妄想彼女とスピッツと
@fkt11
承前
前-1
夜の散歩が趣味だ。
午後九時過ぎに家を出る。見上げる空は紫色に濁っている。足音が響く。猫の目が光る。昼間とはまったく違う世界を一人で歩いていると、根拠のない全能感がわき上がってくる。たとえば目からビームが発射できそうな気がする。
人通りの少ない住宅街をぶらぶらと歩き、ぼうっと光を放つ自動販売機でミネラルウォーターを買い、帰宅を急ぐサラリーマンとすれ違い、桜池神社の参道を往復し、もみじ公園の木製ベンチに寝転んで人工衛星を探し、軽いストレッチをして家に向かう。
誰にも迷惑をかけず、健康的で、実に健全な趣味だと思っている。
いや、正確には思っていた。
二日前のことだった。九月初旬の月齢十二の夜、ショルダーバッグに双眼鏡を忍ばせて家を出た。いつものコースをいつものペースで歩き、いつものようにもみじ公園の敷地に入ろうとしたところでパトロール中の警察官二人に声をかけられた。
「こんな時間に何をしているの」
「散歩です」
「散歩? もう夜だよ」
「夜の散歩が趣味なんです」
警察官の目つきが変わった。
「中学生?」
「高二です」
「ほう高校生ね。どこの高校?」
「桜ヶ丘高校です」
「名前と住所を教えてもらえるかな」
際限なく続く質問にうんざりし、「本当は何が聞きたいんですか」と問い返したかったが、ぐっと我慢して素直に名前と住所を教える。
「カバンの中を見せてもらいたんだけど、いいかな」
「えっ、カバンの中をですか」
「お願いします」
命令口調ではなく、あくまでもお願いモードという体裁だが、ここで断ると面倒なことになるだろうことは小学生にだってわかる。でも断りたかった。タバコやナイフが入っているわけではないけれど、カバンの中というのはプライベートな空間で、たとえ空っぽであっても気前よく他人に見せるものではないと思うのだ。どうしようか。断るとすればどんな理由とするのがいいのか。落ちついて考えれば妙案が浮かぶかもしれないが、二人の警察官にじっと見つめられているという状況では、あせるばかりで頭が回らない。
「どうしました。見られるとまずいものでも入ってるの?」
駄目押しの〈見せない=不審物所持〉という論理だ。これで断るという選択肢は封じられた。ぼくはわざともたつきながらショルダーバッグのファスナーを開き、警察官の目の前に、プライベートな空間をぐいっと突き出してやった。
「ほう、双眼鏡とはねえ」
二人の警察官は意味ありげに目配せをした。
「これで何を見るの?」
「月を観ます」
「月?」
ぼくは南南東の空を指さした。
「あのマンションの右上に出ています」
二人の警察官は同時に空を見上げた。
「今夜は月齢十二なんです」
「月齢十二? それと双眼鏡とはどういう関係があるの」
「この月齢のときのクレーターが一番きれいなんです」
「ふうん」
反応が鈍い。たぶん、伝わらなかった。
「この双眼鏡、ちょっと借りてもいいかな」
「どうぞ」
背の高い方の警察官がショルダーバッグから双眼鏡を取り出し顔の前に掲げた。
「なるほどな。これはよく見えるわ」
「間違いないか」
「ええ、ばっちりですね」
二人の警察官は顔を見合わせ、うなずき合った。
よかった。これでようやく解放される。
ぼくは、強ばっていた肩の力を抜き、少し青みがかった月を見上げた。
「ここでは長話もできないので、交番まで来てもらえますか」
「は?」
聞き間違いだと思った。すべての質問に素直に答え、不快な要求にも誠実な対応をしたぼくに、これ以上何の話があるというのか。
「これはすごく性能がいい双眼鏡だね。あのマンションの最上階の部屋に立派なシャンデリアがあるのがくっきり見えたよ。うん、こういうものを持っていると、他にもいろいろ見てみたくなるんだろうな」
「ぼくがのぞきをすると言うんですか」
「するの?」
「しません。さっきも言いましたけど、それは月を観るために持ってきたんです」
「でもねえ、月なら自宅の窓からでも見えるでしょ。わざわざこんな公園にまで出かけてくる必要はあるのかな」
「だから散歩なんです。月を観るのは散歩の中でのルーティンみたいなもので――」
「その辺のことを交番でくわしく聞かせてほしいと、そう言ってるんですよ」
そうか。こういう理屈でくるのか。やっぱりショルダーバッグの中を見せたのは失敗だった。でもあの流れで断るのは無理だった。そして今も、交番行きを拒むことはできそうにない。交番でも同じようなことをしつこく聞かれ、らちが明かず、親が呼ばれ、下手をしたら学校にも連絡が行って――
「どうかしましたか」
背後から男の声がした。
公園の入り口にある公衆トイレの前に、すらりとした体形の男性がこちらの様子をうかがうようにして立っていた。
「あなたは?」
背の高い方の警察官が警戒しながら問いかけた。
男性は無言のまま一歩、二歩と近づいて、ぐいっと顔を突き出した。
短く切りそろえられた口髭がまず目に入った。よく見ると少し白いものが混じっているが肌つやは良い。四十代前半から半ばぐらいだろうか。さらりとした清潔感のある髪型、優しげな目、すっと通った鼻筋など、どれもが品の良さを漂わせていた。
「お、やっぱり守山君じゃないか。どうしたの、迷子になってお巡りさんに帰り道をたずねてるのかい」
誰だこの人は。なぜぼくの名前を知ってるんだ。
「それとも家出少年に間違われたのかな。今は散歩の途中です。いつもここで星や月を観てるんですって、ちゃんと説明したかい」
「ちょっと、あなた、質問に答えなさい」
「ああ、これは失礼しました。私は東堂という者です。学習塾の講師をやっています」
「塾の先生ですか。じゃあ、この――」
「ええ、守山君は桜ヶ丘高校の生徒です」
「それは先ほど聞きましたがね」
「守山君の趣味は夜の散歩なんですよ。ああ、そうか、不審者と間違われたんですね。そりゃあ、双眼鏡を持って夜の公園をうろついていたら怪しまれても仕方ないなあ。どうもご迷惑をおかけしました。守山君の身元については私が保証します。あ、これ、私の名刺です」
名刺を受け取った警察官は、「東堂塾ですか。ああ、あの駅前のビルに入ってるところか」とつぶやきながら、もう一人の警察官に名刺を回した。
「わかりました。そういうことでしたら問題ないでしょう。でも、高校生が夜遅くに外をうろつくのは控えた方がいいですな。面倒事に巻き込まれる可能性がありますからね」
「おっしゃるとおりです。以後気をつけるように、私からも注意しておきます。いつもごくろうさまです」
「先生もお疲れさまです」
どうやら事態は収拾に向かっているようで、警察官は撤収の体勢に入っている。
ちょっと待ってほしい。ぼくはこの男性を知らない。なのにこの男性は一方的にぼくのことを知っているみたいだ。名前だけでなく、通っている高校、さらには個人的な趣味まで。でも、それっておかしいだろう。やばいだろう。お巡りさんたち、この得体の知れない男性と二人きりにしないでくれ。
という願いもむなしく、二人の警察官は、「それでは、あとはよろしく」と言い残して去っていった。
どうする。逃げるか?
ぼくはつま先に体重をかけ、いつでも走り出せる体勢をとった。
「では、私も失礼しますね」
男性は軽く手を上げると、くるりと背を向け、警察官たちの去った方角とは反対の方へと歩き出した。
え?
関わりを持たれることを怖れてはいたが、かといってまったく何もないままサヨナラでは肩すかし感が半端ない。いやそれよりも、ぼくのプライベートな情報が見ず知らずの男性に知られており、さらにはその背景がわからずじまいとなってしまうというのは気持ちが悪い。そこだけは確かめておく必要がある。
ぼくは胸に手を当て息を整えた。
「あの、すいません」
男性は声をかけられることを予測していたかのようにぴたりと立ち止まり、回れ右の動きで振り返った。
「はい、なんでしょうか」
男性は小さく首をかしげた。
「えっとですね、もしぼくが忘れてしまっていたらごめんなさい。これまでにどこかでお会いしたことがありましたか」
「初対面ですよ。でも、最近はこのあたりをよくぶらついていますから、どこかですれ違ったことぐらいはあるかもしれませんね」
そう言ってから、男性は、「ああ、そうか」と胸の前で手を打った。
「頼まれもしていないのに横から口を出して、しかも馴れ馴れしい口調で話しかけて、もしかすると、よけいなことをしてしまいましたか」
「あ、いえ、そのことについては助かりました。ありがとうございます」
「なら、よかった」
「差し支えなければ教えてほしいんですが、ぼくの名前とか、通ってる学校とか、夜の散歩のこととか、どうしてご存知なんですか」
男性は、「先ほどの警察官には内緒にしておいてくださいよ」と言って、片目をつぶった。
「家に帰る途中だったんですが、ここから少し先の交差点にさしかかったあたりで急におなかが痛くなりましてね。この公園に公衆トイレがあったことを思い出して駆け込んだんです。危機一髪のタイミングでした。個室に入ってズボンを下ろし、ほっと一息ついたところで聞こえてきたんですよ。お巡りさんとあなたとのやりとりが」
たしかに公衆トイレはすぐそこにある。
この距離なら聞こえたかも――いや、聞こえたんだ。
「悪いかなと思いながらも、ついつい聞き耳を立ててしまいました。夜の公園ってとても静かなんですね。細かいところまで全部聞こえました。あのお巡りさんたちもそれが仕事ですから、夜遅くに見かけた未成年者に声をかけること自体は問題ないと思います。でも、話の持って行き方がちょっと強引でしたね。あれだけのやりとりをすれば、守山さんが特に問題のない高校生だってことはわかったでしょうに。それで、よけいなお節介かなとは思いましたが、口を挟ませてもらいました」
学校名、氏名、住所、趣味――すべてはぼく自身の口から出た情報だったということか。
「そうだったんですか。でも、客観的に見れば、ぼくの行動はたしかにあやしいですよね。警察官とのやりとりを聞いて、不審者だとは思わなかったんですか」
男性はにこりと笑って南南東の空を見上げた。
「あれが月齢十二で、双眼鏡で観るとクレーターがきれいだなんて、とっさに思いつく説明ではありません」
そうか、この人には伝わっていたんだ。
「本当にきれいなんですよ。ちょっと観てみますか」
男性の返事を待たずに双眼鏡を手渡した。
「ほほう、思った以上に立体的に見えるんですね。まさに空に浮かんでいるって感じがします」
「そうなんです。ぽっかりって感じがいいんです。三日月だと照らされている部分が狭くて、満月に近いとのっぺりしてクレーターの凹凸があまり楽しめません。球体であることが実感できて、クレーターの美しさも堪能できるのが月齢十二の月なんです。十四番目よりも十二番目の月が好きって歌があってもいいと思っています」
「ユーミンですね。若いのによくご存じだ」と言って、男性は薄く笑った。
「ユーミンもいいけど、スピッツのもいいですよ」
「ん?」
男性は首をかしげ、ぼくは肩をすくめた。微妙な空気。そしてまあいいかという感じで会話はフェードアウトした。
「双眼鏡をお返しします。では、そろそろ失礼しますね」
「あ、はい。長々と引き留めてしまってすいません」
男性は、「おやすみなさい」と告げて、外灯の向こうの暗闇に溶け込んでいった。
おやすみなさい。
ぼくも今日はもう帰ろう。
ショルダーバッグに双眼鏡をしまい、最後にもう一度空を見上げた。
月は薄雲の向こうに隠れ、滲んだ輪郭が白く光っていた。
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