6:呪いと陰霖

 暖房が付いているかどうかは関係なく、人が生活する家には温度があるということを、桜の家を脱出するのと同時に思い知った。


「名乗ろうとしただろ馬鹿」

「馬鹿って言う方が馬鹿なんだよ」

「それでいい。それでいいけど詩月は馬鹿だ」


 詩月の手は小さくて、温かかった。手に滲んだ僅かな汗が摩擦を生み、なめらかな彼女の手がほどけることなく繋がれている。


「殺しに戻ろう?」

「待って。落ち着きなさい。深呼吸して」

「はい」


 詩月が唐突に立ち止まったので、手を繋いでいた僕も引っ張られる形で足を止めることになった。僕が犬のリードのつもりで握っていると思っているのか、詩月は僕の手をふりほどくことはしなかった。


「提案がある。思い出して。桜の仏壇には何があった?」

「お札?」

「そう。それから盛り塩もあった。どういうことかわかる?」


 少し考え込んだあと、「わかった!」と言って詩月は人差し指を突き出した。


「桜の幽霊があの人を殺そうとしてる」

「幽霊なんていない」

「じゃあなんだってんだ」


 ここに留まって警察に追われても困るので、とりあえず詩月の手を引いて足を進めることにした。横に並んだ詩月は子どもがするみたいに、繋いだ手をぶらぶらと揺らしている。


「でも、一部正解だ。桜の幽霊が実在するかはともかく、あの人は桜の幽霊に怯えてる」

「いないものに怯えてるの?」

「普通、家に帰ってきて知らない人がいたら逃げるよね? でもあの人は祈るような体勢を取った」

「神様助けてください~ってことじゃないの?」


 それは充分にあり得る。ただ、そのあとの行動を考えると不自然だ。桜の母親は、詩月が声を掛けてからようやく逃げ出そうとした。


 早歩きをしながら説明していたら酸素が足りなくなってきたため、いったん歩くペースを落とす。反応できなかった詩月が僕の背中にぶつかった。


「桜の母親は罪悪感を感じてる」

「重複表現」

「うるさい」


 桜の母親は、詩月が声を掛けてから逃げ出そうとした。


 主観的な言い方ではあるが、こちらが人間だとわかった瞬間に逃げ出そうとしたのではないか。つまり彼女は詩月を見て桜の幽霊と勘違いした、とも言える。


 彼女は桜の幻影に怯えている。それはもう物音や人影を桜の幽霊だと思うほどに。その答えが盛り塩や仏壇のお札なのではないだろうか。


 お札や盛り塩は仏教ではなく、神道が由来だ。一方で仏壇はその名の通り仏教が由来である。ここだけでもちぐはぐなのに、詩月の姿を見た彼女はキリスト教の象徴である十字架に祈っていた。


 彼女はとにかく、なんでもいいから縋る思いで桜の怨念から逃れようとしているのではないか。


「それはわかったけど、殺しに戻らないって話になるのはわからない」

「殺すよりも効果てきめんでパーフェクトなプランがあるってことだよ」

「よし、乗った」

「まず話を聞いて?」


 グーグルマップで周辺を調べると、目的の店は歩いてすぐの場所にあった。しかしなるべく痕跡を残したくないので、少し手間だったが、バスに乗って離れた店を使うことにした。


「ホームセンター? 凶器探しに行くの?」


 バスに乗り込むとき、繋いでいた手がするりと離れた。それまで熱に当てられていた部分を冷たい風が通り抜けていく。その部分を埋めるのにバスの暖房では役不足だった。誤用のほうの意味で。


「殺すことからいったん離れよう」


 それでも座席が狭いおかげで詩月と肩を寄せることになったから、悪い立地にあるホームセンターには密かに感謝をしておいた。コート越しに彼女の小さな肩が触れたとき、心臓の血管が収縮するのを感じた。


「じゃあ何するの?」


 窓の外から入ってくる柔らかな光を、長い睫毛で転がしながら詩月が言う。いつの間にか晴れ間が覗いていた。


「材料を買って藁人形を作ろう。それで、桜の母親を呪う」

「本気?」

「本気と書いてマジだよ」


 もちろん僕はオカルトじみたものを信じているわけではない。ただ、呪いは存在すると思っている。呪いというものは、科学的に説明できるからだ。


 例えば僕に恨みを持っている知人が、僕のことを呪ったとする。もちろん丑の刻参りをされても僕は知る由はないので、日常生活にはなんの支障もない。小さな不幸があっても、運が悪いと思う程度だ。


 ただ、家の前に藁人形が置かれていたらどうか。普段は見過ごすような小さな不運が目に留まり、心のどこかで呪いのせいと思ってしまうに違いない。


 幽霊の存在が実証されていないにもかかわらず、賃貸には心理的瑕疵というものが存在する。事故物件は告知義務があるのだ。


 桜の母親が、いま娘の幻影に怯えているのも同じ原理だ。娘が死んだのは自分のせいという罪悪感が心のどこかにあり、これまで見過ごしてきた事象に勝手な意味を見出してしまっている。


 ホームセンターに藁は売っていなかったので、仕方なく子ども用の人形を購入した。様々な種類があって困ったが、できるだけ不気味な顔のものをと選んだ結果、三頭身でそばかすのある人形になった。


 釘と人形を買うのはさすがに怪しいのでお菓子とジュースを大量に持って誤魔化そうとしたが、セルフレジだったので徒労に終わった。


「これで桜の母親は、今後怯えて生きることになる。全く関係ない不幸とか不運を呪いのせいだと思い続けるんだ」

「最高だ」


 詩月の暴走を抑えるために持ってきた履歴書だったが、結果的には正解だった。剥がした写真を人形に貼り付け、上から釘をめり込ませる詩月はどこか嬉しそうだった。


「ああいう親は、子どもに与えた苦しみのぶん、苦しまなきゃいけない」


 僕たちは神様ではないし、聖人でもない。被害者だからといって加害者を断罪する権利はない。だからこれは、僕たちの完全な自己満足だ。


 桜の母親に呪いを掛けるため、釘の刺さった人形は門外から投げ入れることにした。ソフトボール投げの記録が女子の平均よりも低い僕の代わりに、投げ入れ担当は詩月がやってくれた。情けないが仕方ない。


 それから僕たちは京都市内のホテルに移動し、チェックインを済ませた。素泊まりのプランだったので外食しなくてはならなかったが、近くの定食屋で食べたすき焼きに詩月が頬を緩ませていたから結果的にはよかった。


 風呂は順番に大浴場で済ませた。浴衣姿の詩月は、隙間から覗く鎖骨が生々しくて目のやりどころに困ったが、すぐに「寒い」と言って羽織を纏ったので助かった。


 僕は入口側、詩月は奥側のシングルベッドで眠ることになった。電気を消したあと、横から聞こえる鼻をすする音がいつまでも悲しく乾いた空気に響いていた。

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