3:期待外れの理想像

 新幹線のチケットが思ったより高くて驚いた。


 最初は往復ともに新幹線を考えたが、旅費を計算した結果帰りはバスになった。詩月の計画はあまりに突然だったため、アルバイトで溜めた貯金だけでは旅費を賄うことができなかったのだ。受験勉強のためにアルバイトを減らしていたという正当な言い訳もある。


「荷物、置きましょっかー?」


 ぼうっと窓の外を眺めていると、隣に座っていたはずの詩月がいつの間にかいなくなっていた。声のほうを見ると、杖を付いた年配の女性が詩月に頭を下げている。


 詩月は背が高い方ではないので天井の収納スペースに手が届くか心配だったが、つま先立ちで何とか高さを稼いだようだった。


 手を貸そうかと思ったが杞憂だったらしい。


「飴もらっちゃった」


 戻ってきた詩月の小さなてのひらにはレモン味ののど飴が乗っかっていた。


「一足先に関西気分を味わってるわけだ」

「大阪のおばちゃんだよ、飴ちゃんくれるのは。これから行くのは京都」

「そうだった」


 新幹線が動き出し、慣性の乗った身体が柔らかい背もたれに貼り付く。やがて慣性は緩やかになり、窓の外には背の高い建物が次々と移ろっていった。


 東京駅で買った朝食用の弁当は二駅目で空になり、フックから下がるビニール袋に二人ぶんまとめて収まっている。


 詩月と桜の関係は、僕と桜のそれよりも深く繋がっている。桜の家庭をどうにかするため、あの図書室で話した内容を詩月に打ち明けたことがあったが、彼女たちはすでに僕の知らない場所でそういった事情を共有していたようだった。


 同性ということもあってか、二人は一緒に遊ぶことが多かった。それもほぼ毎日と言っていい。輪に入れてもらえなかった僕がそのことを知っている理由は、詩月への恋心が暴走してつけ回していたとかでは決してない。


 僕の思いに気づいていた桜は、よく詩月の写真を送りつけてきたのだ。しかも、桜は詩月の写真を撮る能力が卓越していた。


 それは横顔だったり、パンケーキを頬張りながらこちらにピースをするする詩月だったり、どれもふとした瞬間なのに、詩月の愛らしさと美しさをまったく損なわなかった。


 彼女を失ってしまったのは惜しい、という不謹慎なことを思った。


 でも、あのとき僕が行動を起こしていれば、という思いもある。でもこれは結果論に過ぎない。僕が選択を間違えたというだけだ。


 ちなみに写真は、保存するのは気持ち悪い気がしたので、桜に頼んでラインのアルバムを作ってもらった。思い返すとこれはこれで気持ち悪い。でもそのおかげで僕はいつでも過去の詩月を眺めることができるのだ。さすがに本人には言えないけど。


「千紘が私を遺して自殺するんだったら、どこに遺書を隠す?」

「なに、その質問。もしかして桜の遺書がどこにあるか知らないの?」

「知らないよ。でも、家にはある。と、思う。たぶん、絶対に」

「マジか」


 彼女が元々杜撰な性格であることは充分に知っていたはずだったが、まさか遺書の場所を知らないまま京都旅行を計画していたとは驚きだ。


 ただ単に、桜の死を口実に僕と旅行をしたかっただけというのは考えが甘すぎるだろうか。


「僕は詩月を遺して死なないよ」


 言ってから恥ずかしくなって窓の外へ視線をやった。それなのにちょうどトンネルに入ったせいで窓の反射越しに詩月と目が合うから困った。詩月は深くは捉えなかったのか、あっけらかんとした表情をしていた。


「死ぬときは私と一緒に死ぬってこと?」

「うーん、まあ、そう捉えてもらってもいい」

「おっけ。運命共同体。幼馴染最強。お前はソウルメイトだ」

「その飴ちゃんどうするの」


 おばちゃんからもらったという飴玉は、いったん置いておくといった調子で彼女の太股に乗せられて以来、絶妙なバランスでその座に君臨し続けていた。新幹線とはいえそれなりに揺れるはずなのに、ずいぶんと器用な飴ちゃんだ。


 どうしよう、と呟いた彼女の太股が黒いワイドパンツの内側でぬるりと動いた。転げ落ちた飴玉の先には彼女の手が待ち構えている。


「飴は食べたい。でも、食べたら千紘と喋れない」

「別に喋れるだろ」

「考えてみ? 喋ってるJKの口から突然飴ちゃん出てきたら情けなさすぎるでしょ」

「おもしろいと思う」


 彼女の口から飴玉が転がり出る様子を想像してみたところ、その絵面があまりに滑稽すぎて思わず笑ってしまった。


 詩月が突然「うわっ」と言って顔をしかめたのは新幹線が新大阪駅を発車したころだった。間もなく京都に到着する。


「どうした?」


 詩月がスマホの画面をこちらに向ける。その瞬間に画面が暗転したので突き返すと、彼女は大して画面も見ずに暗証番号を打ち込んだ。1221。詩月の誕生日だ。


『ごめ~ん サンシスで詩月のお母さんに会っちゃった~ ってか私と旅行するってことにしたなら私にも言っといてよ!』


 画面から顔を上げると詩月が僕を見ていてドキッとした。


「海莉に言わなかったの?」

「言わなかった……」

「はい、馬鹿。おばかさん」


 サンシスとは詩月の家の前にある地元スーパーだ。サンシスというのは略称だが、聞き慣れすぎて元の名前は忘れてしまった。海莉なら別のスーパーを使うくらいの配慮はしてくれただろう。


「ってか、」


 そもそもなぜ詩月は母親に海莉の名前を出したのか。個人名を出さなければあとでいくらでも言い訳できた。


 そう言おうとしてやめた。この文章は詩月と親との関係に関するニュアンスを含んでいる。


 ただ、言おうとしたことをやめてしまったものだから、この場には僕が口を開いたという事実だけが残り、周囲に立ちこめた妙な気まずさをなんとかやり過ごさなくてはならなくなった。


 だから、タイミングよく流れた『間もなく京都――』というアナウンスを人生で初めて信仰の対象にしようと思った。


 母親からのメッセージが間もなく画面上部にポップアップを作った。最初の三行からすでに長文の香りがする。文章を読むのはいったん諦めて、僕たちは新幹線を降りる準備を始めることにした。


 とは言っても僕たちはリュックサックと駅弁のゴミくらいしか用意するものがなかったため、瞬く間に手持ち無沙汰に陥り、結局車内でメッセージを読むことになった。


 あまりの長さに詩月は途中で飽きたのか、僕の目がメッセージの半分を通過するころにはすでに窓の外を眺めていた。


「えーっと。『いいから黙って言うこと聞いてろよ。帰ってきたら覚えとけ。問題は起こすな。早く帰ってこい』って感じかな、要約すると」


 新幹線から降りると、飾り気のないホームをエコーの効いたアナウンスが這い回っていた。加えて空気の擦れる音や人々の喧騒で、僕の吐き出した声が埋まってしまいそうになる。


「最悪だ。なんて返したらいいかな。あー、いいこと思いついた。『黙れ、殺すぞ』っと」

「貸しなさい。スマホ」

「はあい」


 スマホを受け取り、1121、彼女の誕生日を入力する。たぶん彼女も僕のパスワードを知っている。前に、パスワードを変えたのにもかかわらずその日のうちに破られたときは驚きを通り越して怖かった。


 電話を掛けると、彼女の母はすぐに応答した。


「千紘です」


 電話の向こうから薄く舌打ちが聞こえた。


『千紘くん? 詩月と一緒なの?』

「はい。ちょっと訳あって京都に来てるんですけど」


 詩月は自販機の前にいた。硬貨を投入したあと、そのまま棒立ちしている。視線の高さからして、ココアとコーンポタージュで迷っているのだろう。


『あのね、あなたたちまだ高校生でしょ? 許可も取らずに二人で旅行なんて――』


 詩月が迷っている間に、サラリーマンが背後に並んだ。彼女は気づかずに自販機の前で頭を抱えている。


 この状態に陥った詩月が潔く選択することはまずあり得ない。このまま放置するとサラリーマンが飲み物を買えるのは夕方になってしまうため、こっそりと彼女に忍び寄り、ココアのボタンを押してやった。


 今彼女が飲みたいのはココアだ。コーンポタージュは絶対に飽きる。残りを押し付けられては堪らない。肩を軽く殴られたが、ココアを回収してさっさと撤収する。


「すみません、僕が強引に誘ったんです。ちょっと、訳があって。帰ったら必ず話しますので」


 言い訳のほうこそ強引だが、このまま強制送還させられては困る。僕たちは桜の遺書を回収しなければならないのだ。長々と言葉を垂れ流している彼女の母親には「すみません電車が来たので」とだけ言って通話終了ボタンを押した。


「どうだった?」

「あとで謝りに行くわ」


 詩月と母親を対立させると、詩月が何を起こすかわからない。僕は他でもない詩月のために、二人の仲をうまく保たなければならないのだ。


「ありがと」


 スマホを返すと詩月はココアを持った方の手で器用に受け取った。ココアを飲みきるまで中指と薬指の間で支えられていたスマホは、僕たちが改札を出て缶を捨てるまで結局落下することはなかった。

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