第2話 心を開く瞬間

美穂さんが付添婦として来てから、一ヶ月が経った。彼女が来ると、病室の雰囲気が少し明るくなるような気がする。それは、私が抱えていた重苦しい孤独感を少しずつ和らげてくれた。


「彩さん、今日はどうですか?体調は変わりないですか?」


いつものように美穂さんが声をかけてくれる。私はうっすらと微笑んで「大丈夫です」と答えた。以前は、こんなふうに自然と微笑むことすら難しかったのに、今では少しずつ心が解きほぐされていくのを感じていた。


「それは良かった。今日はちょっとしたサプライズがあるんですよ。」


彼女はそう言うと、バッグの中から一冊の本を取り出した。古びた装丁の小説だった。


「これ、彩さんが話してた本ですよね?私も読んでみたくなって、古本屋で探してみたんです。そしたら、思いがけず見つけちゃいました!」


それは、私が高校生の時に読んで感銘を受けた、ある作家の短編集だった。病室で退屈しのぎに話したことを、彼女が覚えていてくれたのだ。


「どうですか、今度、一緒に読んでみませんか?もし良ければ、お互いの感想なんかも話してみたいなって。」


私は驚きと同時に、胸が温かくなるのを感じた。自分の話が、他の人にとってこれほどまでに重要だったことなんてないと思っていたからだ。美穂さんのその言葉に、心の奥で固く閉ざされていた扉が、そっと開かれるのを感じた。


「…ありがとうございます。嬉しいです。」


それだけ言うのがやっとだった。美穂さんは「良かった!」と嬉しそうに笑った。その笑顔が、私の心に優しく触れる。


それから数日間、私たちはその本を少しずつ読み進めていった。美穂さんは、物語の中に出てくる小さなエピソードにも感動し、時には涙を浮かべながら、私に感想を話してくれる。


「この登場人物、彩さんに少し似てる気がします。孤独を感じているけど、周りの人には優しさを忘れないところとか。」


彼女の言葉に、私は少し照れくさくなった。そんなふうに誰かに自分を重ねられるなんて思いもしなかったからだ。


「私は、そんな立派じゃないです。ただ…どうしても人と距離を置いてしまうんです。裏切られるのが怖くて。」


ぽつりと零れたその言葉は、自分でも意外だった。なぜ彼女にこんなことを言ったのか、すぐには分からなかったけれど、彼女の優しい眼差しが、それを受け止めてくれると感じたからかもしれない。


「彩さん、誰だってそうですよ。怖いのは当然です。でも、そんな中でも少しずつ、誰かを信じようとすることが大切なんだと思います。」


彼女の言葉に、私は少し泣きそうになった。自分の心の中にずっと抱えていた恐れや不安を、彼女は分かってくれているように思えたのだ。思わず、涙がこぼれそうになるのを、私は必死にこらえた。


「美穂さんは、どうしてこの仕事をしてるんですか?人の世話をするのって、大変でしょう。」


美穂さんは少しだけ考えるように目を伏せ、それから私の顔を見つめながら答えた。


「私、昔、大切な人を病気で亡くしたんです。その時、何もできなくて、自分を責めたこともありました。でも、今はこうして誰かのそばにいて、少しでも力になれることが嬉しいんです。」


彼女のその言葉に、私は言葉を失った。彼女もまた、痛みを抱えながら生きている。私と同じように、苦しみを経験してきた。そんな彼女が、私に手を差し伸べてくれている。そのことが、たまらなく温かく感じられた。


「…美穂さん、ありがとう。こうして話せて、私も嬉しいです。」


初めて、自分の気持ちを素直に伝えることができた。美穂さんは「こちらこそ、ありがとう」と微笑み、私の手をそっと握った。そのぬくもりが、私の心に深く染み渡った。


それから、美穂さんとの会話はますます増え、私の心は少しずつほぐれていった。彼女と話すことで、自分の中にあった孤独や恐れが、ほんの少しだけど、軽くなっていくような気がした。


そしてある日、彼女が病室に入ってくると、私は自分から声をかけた。


「美穂さん、もし良かったら、今度は私の好きな詩を一緒に読みませんか?」


私が本を読みたいと提案するなんて、今までなら考えられなかった。美穂さんは少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。


「もちろん!彩さんの好きな詩、ぜひ聞かせてください。」


その時、私は確かに感じた。自分の中で何かが変わり始めていると。美穂さんの存在が、私に勇気をくれている。まだ小さな一歩だけれど、その一歩がどれほど大きな意味を持つかを。


美穂さんと過ごす時間が、これからの私の生活に少しずつ光を灯していく。そのことに気づいた瞬間、私は彼女に心からの感謝を感じていた。


私たちの心の距離は、少しずつ近づいている。孤独だった私の世界に、彼女がそっと光を差し込んでくれたのだ。その温もりを感じながら、私は次の日を楽しみに思えるようになっていた。

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