4:母性と弱音

 三人同じ高校に進学したものの、高校受験のころから桜と図書室で話す機会が減り、中学を卒業するとその習慣はぱたりとなくなった。桜が早く家に帰るようになってしまったことが原因だった。


 そんななか、一度だけ桜と図書室で再会を果たした。彼女が引っ越す一週間前のことだった。


「千紘って弱音を吐かないよね」


 桜は放課後の図書室に現われた理由も突然来なくなった理由も挟むことなく、僕の正面に座ると同時にそう言った。


「そうかな?」


 高校の図書室は中学校とは異なり、冷房が届かずサウナのようになっている場所はなかった。棚で入口から死角になる場所はあるものの、少し移動すれば簡単に目に入る。逢瀬に向いている場所といえば屋上に続く階段の踊り場くらいだった。


「なんで?」

「なんでって言われても。ってか昔はよく悩み聞いてもらってたじゃん。放課後の図書室で」

「自分の環境を淡々と説明することの、なにが弱音なの?」


 そう言われると困る。たしかに僕は自分の感情ではなく、事実を述べることが多かった。


 人文学の本は難しいことばかりが書かれている。ここには戦争や政治に関する本が多く揃えられていた。内容は一読しただけでは理解できない。その塩梅がよかった。


 じっくり読み解くほうが脳のリソースを多く使うから、余計なことを考えずに済む。


 この日は宗教に関する本を読んでいた。


「神様なんていないよ」


 桜が僕の手元を一瞥する。


「僕もそんな気がしてる」

「じゃあなんでそんなの読んでるの?」

「気分」

「好きなの? そういうの」

「どうかな」


 様々な宗教が持つ教義には哲学の成分が含まれる。僕はそういった哲学から、人間の存在意義を語る言葉の断片を集めて安心していたいだけだ。


「でも、考えさせられるよ、いろいろと。勉強になる」

「嘘つき」


 誰かが読んで放置したのか、机の端には、カバーが取り払われて裸になった文庫本が置かれている。その表紙には図書室特有の黄色い変色が覗えた。


 桜が文庫本を一瞥し、視線を僕に戻す。裏側にしておいてある上に背表紙はこちらを向いていたので、彼女の側からはタイトルが見えなかったようだ。


 高校生になって以降、両親は口をきかなくなった。僕が義務教育を終えたことで、息子の教育に関して話す機会が減ってしまったのだ。たったひとつとはいえ、話題の喪失はかなり深刻だった。


 テーブルのピルシートは増えた。父が帰ってこない日も増えた。代わりに、母が僕に目を合わせる機会が減った。食事は毎朝テーブルに置かれた宛て名のない千円札で足りた。


「詩月と私に申し訳ないと思ってるからだよ」

「そうかな」


 何の話かわからないまま僕は返事をした。しばらく文章に目を滑らせてから、「弱音を吐かない」という話の続きだったと気づいた。脳の表面を小難しい言葉たちが滑っていく。


 父は、律儀に金だけは口座に振り込む。だから生活に困ることはない。食事も教材も、高校の授業料も問題なく払うことができる。


 酒に酔うと攻撃的になる父親と、世間体のために問題を起こさないよう娘を見張る母親に支配されて生きてきた詩月。離婚後、八つ当たりのように娘を虐げる母親に育てられた桜。


 二人の幼馴染に比べれば僕は平和な家庭で育った。だから苦しみを口にしていいのは僕ではない。


 でも、ときどき思う。痛みを受けていれば、素直に心のうちを吐き出すことが許されたのではないか。


 桜が引っ越したと聞いたとき、自分が行動しなかったことへの後悔に身を焼かれた。でもそれは、僕が、居場所を失ってしまったことへの後悔だ。自分本位だった。


 ただ、後悔と同時に安心していた。それ以上彼女の苦しむ姿を見ずに済む。これも自分本位だった。


 僕は彼女がどこかで心機一転幸せな生活を営んでいると思い込むことにした。結局、彼女は自殺してしまった。


 桜の家は京都市内ではなく、洛外の、名前すら聞いたことのない場所にあった。電車の窓から見える景色は畑ばかりだ。


 なぜ詩月が桜の引っ越し先を知っているのかずっと疑問に思っていたが、どうやら桜が引っ越したあとに二人は文通していたらしい。


「そんで、一ヶ月近く返信来ないから、自殺したんだって。遺書は部屋にあるから、線香よこすついでに取りに来いって、生きてるときに何回か言ってた。だからたぶん遺書はある。たぶんね」

「無茶苦茶だ」

「それはそうと。千紘、やっぱり帰りも新幹線にしない? 貯金してるって言ってなかったっけ」


 たしかに貯金はしている。というより、母が毎日ダイニングテーブルに置く金額は、食費にしては高すぎるのだ。


「あれは将来のための貯金。幼馴染に突然『旅行しよ』って言われたときのためのお金じゃない」

「じゃあ、これからやろう。私が突然『旅行しよ』って言い出したとき用の貯金」

「考えとく」


 詩月はスマホの画面を一瞥すると、おもむろに立ち上がった。少し遅れて間もなく電車が停車することを知らせるアナウンスが流れる。車窓は両側とも森が広がっていた。


「待ってここで降りるの?」

「そうだよ」


 毎秒視界に神社仏閣が入るほどとまでは思っていなかったが、そもそも建物すら見えないというのは予想外だった。過去に修学旅行で来た記憶の面影も残さず、周囲は自然の気配に溢れかえっていた。


「京都市から出たらこんなもんじゃない? 東京だって西側は山しかないし」

「それもそうだ」


 間もなく電車は停止し、僕たちは二人、簡素な作りのホームに取り残されてしまった。


 運賃はICカードが使えないようだったので、駅員に言って精算してもらった。その駅員は耳が遠いようで、「ICカードで乗車した」というたった一言を伝えるのに三十秒も掛かった。


 車内で見た景色とは一転し、案外、駅近くにはそれなりの民家が建っていた。僕たちの住む街では考えられないほど一軒の敷地が広い。コンビニやチェーン店の類いは見られない程度には田舎だ。


 駅前には古い日本家屋を改装したようなそば屋があったので、駅弁以来食事を摂っていない僕たちはそこで簡単に昼食を済ませた。腰の曲がった紳士の手によって提供された蕎麦は出汁と醤油の風味が豊かで、麺ものどごしがよかった。


 すべてのテーブル席から見える位置には映像の粗いテレビが置かれていて、昼のワイドショーが垂れ流されていた。内容は東京で女子中学生が自殺したというニュースだった。詩月はその画面を一瞥したあと蕎麦を啜り、「うまあ」と嬉しそうに言った。


 石油ストーブの匂いが店に充満していて、すこし、懐かしい気分になった。脳内を探っても石油ストーブで温まった記憶はないから不思議だ。


 店を出るとあまりの寒さにマフラーを持ってこなかったことを後悔した。


「寒すぎる」

「だね」

「じゃ、行こっか。桜の家」


 詩月が吐き捨てるように言った。空いた手にはまだそば屋のレシートがつままれている。早々に手がかじかんで諦めたのか、彼女の小さな手は、レシートを靡かせながら身体の側面に移動した。握るには少し、遠かった。

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