第1話 初めての会話
入院生活は、思ったよりも静かだった。病室の窓から見えるのは、ただ無機質な灰色のビルと、季節を感じさせない薄い青空。私はベッドの上に横たわり、同じ天井を何度も見上げる毎日を過ごしていた。
それまでの生活がどこか遠くに感じられる。友人たちは自分の忙しい日常に戻り、家族も頻繁には来られない。それが当たり前だと分かっていても、寂しさは募るばかりだった。日に日に、自分の存在が薄れていくような、そんな感覚が私を包んでいた。
そんなある日のことだった。彼女が病室に入ってきたのは。
「おはようございます、彩さん。今日から付添婦としてお世話させていただきます、美穂です。よろしくお願いしますね。」
柔らかい声と一緒に、彼女は笑顔を見せた。少し年上で、ふんわりとした雰囲気の女性だった。私は無言で軽く会釈を返したが、内心ではその明るさに戸惑っていた。これまで、こんなふうに積極的に話しかけてくる人はいなかった。
「何か困ったことや、気になることがあれば、遠慮なく言ってくださいね。」
そう言って彼女は、手際よく部屋の整理を始めた。部屋の隅に置かれた花瓶には、彼女が持ってきたばかりの小さな花束が差し込まれた。淡い色合いの花が、病室の無機質な雰囲気に少しだけ暖かさを与えている。
「どうですか、この花。少しだけど、病室の空気が変わるかなと思って。」
私は曖昧に頷くだけだった。彼女の話し方は穏やかで、何気ない日常の出来事や、最近観たテレビドラマの話など、特に大きなテーマもないのに、不思議と耳に心地よかった。だけど、それに応じる気力が湧いてこない自分がいた。
彼女が部屋を出て行った後、私は花瓶の花をじっと見つめた。ここ数ヶ月の入院生活で、花を飾ることなんて考えもしなかった。家族が一度だけ持ってきてくれた花束も、しおれて捨ててしまったきりだ。これも、そのうち枯れるんだろう。そう思うと、何もかもが無意味に思えた。
次の日も、彼女は同じ時間に現れた。明るい声で「おはようございます」と挨拶をし、手際よく私の世話をする。彼女の存在は私の日常に少しずつ入り込み、気づけば、毎朝のその時間を待つようになっていた。
「彩さん、今日は少しお散歩でもしませんか?天気もいいし、気分転換になりますよ。」
美穂さんがそう提案した時、私は少し躊躇した。体力もなく、外に出るのが億劫だったのもある。でも、美穂さんの瞳がまっすぐに私を見つめていた。彼女の期待を裏切るのが悪いような気がして、私は頷いた。
美穂さんは、私の肩に軽く手を置いて、支えてくれた。久しぶりに病室の外に出て、院内の中庭を歩く。ほんの数分だったが、外の風は心地よく、まるで閉じ込められていた小鳥が羽ばたくような感覚を覚えた。
「ね、少し気持ちが変わるでしょう?」
美穂さんは私を見て、満足そうに微笑んだ。その笑顔に、私は少しだけ心を許すことができた。普段なら考えもしなかったが、彼女のその優しい眼差しに、私は思わず口を開いてしまった。
「…いつも、どうしてそんなに元気なんですか?」
自分でも意外な言葉だった。これまで、人に関心を持つことがほとんどなかったからだ。美穂さんは、少し驚いたように目を丸くしてから、ゆっくりと答えた。
「うーん、どうしてでしょうね。私は、人とお話しするのが好きなんです。それに、彩さんとこうしてお話しできるのも嬉しいですよ。」
「…私は、ただ迷惑かけてるだけだと思ってました。」
「そんなことありませんよ。彩さんが少しでも元気になれるなら、私も頑張ってる甲斐があります。」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。彼女は私を助けようとしている。それが伝わってきたからだ。
その日、私は久しぶりに自分から「ありがとう」と口にした。美穂さんは、それを聞いて嬉しそうに微笑み、優しく頷いた。
それからの日々、彼女との会話は少しずつ増えていった。私が好きな本の話、昔やっていた趣味の話、そして病院を出たら何をしたいか、そんな未来の話まで。病室の外に出ることが増え、少しずつ世界が広がっていくような気がした。
美穂さんが来る時間が、私にとって一日の楽しみになっていた。小さな花束が日々変わるように、私の心も少しずつ変わっていく。そんな彼女との時間が、これからの私の生活をどう変えていくのか、まだわからなかったけれど。
――それでも、彼女と過ごす毎日は、確かに何かを変え始めていた。
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