隠者とばら

花森ちと

 秋へ色づきはじめた庭に、一輪のばらが咲いていました。

 はじめて咲いた淡いピンクのお花で、真っ青なお空を仰ぐそのすがたは、まるで幼い少女のようでした。この庭の主は『エミット』という名の青年で、彼はばらに水をやるために毎朝庭へ訪れました。それは彼の日課の1つにすぎませんでしたが、なによりも大切な息抜きでもありました。

 エミットは水をやるときは必ず「おとぎ話」を語ります。それはばらへ聞かせるように語るのではなく、独り言を零すかのようなか細い声でつぶやくのです。

 ですがある日を境にエミットは姿を見せなくなっていました。何日も待っていたばらの花びらはたちまち萎れています。なのにどれだけ待ってもエミットは現れません。ばらはエミットがどうして庭へ来ないのか考えました。どんなに考えたってさっぱりわかりません。ふと、ばらはエミットの声を思い出しながら「おとぎ話」をつぶやいてみました。ばらは物語を覚えていたのです。それはばらが他の花と比べて賢い花だったということもありますが、一通り話し終えると次の朝には物語をはじめからまた語り始めるというエミットの癖のせいでもありました。

「『灰色の街』のどこかに幸せな家族が暮らしていました」

 ばらは物語を少しだけ覚えていて嬉しくなりました。そしてエミットのことを思い出してつい泣きそうになってしまいました。

 ばらは物語を真似るとき、口から言葉がスラスラと流れ出たわけではありませんでした。物語の欠片を少しずつ捻り出し、それからしばらく考え込むという唱え方でしたので、ようやくひとフレーズを終えた頃にはかなり時間が経っていました。

 空は黒い雲で覆われて遠くの方では雷鳴が轟きました。庭のずっと先の森では木々が激しく波打って、つめたい北風の群れがばらのそばをビューッと吹き抜けていきます。

  ばらの心は黒い力に絞め潰されました。このまま永遠にエミットが現れなかったらどうしようかと不安になったのです。すると頭上から声がしました。ばらはエミットが帰ってきたのかと思って嬉しくなりました。しかしそれはエミットのやわらかい声ではなく、掠れた低い声でした。

「おやおや、こんな辺鄙な田舎に愛らしい女の子がいるぞ。可哀想に、泣いているじゃないか。どうしたんだい? おいらに話してごらんよ。ちょっとは楽になると思うぜ。安心おし。おいらは悪いやつじゃあない。おいらはさすらいの旅人、木枯らしさ。遠いとおい北国からこっちへ渡ってきたところなんだ」木枯らしは自慢げに名乗ります。

「エミットが来てくれないの」

「そりゃあ誰だい?」

「この庭のご主人さまよ」

「ふーん、エミットねえ。エミット……」木枯らしはビュンビュンうねりながら素早い思考を巡らせます。「あ! そういえば東の塔に棲み着く竜が黒髪の若い男を捕えようとしてるって風の噂で聞いたことがあるな。男の名前は知らねえが、もしかしたらそいつがお嬢ちゃんの言うエミットかもしれないな」

「東の塔? それはどこにあるの?」

「庭を出てから、森を抜けて、そうして見える街のどこかにあるんだ。だけどお嬢ちゃんには難しいと思うぜ。君は地面に植わっちまっているからな。おいらみたいに空を飛べないとすると、東の塔に行くにゃ丈夫な脚と器用な腕が必要なんだ」

「どうしたらその脚と腕をもらえるの?」

「おいらには神さまからいただく以外に考えられねえな。だが今からではもう遅い。生まれる前に、天国におわす神さまの気まぐれによっておいらたちの運命はすべて決まってしまうのだからさ」

 すると庭の門のずっと向こうから『おーい、木枯らし! モタモタしてると置いていくぞ』と掠れた大きな声が聞こえてきました。

「いっけねえ、仲間が呼んでいる。おいらはもう行くからさ。エミットにまた会えるといいな、お嬢ちゃん」木枯らしは「それじゃ」とひと声あげると一瞬にして燃えるような秋の森へ溶けていきました。

 ばらはまた独りになってしまいました。ですが木枯らしが来る前とはちがって、今のばらは脚と腕がさえあればエミットを探しに行けるという希望を手にしていました。しかしそれはどうやって手に入れるのでしょう。木枯らしは神さまの気まぐれで運命はすべて決まると言っていました。そして運命は生まれる前に決まるのだと。それでもばらは考えました。

「あたしたちの運命が『神さまの気まぐれ』という不確かなもので決まってしまうのなら、『生まれる前に』なんてタイミングもきっと朧気なものに違いないわ」

 それからばらは必死になってお空におわす神さまへお願いしました。

「どうかあたしに丈夫な脚と器用な腕をください。これがどんなに困難なお願いかはわかりきっています。エミットにまた会えるのなら、あなたから戴けた脚と腕をあたしから奪っていいのです。だからどうかあたしに丈夫な脚と器用な腕をください」

 するとお空を覆っていた黒い雲はばらの頭上だけ晴れて、やわらかな暖かい光がやさしくばらを包みこみました。「神さまはあたしの願いを叶えてくれるのだわ」と、ばらはあまりの嬉しさに胸が熱くなりました。そうしたら、やわらかくなっていた茎はどくどく脈を打ち始め、萎れた花びらは咲いたばかりの頃のように高貴なピンク色を取り戻しました。

 そしてばらに今までなかった感覚が4つ生まれました。ばらの蔦と根がその4つに集まって、あたかもニンゲンの脚と腕のようになっていたのです。

 ばらはその身では収まりきらない喜びに胸を高鳴らせながら、できたばかりの四肢を器用に使って地面から這い上がりました。そしてこの庭を森を繋ぐ門をじっと見定めます。

「神さまから貰ったこの脚と腕で東の塔へ旅に出よう。エミットの話をもう一度聞きに行くんだ」

 森の木々たちがこれからの波乱を噂するようにひっそりとざわめいていました。

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隠者とばら 花森ちと @kukka_woods

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