5:親殺し
空は雲が点在しており、日が翳ったり現われたりを高頻度で繰り返していた。それにもかかわらず、大気が冷たすぎて陽射しの熱が当てにならない。
桜の家は蕎麦屋から歩いて十五分の場所にあった。
胸の高さしかない門の傍らには、錆びて歪曲したポストと、黄色く変色したインターホンがあった。それなりに広い庭は雑草があちこちで勢力を広げ、玄関に影を落としている。詩月は周囲を見回すと、おもむろに門をよじ登った。
「何してんの?」
慌てて止めようとするが、彼女は勢いを付けて身体を持ち上げると、そのまま桜の家の敷地内へ着地した。周囲に人の影がないのが幸いだった。
「車ないから、たぶん誰もいないよ」
がちゃん、と音を立てて門が開いた。雑草からかろうじて顔を出している石畳の道を詩月が歩き始める。彼女に続いて足を踏み入れたあと、このままでは怪しまれると思い返し、門を元の状態に戻しておいた。鉄製の門は冬の空気を充分に吸っているせいで冷たかった。
「詩月」
「お。窓開いてるじゃん」
彼女の言うとおり、換気の目的なのか裏手の窓が開放されていた。僕が通れるかは試してみないとわからないが、詩月の細身だったら簡単に侵入できるだろうと思った。案の定、彼女はするりと身体を滑り込ませた。
「土足で上がっちゃダメでしょ」
「はあい。あ、今玄関開けるから待ってて」
僕の反応も待たず、詩月の声が遠のいていく。仕方がないので正面に回り、詩月が解錠してくれるのを待つことにした。
引き戸式の玄関は磨りガラスになっており、間もなく詩月の影がぼんやりと映し出された。
「おまたせ」
室内に入ると外の寒さは幾分かましになった。風が遮られるだけでもありがたい。むしろ暖かく感じるから不思議だった。もしかしたら桜の母親が外出したばかりだったのかもしれない。
玄関には女物の靴が複数とローファーが無造作に並んでいた。僕たちの靴は傘置きの影に隠しておくことにした。
「詩月」
詩月がくるりと僕に背を向ける。外見の割に屋内は現代的な造りをしていた。フローリングの廊下を歩いて彼女を追う。足先から体温が奪われていく。
「詩月」
黙ったまま詩月が振り返った。
好きな人から旅行に誘われて思わず付いてきてしまったけど、この旅の目的である「高橋桜の遺書を見る」というのは到底叶わないものだと最初からわかっていた。それは詩月も同じだったはずだ。
桜の母親はろくでもない人間だ。直接でなくても自分が殺した娘の遺書を素直に見せてくれるはずがない。だからこそ不法侵入をはたらいたという見方もできるが、結果論だ。
全ての窓が施錠されている可能性は充分にあったし、むしろそちらの方が現実的だ。
そもそも桜の母親が娘の遺書を大切に取っておくわけがない。
詩月の目的がなんにせよ、法の範囲内であれば目を瞑るつもりだった。
「本当の目的は何?」
「桜の母親を殺す」
詩月が開いた襖の先にはリビングがあった。フローリングの廊下とリビングが襖で繋がれているのが、ちぐはぐな感じがしておもしろかった。
「それにしても、きったない家だ」
「詩月の部屋といい勝負だね」
「私んち最近綺麗だから。舐めんな」
リビングは仏間と思しき部屋と襖で繋がっていた。部屋の端に置かれているのは桜の仏壇だろうか。頭には埃を被っており、遺影と思しき写真立てが裏返しに置かれている。何より異様なのは、仏壇の正面は閉じられ、蓋をするかのようにお札が貼られている点だった。
仏壇の麓に転がっているのは位牌だろうか。ピンク色にラッピングされた壺はおそらく遺骨が入っているのだろう。
「で、本気?」
仏壇の周りにはまるで結界を張るかのように盛り塩がしてあった。もちろん、商売繁盛の類いではないだろう。
「本気だよ。本気と書いてマジだよ」
そう言って詩月が開けたバッグからは、布巾にくるまれた包丁が出てきた。
「銃刀法違反だよ」
「えっそうなの」
風で窓が揺れる。ひとつだけ開いている窓は、部屋の景色からおそらく詩月が侵入するのに使った窓だろう。薄いカーテンがふわりと空気を含む。
「隠しごとが上手くなったね。捨てなさい」
「はあい」
詩月が包丁を放る。ゆるやかな曲線を描きながら包丁は布巾をふりほどき、鋭い刃に鈍い光を反射させながら落下した。ざ、という音を立てて畳に突き刺さったので、思わず噴き出してしまった。
「やっぱり危ないから拾いなさい」
「はあい」
彼女は前に人を殺そうとしたことがある。
相手は桜の母親ではない。その件に関してはそもそも行動を起こす前に僕が止めたので、実現には至らなかった。
詩月が殺人未遂を起こしたのは小学校高学年のときだ。詩月は自分の身を守るため、父親を階段から突き落とした。突発的なものではない。父親が酒を飲んで判断能力を失ったときを狙って、廊下の影で階段を登ってくる父を窺い、力いっぱい押し出した。
小学校女児程度の力とはいえ、突然押されたら成人男性でも反応するのは難しいようで、詩月の父親は呆気なく重傷を負った。報復を怖れて一時的に詩月を僕の家に匿ったことがあったが、詩月の父親はそれ以来娘の幻影に脅かされることとなり、ほどなくして離婚した。
少なくとも詩月は、本気で人を殺すつもりだった。彼女は人を殺せる人間だ。だから僕が彼女を止めなければならない。
高校生になったいま、母親は詩月を怖れつつも世間体のために問題を起こさないよう見張っているらしい。だから、何か注意を受けても詩月が強く言えば意見を通すことは容易かった。
桜が死んだ家で、浴室から寝室まで、僕たちは桜の生きた痕跡を探した。
人は死んだら無になる。天国や死後の世界なんて存在しない。一足先に無になった桜を、僕は羨ましいと思う余裕があった。
桜は詩月が殺人未遂を犯したことを知っているはずだ。そもそも詩月なら「殺せばいいじゃん」と平気で言いそうだ。しかし、苦しみ続けるか、自分が死ぬか、母を殺すか。三択のうち桜は自ら死ぬことを選んだ。
彼女は母親との関係を切ることができなかったのではないだろうか。
女性は自分の性別を自覚させられる場面が多い。最も深い「女」という繋がりを持つ母親を、どうしても捨てることができないのだ。
対して男性は、簡単に親から離れることができる。そういう意味では、詩月は男性的であると言える。彼女は幼いころ、「親殺し」を経験している。
それによって、結果的に親という呪縛から、完全ではないにしても、脱却することに成功したのだ。僕たちに必要なのは「親殺し」だ。直接的な意味でも、比喩的な意味でも。
僕はどうか。
例に倣うと僕は「女性的」だと言える。僕は桜と同様に、母を捨てることができないでいるのだ。
千円札の貯金が大量にあるのに新幹線を使わないことも、近くの大学を志望してしまったことも、自分が愛されていることの証を探しているに過ぎなかった。
僕は誰かの存在を人生の核にしなければ、自己を形成することができないのだ。桜に向けた僕と、母に向けた僕と、詩月に向けた僕が僕の中には存在する。
詩月に向けた僕でいる間、心が柔らかな光で満たされていく気分になる。愛されなかった自分を、愛してやっているような錯覚を抱く。
「遺書、ないね。桜の部屋、どこなんだろ」
ダイニングテーブルを探しているとき、桜の母親の履歴書を見つけた。このまま帰ってもどうせ詩月の気は収まらず、またこの街に繰り出すことになるだろう。だから何かに使えるかもしれないと思い、拝借することにした。殺人を犯すよりはずっといい。
例えば、『この人は娘に暴力を振るい、自殺させた』と投稿してバズらせる、とか。こういうのは内容が事実であることを証明できた場合は罪に問われない、と思う。
「あ」という詩月の声と、玄関の引き戸が開く音は同時だった。
咄嗟に詩月へ視線をやる。声の調子とは裏腹に、彼女は「やば」と、大して焦った様子もなく言った。隠れる間もなく、襖が開かれる。
入った来た女性は一拍遅れてこちらの存在に気づき、足を踏み出す直前で悲鳴を上げた。腰を抜かしたのか、へたり込んだまま祈るように手を合わせている。よく見るとネックレスの十字架を握っていた。
「あ、どうも、お邪魔してまあす」
詩月の声で我に返ったのか、女性は今度こそ逃げ出そうともがき始めた。ただ、やはり腰が抜けていたのか床を這いずり回るだけで、その光景は少し滑稽で笑いそうだった。
「桜のお友だちでーす。覚えてますか?」
そんなので通ると本気で思っているのだろうか。しかし、そもそも僕が不法侵入を止めなかったのが悪い。ただ、桜の母親が繰り出す無様な動きを止めるには充分だったらしい。
彼女は詩月に見覚えがなかったようで、一瞬だけ怪訝そうな顔をしたあと、消え入りそうな声で「どうも」とだけ言った。
「えっ覚えてないですか? 私、し――」
「あっすみません、お線香を上げに来ただけなのですぐにお暇します」
詩月が名乗りを上げそうだったので慌てて彼女の言葉を遮った。不法侵入して名乗る馬鹿がどこにいるのだろう。
女性の右手にはスマホが握られていた。通報される前に僕たちの痕跡を消して逃げるしかない。詩月の手を引き、玄関へと歩みを進める。追ってくる様子はなかったので、門を出たあと、走って桜の家をあとにした。
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