第19話
将来結婚したら専業主婦になってほしいと思っている翔真の前では仕事の話をしないようにしていたし、新商品の広報担当を受けたことも翔真には話さないと決めたから、自然と家庭での会話も減っていき、翔真と最後に話したのがどんな会話だったのか思い出せない。
前はあんなに近かった翔真との距離が遠くなっていることも気づかず、翔真の帰りが遅いことも、翔真の好きな女性物の香水の残り香をつけて帰ってきていることも、追い詰められている翔真のことも、わたしは気づかずに、生き生きと仕事をしていた。
私を見つめる莉緒の敵意にさえ私は気づくことが出来ず、2人を同時に、何度も何度も傷つけていたんだ…。
美里先輩たちの力も借りながらなんとか完成形まで持ってきた企画書は最終段階で躓いていた。
今日も部長と残って企画を出し合うフロアにはいつも通り私たちしか残っていなかった。
「SNSの活用方法が結構大事だと思うんですが、モニターの女の子たちに紹介してもらう時に、もっと心に刺さるアピールポイントを言葉で用意したいんですよね」
「バズるキャッチコピーをSNSの投稿に入れ込むってこと?」
「はい、自社のテーマは「女を綺麗にする」ですよね。今回のパンプスは仕事用、プライベート用の枠に捕らわれず、女性の”美しさ”を痛みや不安なく後押ししてくれる…それをぐっと掴める言葉が欲しいですけど…」
モニターで履いてもらった時の感想リストに何度も目を通したし、テーブルに並べられた全カラ―を上から下から横からを何度も何度も観察して搾りだそうとするけど、喉の奥までも言葉が上がってきてくれない。
ついに頭を抱えてパンク寸前の私に部長が「二宮、履いてみれば?」と軽く言った。
「…え?」
「履いてみればいいじゃん、なんか浮かぶかもしれねーし」
こうやって2人で仕事に取り掛かる時間が多かったせいか、就業時間が終わって少しだけリラックスしている部長はたまに”素”が出る。
「前に履いたときと商品と何度も向き合ってきた今じゃ感じ方が変わるかもしれないし」
そう言って一番ベーシックなのに上品さとセクシーな色気を感じるブラックカラ―を手にとり部長が履かせようとしてくれる。
私には大人過ぎるブラックは似合わないと思って、キャメルカラ―を勧められると思ったのに、部長は迷わず私の好みを読んでくれた。
翔真だったらキャメルを選んだと思う。
私の好みと私に似合うものは違う。
翔真は、私に似合うものを選んでくれる優しさをもった人だから。
部長の綺麗で長い指が私の足に触れると、少しだけ冷たい温度にびくっとなったけど、部長はとくに気にすることなくガラスの靴を履かせるような優しい手つきで私に好みのブラックを履かせてくれた。
両方を履き終えた私が鏡越しで確認すると、初めて自分の好みの色が”私”に馴染んで、より私の持つふんわりした個性と魅力を引き出してくれていた。
「似合うじゃん、前に試着した色よりいいと思うけど」
「……はい、本当はブラックが好みだったんです…」
その時、大きな音を立ててフロアの扉が開けられ、驚いて目線を向けると怒りとむき出しにした翔真と、莉緒がこっちを見ていた。
翔真はそのまま無言で足を向けると私の荷物と私の腕を掴んでそのまま部屋を飛び出してしまった。
一瞬のことで振り返って確認した部長の顔はびっくりしていて、それ以上を確認することは出来ず、エレベーターのボタンを連打して怒りを露わにする翔真に体の震えを止められなかった。
掴まれた腕が痛みで悲鳴をあげそうになり、堪えるために顔を横に向ければエレベーターを待つ私と翔真を見つめる莉緒と目が合った。
莉緒の目はしっとりと落ち着いているように見えるのに、奥では怒りで震えた冷たさを隠すことなく私に見せていて、私は視線をそらして莉緒の怒りから逃げてしまった。
エレベーターに乗り込む瞬間、莉緒が「許さないから…」と呟いた気がしたけど、翔真が鳴らす大きな音に思考が正常に働いた自信がなかった。
翔真、翔真、なんで怒っているの…?
何に対して怒っているの…?
ねえ、なんで、莉緒と一緒にいたの…?
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