いのちのゆくえ

新代 ゆう(にいしろ ゆう)

1:死んだらしいよ

「京都行かない?」


 ポテトの油でべたべたになった人差し指をこちらに向けて詩月しづきが唐突に言った。僕は彼女の意図を汲むことができず、黄色い照明で鈍く光っている彼女の指先を見つめながら、眉間に皺を寄せることしかできなかった。


 よく見ると指先には小さな塩の結晶が無数に付いている。


千紘ちひろめっちゃ寄り目」

「うるさいな」


「でね?」、詩月の指先が眉間に押し付けられそうなほど迫ってくるのでさすがに手首を掴んで止めた。彼女の細い腕は強く掴むと折れてしまいそうで怖い。


 店内は暖房が効いているとはいえ、こんなに寒い日でも詩月は体温が高い。対して僕の手はまだ暖房に馴染んでいなかったようで、手を引っ込めた詩月は「冷たい」と言って僕を睨んだ。僕の手にはまだ、彼女のなめらかな熱が残っている。


「手、拭きなさい」

「はあい」


 詩月が手に取ったのはトレーの端っこで団子のようになっているダブルチーズバーガーの包み紙だった。バーガーソースとチーズがこびりついた包み紙で彼女の手が綺麗になるとは到底思えなかったので、重たい参考書ばかりが詰め込まれたリュックのジッパーを引き、ポーチを探る。


「ウェットティッシュくらい持ち歩けよ」


 ありがと、と言って彼女がぴっちり手を合わせたせいで、綺麗だった方の指先にポテトの油が移動した。仕方がないので一枚取り出して彼女に差し出す。


「で、本気?」

「本気だよ。本気と書いてマジだよ」


 離れた席にいた女子高生のグループから明るい笑い声が上がった。ハイコントラストに彩られた店内で、甲高いの声は不思議とまろやかに響く。おそらくどちらも同じ色彩を持っているのと、それから長時間居座っている僕の耳自体が店に馴染んでいるせいだと思う。


「知ってる? 自殺したんだよ」

「誰が」

「あの高橋が」


 日本の苗字ランキング上位の常連なだけあって、僕たちの周りには高橋の苗字を冠する人物がたくさん存在している。


 最初に浮かんだのは僕のバイト先で社員をしている高橋さんで、次が「E判定取りそう」と言いながらいつも模試でA判定を叩き出すクラスメイトの高橋だったが、詩月が話題に挙げた高橋さんはそのどちらにも該当しなかったようだ。


「誰だよバイト先の高橋」

「知らない? 仕事の話を装って女子大生にアプローチすることで有名なんだけどな」

「知らないよ。知るわけないじゃん。千紘のバイト先事情」

「しかも奥さんと子どもがいる」

「最悪だ」


 彼女はそう言い捨てるとおもむろに僕のトレーを引き寄せ、ナゲットのマスタードソースにハンバーガーをディップし始めた。味が混ざるからやめてほしい。


 高校の最寄り駅にはカラオケやボウリング場といった娯楽施設がないので、東高生のほとんどが隣駅に移動して放課後の有り余った時間を潰すことになる。ただ、すれ違う東高生の多くは下級生だ。


 きっと三年生の十二月に受験勉強をサボる馬鹿は、人の気も知らずに「京都行こう」などと唐突に言い始めるちょっと抜けた女子生徒と、思い人に誘われたからというだけの理由でハンバーガー屋に来てしまった男子生徒くらいだ。


「で、どの高橋?」

「高橋さくら


 こういうとき詩月は顔に出ないからすごいと思う。


 一方の僕は騒がしい店内をぐるりと見回して、情報処理の追いつかずに俯瞰しようとして失敗し、それでもなんとか平静を装って出てきた言葉は「あー、あの高橋ね」だった。


 彼女のことを思い出すとき、いつも心臓の底を暖かい風が通り抜けていく気がする。


 一昨年くらい、詩月と一緒に古いアルバムを見たときにもこの感覚を味わった。でも懐かしさとは少し違う、どちらかといえば受動的な包容感に近い、どこか安心するような気持ちだ。


 それが悪性のものか良性のものかは関係なく。


 向かいのドーナツ屋はタイムセールでも開始したのか、いつの間にか行列ができていた。


「そうだよ。あの高橋だよ」

「……へえ」


 不自然に小さくなってしまった返事を誤魔化すため、「懐かしすぎてびっくりした」と笑いながら言ってみたけどたぶん無意味だった。


「死んだらしいよ、桜」


 詩月がナゲットを口に放った。彼女は、ナゲットを頼むくらいならポテトを頼むという強い思想の持ち主だ。頼んでたっけ、と思って机に目をやると僕のトレーからナゲットの容器が消えていた。


「そっか」

「うん。だから、遺書探しに行こ」

「遺書? 京都に行こうってそれ?」


 ブラックホールにでも吸い込まれたかのように、桜は二年前、唐突に僕たちの前から姿を消した。詩月の言葉から察するに、京都の地にはホワイトホールがあるのだろう。


 ただ、彼女が遺書を書いて自殺したという話は初耳だった。


「だから京都、行こ? 次の冬休み」

「無理だろ」


 いくら僕たちが人生の大半を幼馴染として過ごしているからといって、高校生の女の子が男と二人きりの旅行を許されるはずはない。普通の家庭であればという前提はあるが、それを抜きにしても問題が山積みだった。


「大丈夫。海莉かいりと行くって言うから。ってか言ってある」


 いつも詩月に振り回されている不憫なクラスメイトの顔を思い浮かべる。


 でも、正直そんな気はしていた。詩月が事前報告をしたことといえば小学生のときに好きな男に告白しようとしたときと、中学生のころに人を殺すと言って暴れ出したときくらいだ。


 ちなみにどちらも僕が阻止した。前者は相手が気にくわなかったからで、後者はもちろん詩月を殺人犯にするわけにはいかなかったからだ。


「私の親はこれで大丈夫。千紘の親は何も言わない。つまり完璧」

「そうだね」


 じゃあ旅行計画を、と彼女が広げたノートにはすでに計画の大部分が記されていた。宿、交通手段、旅費など僕が心配していたことは彼女がすでに計画済みだ。


 こうして高校最後の冬休みに、僕たちは桜の遺書を探すために京都へ旅することになったのだった。

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