愚痴聞きのカーライル ~女神に捧ぐ誓い~

チョコレ

序章 訪れた金の風

(1)酒場の扉が開くとき

 酒場で愚痴を聞く。

 三枚の銅貨ならただの聞き役、銀貨一枚なら助言付きだ。


 俺の名前はカーライル。三十五歳。

 かつては冒険者だったが、十年前のある事件を境に剣を置いた。それ以来、この『旅人の酒場』に根を下ろし、酒をあおりながら日々をやり過ごしている。


 俺にできるのは、誰かの愚痴を聞くことくらいだ。世の中には夢や正義や冒険に燃える奴が多すぎる。だが、そんなものには背を向けた。


 ──あの夜も、変わらぬはずだった。

 あの声を聞くまでは。


「ここに、愚痴を聞いてくれる人がいるって聞いたわ」


 扉が開き、冷えた夜風が酒場の喧騒を切り裂く。

 振り向くと、黒いローブを纏った金髪碧眼の少女が立っていた。


 彼女は店内を一瞥し、まるで自らの領地を見定めるかのように視線を巡らせた。そして、一切の迷いなくカウンターへと歩み寄る。


 ──この出会いが、俺の運命だけでなく、この国の行方すらも変えることになるとは。


 この時の俺は、まだ何もわかっちゃいなかった。



 少女はカウンターへ辿り着くと、ローブの懐から銅貨三枚を取り出し、無造作に置いた。


 コインは木のカウンターを転がり、カーライルの目の前で静かに止まる。


「愚痴を聞いてもらうわ」


 静かだが、確信に満ちた声だった。酒場の空気が微かに揺れる。


 カウンターの奥でグラスを磨いていた酒場のマスターが、ちらりと視線を向ける。周囲の冒険者たちは互いに顔を見合わせたが、誰も何も言わない。ただ、ある者は面白がるように口元を歪め、ある者は興味深げに少女を眺める。


 だが、彼女の視線はただひとりの男に向けられていた。


 カーライルは銅貨を見つめ、無言のままジョッキを傾ける。驚く様子もなく、淡々とした口調で応じた。


「銅貨三枚なら、確かに愚痴は聞くが……ここは酒場だ。子供が来る場所じゃねえ。」


 低く響く声に、少女の眉がわずかに動いた。しかし、怯むことなく椅子を引き、静かに腰を下ろす。


「問題ないわ。」


 冷ややかな言葉。カウンターに置かれた手は小さいが、その態度には妙な風格があった。


 カーライルは微かに目を細める。ただの酔狂でここに来たわけではない。


「…で、誰だ? 冒険者には見えねえが。」

「アルマよ。」


 少女は当然のように名乗ると、やや不機嫌そうに付け加えた。


「この街で私の名前を知らないなんて、愚痴聞き屋失格ね。」


 その言葉に、周囲から小さなざわめきが起こる。冒険者たちの間で、低く囁かれる言葉が飛び交った。


 ──領主の娘。

 ──王立魔法学院を首席で卒業した天才。

 ──けど、最近は何かと揉め事を起こしてるらしいぞ。


 カーライルの耳にも届いたが、彼は肩をすくめるだけだった。


「名前なんざどうでもいい。それで、どんな愚痴だ?」


 アルマはわずかに前のめりになり、碧眼を鋭く光らせた。


「墓地のゴースト問題よ。誰もまともに取り合ってくれない。」


 酒場の空気がわずかに張り詰める。冒険者たちの中には眉をひそめる者もいた。


「魔法使いを雇って退治させているけど、そのたびに莫大な費用がかかる。このままじゃ税金の浪費よ。」


 怒りを滲ませる声が、沈黙の中で重く響く。


 カーライルはジョッキを傾けながら、静かに問い返した。


「で、どうしたいんだ?」


「この状況を変えたい。」


 迷いのない答えだった。


 酒場に再びざわめきが広がる。誰もが心のどこかで思っていた問題だが、真正面からどうにかしようとする者はいなかったのだ。


 カーライルは短く息を吐く。


「解決策はあるが、それを教えるには銀貨一枚だ。」


「銀貨一枚?」


 アルマの表情が険しくなる。


「街を良くしようとしてるのに金を取るなんて、最低ね。」


 冷ややかな言葉に、カーライルは肩をすくめた。


「俺にも生活がある。知恵には値段がつく。それが気に入らないなら帰れ。」


 アルマの瞳が険しく細められた。次の瞬間、彼女は立ち上がり、椅子を荒々しく押しやる。


「……期待した私がバカだったわ。」


 低く吐き捨てると、踵を返し、酒場の扉を勢いよく開く。冷たい夜風が吹き込み、ローブをはためかせた。そして、振り返ることなく外へと消えていった。


 扉が閉まる音が、静寂を切り裂く。


 カーライルは微動だにせず、ジョッキを口に運ぶ。視線を下ろすと、残された三枚の銅貨が目に入った。一枚を指で弾くと、乾いた音を立ててカウンターを転がる。その音だけが、酒場の静けさに響いた。


「カーライル、少し話がある。」


 カウンター越しに声をかけたのは、酒場のマスターだった。グラスを磨く手を止め、真剣な眼差しを向けている。


「何だ?」


 カーライルが応じると、マスターは静かに息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


「あの子、領主様の娘さんだ。王立魔法学院を首席で卒業して、この街を良くするために戻ってきたらしい。」


 その言葉に、カーライルはわずかに目を細める。


「だからどうした?」


「彼女が何かしでかして領主の耳に入ったら、面倒なことになる。お前、フォローしてやれないか?」


「冗談だろ?」


 不機嫌そうに言うカーライルを、マスターはじっと見つめる。


「お前ならできるさ。」


 静かな言葉には、確信が込められていた。


 長年世話になってきたマスターの頼みを断るのは気が引ける。カーライルはジョッキを置き、ため息混じりに答えた。


「…やれやれ、仕方ねえな。」


 マスターが安堵の笑みを浮かべるのを背に、カーライルは立ち上がる。扉を開けると、冷たい夜風が彼の背を押すように吹き抜けた。

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