2:くもり、時々晴れ

 僕たち三人は家が近いこともあって昔からそれなりの交流があった。それぞれの家庭に問題があると知ってから思い返してみれば、当時の僕たちは心の穴を埋めるのにちょうどいい相手だと本能的に感じ取っていたのかもしれなかった。


 中学生になると、家に帰るのが嫌な日は図書室で時間を潰すのが日課になった。


「家に帰るのが嫌な日」というのは曜日が決まっている。父が残業をせずに帰ってくる火曜日と木曜日だ。


 残業、というのが本当なのであれば僕は家族団欒の場に顔を出し、父に心から労いの言葉を掛けていただろう。


 父は不倫をしていて、ほとんど家に帰ってこない。そのせいで母親が精神的に病んでしまい、ダイニングテーブルには常にピルシートが散乱するようになった。おそらくそれは父に見せつけるつもりでやっているのだと思うが、あまり効果はないようだ。


 母は「またあの女と会ってるんでしょ」と鳴く。対して父は「変な言いがかりはよせ」という言葉を得意としている。


 そして波長が合わないせいなのか、僕の声は二人の耳には届かないようだった。二人の可聴域を探るのは、スマホの電波が届く場所を探すよりも難しい。


 夏の間、放課後の図書室は、テスト期間を除いて生徒が利用することはほとんどない。冷房が効かない図書室にわざわざ訪れる物好きはいないのだ。僕と、もう一人を除いて。


 夏の間、女子は白いワイシャツに紺色のプリーツスカート、それから膝下まであるソックスを穿くスタイルに決められている。ただ、僕が図書室の扉を開けたとき、桜の右脚は何にも覆われていなかった。左は靴下を脱いでいる途中だった。


「あ」


 白い肌には青と黄色がぐちゃぐちゃに混ざり合って、たまに赤く滲んでいる場所もあった。彼女との距離は十メートル程も離れていたはずだし、その脚を見つめていた時間もそれほど長くはなかった。ただ、一瞬で彼女の脚が脳裏に刻み込まれた。


 桜は驚きと後悔がちょうど半分ずつ入り交じった顔を、一瞬で平静に戻した。一方の僕は幼馴染の身体に刻まれた異常な傷に、内心情けないほど動揺してしまっていた。


「どうしたの、それ」

「転んだ」


 昔、詩月の父親が酒に酔うと暴力を振るう人だった。桜の傷のつき方は詩月にそっくりだった。だから彼女の言葉が嘘であることは容易に看破できた。


 こういうときの心の融かし方は詩月のときに学んだ。親から当たり前に受けるはずの恩恵をどこかで堰き止められて生きてきた人間は、似たような問題を抱える相手に心の内を話しやすい。


 これは自分にも当てはまることだった。だから一般項として取り扱っても問題ないはずだ。


「僕の父親さ、不倫してて家に帰ってこないんだよね」


 するりと桜の脚から靴下が抜けた。あらわになったつま先が曇り空に照らされる。「そうだったんんだ」、桜が目を伏せて言う。


「でしょ。母親も毎日ヒステリックで最悪。たまに手、出してくるし」


 曖昧に笑いながら彼女は立ち上がった。がたん、と音を立てて椅子が倒れる。


「おなか」彼女が呟いた。


「なに?」


 僕の問いには答えず、本棚が並ぶ図書室の奥へ、彼女は素足のまま歩いていった。一応僕も立ち上がって椅子を戻し、彼女のあとを追う。


「おなかにもっとすごい傷がある」

「へえ」


 人文学関係の書籍がある最奥の棚付近は特に空調が届かないことで有名だった。熱気が籠もる構造をしているのか、噂に聞いていたとおりたしかに暑い。そもそも図書室自体が暑いのだが、人文学書コーナーは格別だった。


 きっと、窓から差し込む日光や空調の配置も悪さをしている。カーテンを付けるべきという意見は出なかったのだろうか。


 そんな不満が湧き上がるが、埃を被った書籍たちを見てすぐにわかった。人文学書を読みに来る人間がそもそもいないのだ。たしかに小難しいタイトルばかりが並んでいて手に取ろうとは思わない。司書の好みで取り寄せられたものだろう。


 窓を開けようと彼女が奮闘している間に僕たちは汗をかいた。立て付けが悪いのか、結局窓は開かなかった。


「千紘は生理が来なくなるくらい強く殴られたことある?」

「えっと、なに? 僕の話?」

「うん」


 何を言っているのかと思って訊き返してみると、彼女は本気で男に月経があると信じ込んでいるようだった。


「えっ、血、出ないの?」

「どこから出るんだよ。男の場合」


 彼女は考えこんだように喋らなくなった。その間もあまりの暑さで身体中に汗が滲む。結局彼女は結論づけることを諦めたのか、スカートからワイシャツを抜き始めた。


「なにしてんの」

「見せてあげる。傷」

「いいよ、別に」


 僕が断っても彼女は手を止めなかった。やがてシャツを抜くよりもそうするほうが早いことに気づいたのか、彼女はおもむろにスカートをたくし上げた。下着を隠す目的であろう黒い肌着が、青と黄色が入り交じった白い肌で目立っている。


 汗で濡れた彼女の下腹部には、内側で破裂したような青色が滲んでいた。「もっとすごい」という言葉の通り、脚の痣をかき集めても及ばない大きさをしている。へその下あたりを彼女が指でなぞると、終着点に集まった汗が雫となり、黒い肌着に小さな染みを作った。


「どう?」

「曇ってる日の空みたいで綺麗だ。ほら、ちょうど今日の空」


 自分でも何を言ってるかわからなかったが、その日の空は本当に、ちょうど彼女の傷と同じような色をしていた。桜は穏やかな顔で笑った。


「ねえ」

「なに?」

「人ってなんで生きてるんだと思う?」

「質問が抽象的すぎるよ」

「誰からも愛されない人間って、生きてる意味あるのかな」


 心臓が一瞬だけ動きを止めた。言葉が鋭利な刃物に姿を変え、眼球に触れる直前で止まっている。傷つけるのにちょうどいい機会をじっと窺っている。


 私は死にたい、と桜が言った気がした。


 本当に微かな声だったしそもそも彼女が声を発したかも怪しいほどだったので、僕は結局その言葉に言及しなかった。


 それ以降、彼女とは図書室で話すようになった。ただ、桜が自分の話をしたのは最初の一日だけだった。彼女は僕の問題を指先で器用につまみ上げ、ささくれた部分を優しく均してまた身体に戻す、ということを続けた。そして僕も彼女の包容力に甘えた。


 手を貸したいけど僕にできることなどほとんどなかったし、勝手に大人に相談されたくないことは自身の経験からや詩月の話からわかっていた。


 僕にできることは何もなかった。そうしてたまの放課後に話を聞く日々が続いたあと高校生になり、桜は僕たちの前から姿を消した。

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