも、水を流したら、トイレの中で警察官とのやりとりを聞いていたってことがばれてしまいませんか。ぼくのことを前から知っていることにするためには、それはちょっとまずいだろうって考えて、とりあえず流さずに出てきた。水は帰る前に流せばいいやって」
「帰る前に流してましたか」
「――流してないですね」
「おなかが痛くてトイレにこもっているときに、あなたたちのやりとりを聞いたというのが本当であれば、音なんか気にせずに水を流して、堂々とトイレから登場すればいいのです。聞き覚えのある声が耳に入ったので、とかなんとか言いながらね。あなたの塾の先生だという設定はいかにもありそうですから、警察官もそこに関しては疑いませんよ」
「いろいろ納得ですが、結局、何が問題なんでしょうか」
「警察官に対して、自分は東堂だと名乗った嘘は、あなたを助けるために必要だったのでまあよしとしましょう。でもね、警察官が立ち去った後のあなたへの説明の中で、腹痛でトイレに駆け込んだ云々という嘘をつく必要性がね」
東堂さんは天井を見上げ、眉をひそめた。
「とにかくその男性はあやしいということです」
あやしいのはわかっている。普通の人は他人になりすましたりはしない。
「ちなみにその男性の容姿はどんな感じでしたか。ボクに多少は似てるのですか」
「こうしてお話をしていると、雰囲気は似ているような気もしますが、髪の質とかは違ってますし、年齢も少し上だったと思います。あと、わかりやすい特徴としては、鼻の下に短い口髭を生やしていました。全体の雰囲気からは、そうですね、紳士っていう表現がしっくりきます」
それまで饒舌だった東堂さんが、「口髭を生やした紳士ねえ」と言ったきり黙り込んでしまった。
唐突に生まれた沈黙の時間に、どうしたものかと周囲を見渡し、そういえばここは塾の教室だったということを思い出した。
「まあ、いいでしょう。結局、誰も不利益はこうむっていないようですし」
「いいんですか、名刺が勝手に使われたみたいですけど」
「ボクの名刺はいろんな人に渡してますし、何度か落としたこともあるので、どこの誰が持っていても不思議ではありません。書いてあるのはボクの名前と塾の住所と電話番号だけですから、ボクに連絡を取るため以外の利用価値はないものです。本来なら身分証にもなりません。でもその男性はうまく使ったようですね。結果的に、あなたのピンチを救うことになったわけですから、有効活用してもらったということになるのかな」
物は考えようだ。東堂さんがそれでいいと言うなら、ぼくがこれ以上こだわる必要はないのだろう。
「で、夜の散歩はどうなりました」
「どうなったとは?」
「今回のことがあって、もうやめてしまったとか」
「やめた方がいいでしょうか」
「夜の散歩、いいじゃないですか。嫌気がさしたのでなければやめる必要はないですよ。ただし――」
「ただし?」
「また不審者だと疑われる可能性はありますね」
「ですね」
「では、こうしましょう。散歩のときに持ち歩くカバンの中に、数学の問題集とノートを入れておく。失礼ながらあなたは少し幼く見えますから、生徒手帳もあった方がいいでしょう。それだけの準備をして、家を出たらまずこの塾に立ち寄る。ああ、入塾しろと言ってるのではありません。うちは小中学生が対象ですから入りたいと言われても困るのです。だから本当に立ち寄るだけです。ちょっと顔を出すでもいいし、なんならこのビルの前を通りかかるでもかまいません。で、あとはこれまで通り、あなたの好きなように散歩をする」
「すると、どうなりますか」
「こんな時間に何をしているのかと聞かれたら、塾からの帰りですと答えることができます。公園のベンチに座っているときなら、帰宅の途中にちょっと息抜きをしていましたとでも付け加えればいいでしょう。あなたは高校生ですし、夜の十時ぐらいまでなら十分通用するはずです。この対応をしておけば、カバンの中の確認を求められることはまずないと思いますが、もし見られても大丈夫という安心感があなたの言動をより自然なものにしてくれます。実際のところ、万が一見られても問題ありませんしね」
まわりくどいやり方だなと思ったが、よく考えてみれば、これまでの散歩のルートを少し変更するだけで実行できる。
「塾からの帰り――嘘ではないのか」
「ええ、嘘はだめです。ばれたとき、それ以外の嘘ではない言動まで疑われてしまいます」
嘘ではないがごまかしではあるように思う。嘘はだめでごまかしはOKなのか。その辺の線引きは人によってちがうだろう。いずれにしても、誰かに迷惑をかけるわけではないし――
「こんばんはー」
キンキンした声にふりむくと、ランドセルを背負った男の子がドアを押し開け入ってきた。
「やあ、ショーヘイくんか。今日は早いね」
「終わりの会が教頭先生だったからすぐに終わったんだ」
「山下先生はお休みだったのかい」
「ぎっくり腰だって」
ショーヘイくんは机の上にランドセルを置くと、ぼくに向かって、「中学生ですか」と聞いた。
「高校生だよ」
「塾に入るんですか」
「この塾は中学生までしか生徒になれないんだって」
「じゃあ何者?」
東堂さんはにやにやするばかりでフォローする気はないようだ。そうするうちに、ほかの生徒たちも次々にやってきて、「誰?」「新入り?」「あ、西川先生の知り合いとか」「英才アカデミーのスパイでしょ」「変な服」「値引きの豆腐を持ってるぞ」と言いたい放題の小学生たちに囲まれてしまった。
「いいんですか、授業を始めなくても」
「そうだね。よし、そろそろやるか」
東堂さんが席を立ち、教室の前に向かって歩き出すと、小学生たちは自分の席へと戻っていった。
「では、ぼくはこれで失礼します」
「またいつでも顔を出してください」
小学生たちの乱入で謎の口髭紳士の件はうやむやになってしまったが、自分の名前を騙られた東堂さん自身はあまり気にしていないようだ。モヤモヤは残るが、まあいいということにしよう。
ぼくは東堂さんに軽く会釈をして、後ろのドアからそっと教室を出た。
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