第3話 別れの日
退院の日が近づいていた。私にとって、それは待ち望んだはずの瞬間のはずだった。家に戻り、普通の生活に戻ること。それをずっと望んでいたのに、今は心の中にぽっかりと空いた穴のような感覚が広がっている。
「彩さん、来週には退院できそうですね。良かった、本当に良かったです。」
美穂さんは、いつもと変わらない明るい声でそう言った。彼女の笑顔を見て、私は思わず目を逸らしてしまう。退院することが嬉しくないわけじゃない。でも、これで彼女との日々が終わってしまうのだと思うと、胸が締め付けられるようだった。
美穂さんは私が黙り込んでいるのに気づいたのか、ふっと優しい目をして言った。
「退院するの、不安ですか?」
私は小さく頷いた。退院後の生活がどうなるのか、ちゃんとやっていけるのか、そんな不安が頭の中で渦巻いていた。美穂さんに出会う前の私は、ただ孤独に耐えるだけの毎日だった。でも、彼女との交流を通して、自分が変わり始めたことに気づいていた。そんな時に、一人になるのが怖かった。
「彩さん、大丈夫ですよ。これまでここで頑張ってきたんですもの。きっと、これからも少しずつ前に進めます。」
美穂さんの言葉は、いつも私を勇気づけてくれる。彼女は私を弱い存在とは見なさず、私の強さを信じてくれている。そう感じると、少しだけ前向きになれる気がした。
「…美穂さんと話していると、少し元気になれました。退院したら、どうなるんだろうって思ってて…」
自分の気持ちを打ち明けるのは、まだ少し勇気が必要だった。でも、美穂さんはいつも通り、私の言葉を静かに聞いてくれた。
「もし、彩さんが不安になったら、ここで話したことを思い出してみてください。辛かったことや楽しかったこと、いろんなことを一緒に話しましたよね。あれは、全部彩さんが前を向くための大切な時間だったんです。」
美穂さんの言葉に、私は涙が溢れそうになった。自分のことをこんなにも大切に思ってくれる人がいる。それがどれほど心強いことか、初めて知った気がした。
「…美穂さん、本当にありがとうございました。」
やっとのことで、私はその言葉を口にした。美穂さんは、私の目を見て静かに頷いた。
「こちらこそ、ありがとう。彩さんに出会えて、私もたくさんのことを学びました。」
美穂さんがそう言うとき、彼女の目にも少しだけ涙が浮かんでいた。
退院の前夜、私は病室の小さなデスクに向かい、ずっと考えていたことを書き始めた。美穂さんに感謝の気持ちを伝えたくて、でも、面と向かっては言えなかったから。言葉で伝えられなかった思いを、丁寧に一文字一文字、紙に綴っていった。
退院当日。美穂さんは、いつも通り明るい笑顔で病室に現れた。私の手続きが終わるまでの間、彼女はそっと私の隣に立っていた。手元には、小さな花束と一緒に、彼女がいつも身に着けていた手作りのしおりがあった。
「彩さん、これ…よかったら、持って行ってください。何かを読んでいるときに、少しでも私のことを思い出してくれたら嬉しいです。」
そのしおりは、彼女が夜なべして作ったものらしかった。心のこもった贈り物に、私は胸がいっぱいになった。言葉が詰まって出てこない。でも、そんな私を見て、美穂さんは微笑んで言った。
「退院後も、元気でいてくださいね。これからも、彩さんなら大丈夫です。」
「…ありがとう、ありがとう、美穂さん。」
声が震えた。私の目から、涙が次々と溢れ出した。美穂さんはそんな私の肩を優しく抱きしめ、何も言わずにそっと背中を撫でてくれた。その温もりが、私の心に深く染み渡っていく。
「さようなら、彩さん。またいつか、どこかで会えるといいですね。」
「さようなら、美穂さん。」
その瞬間が、永遠に続くように感じた。でも、時間は止まってはくれない。美穂さんは私を優しく見送り、私は病院を後にした。
病院の外に出ると、暖かい春の日差しが私を包み込んだ。新しい季節の風が、私の髪をそっと揺らす。美穂さんがくれた花束を胸に抱え、私はゆっくりと歩き出した。
これからの生活がどうなるかは分からない。それでも、私には信じられるものがあった。美穂さんとの日々が、私に勇気をくれた。彼女が私を信じてくれたから、私も自分を信じて前に進もうと思えた。
病院を振り返ると、窓の向こうに美穂さんの姿が見えた気がした。彼女の笑顔が、私を見守っているように感じた。
「ありがとう、美穂さん。これから、頑張って生きていくね。」
そう心の中で呟き、私は新しい一歩を踏み出した。彼女との3ヶ月間の記憶を胸に、私はこれからの日々を強く生きていく。
この出会いが、私の人生にどれほど大きな意味を持つのかは、これから少しずつわかっていくのだろう。彼女との別れは寂しいけれど、その先にある未来は、きっと輝いていると信じて。
付添婦の3ヶ月日記 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92
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