第17話

ワゴンを押す彼と一緒にリビングへと向かう。


「お待たせしました」


「おっそーい。

あんまり遅いからアフタヌーンティのケータリング頼んだわ」


文句を言いつつ典子さんの視線は携帯から動かない。


「……は?」


一音発し、作り笑顔のまま宣利さんが固まる。

一瞬のち、言われた意味を理解したのか深いため息を吐き出した。


「勝手なことをしないでいただけますかね?」


頭が痛そうに彼は額に指先を当てているが、まあそうなるだろう。

目配せされ、あいているひとり掛けのソファーに腰掛ける。

宣利さんはとりあえずといった感じでお茶をサーブし始めた。


「なぁに?

宣利が私を待たせるからいけないんでしょ?

それに私が奢ってあげるのに、文句あるの?」


典子さんの文句は続くが、家の人間に断りもなくケータリングなんて、迷惑以外のなにものでもない。

それにあの典子さんの奢りだなんて、なにか企んでいるのではと考えてしまう。


「ありますよ。

それに姉さんの奢りはあとで高くつきますからね」


またため息をついた宣利さんは、私と同じ考えのようだ。


「どこのアフタヌーンティを頼んだんですか?」


「港近くのホテル。

エーデルシュタインは断られちゃった。

倉森の人間相手に失礼じゃない?」


典子さんは怒っているが、失礼なのは彼女のほうだ。

会員なのは宣利さん個人であって、倉森の家ではない。

当然、典子さんは会員ではないのだ。

なのに、注文するなんて厚かましすぎる。

そもそもエーデルシュタインは配達をやっていない。


「まったく失礼じゃないですよ。

……すみません、倉森ですが……」


宣利さんは呆れつつ、携帯を操作して通話をはじめた。

きっと守衛に連絡してホテルから来る配達の人を通すようにお願いしているのだろう。


「せっかくケーキを出したのに、無駄になってしまいました」


再び宣利さんがため息をつく。

というかそれしかできないんだと思う。


「あら。

それもいただくわ」


典子さんが寄越せと催促をする。

最後に会ったとき、太ったからダイエットしないといけないと言っていた気がするが、そのダイエットとやらは成功したんだろうか。


「それで。

なんの用ですか、姉さん」


早く帰っていただこうと、宣利さんが早速話を切り出す。


「なんの用って、そちらこそ私に用があるんじゃないの?

特に、花琳さんが」


にたりと嫌らしく典子さんの目が歪み、身体をぞわぞわと鳥肌が駆け上がってきた。

でも、なんで私が?

嫁教育を再開してくれと頼めとでもいうんだろうか。

けれど今のところ、まったく困っていない。


「お父さん、ツインタワーへの出店、断られたそうじゃなぁい?」


ざらざらと耳障りな声が身体に纏わりつく。

どうして典子さんが知っているの?

違う、典子さんは〝知る立場〟にある人間なのだ。


「……あなたが、なにかしたんですか」


お腹の中が怒りでふつふつと沸騰した。


「別になにもしてないわ。

宣利と一緒で知り合いのお店を紹介しただけ」


素知らぬ顔で典子さんはお茶を飲んでいるが、絶対にそれだけではないはずだ。

宣利さんだってなにかがおかしいと言っていた。


「本当にそれだけなんですか!」


怒りに飲まれれば、負けだとわかっている。

それでも、あんなつらそうな母を目の当たりにさせられ、黙っていられるわけがない。


「それだけって言ってるでしょ?」


いたって冷静な典子さんが私を見る目はじっとりとしており、獲物を前にした蛇そのものだった。


「義姉を疑うなんて、やはりまだ教育が必要ね」


彼女の視線が私の身体に絡みつき、雁字搦めにしてしまう。

瞬く間に私は、恐怖の海へと溺れさせられた。


「花琳!」


急になにも見えなくなり、意識が目の前へと戻ってくる。


「たか……とし……さん?」


「いい子だ。

ゆっくり、息をして」


私を抱き締める彼の手が、促すようにゆっくりと背中をさする。

それにあわせて息をしようと努力しているうちに、あんなに苦しかった呼吸が楽になった。


「うん、落ち着いたね。

もう部屋で休んでて」


それに額を擦りつけるようにして首を横に振る。


「……嫌」


「花琳」


宣利さんの声は、私を咎めている。

それでも、譲る気はない。


「これは私自身の問題だから。

だから、ちゃんと自分で解決しないといけないんです」


何度も、私の心が折れるまで怒鳴られた。

折れたあとは従順になるように躾けられた。

あんな短い間でも、心は典子さんに従うべきだって思い込んでいる。

でも、そんなの、嘘。

本当は嫌だってもうひとりの私が叫んでいた。

今なら、宣利さんもいる。

きっと、なんとかなる。


「だからー、そういうこと言われると反対できなくなるだろ」


私を身体から離し、彼が顔をのぞき込む。


「さっき、無理はしないって約束したよね?」


「うっ」


それを持ち出されるとなにも言えなくなってしまう。


「もう一回、約束して。

無理はしない。

興奮して感情的にならない。

また、今みたいになったら強制退場だからね」


厳しい顔をしながらも、私の目尻を拭う彼の指は優しい。


「……はい」


そうだよね、私だけが苦しいならいいけれど、赤ちゃんも苦しくなっちゃうもんね。


「よし」


頷いた彼はスツールを極力寄せ、私に密着するように座った。


「宣利がそうやって甘やかせるから、つけあがるのよ」


はんと小バカにするように典子さんが鼻で笑う。


「……あ?」


宣利さんから彼の見た目に似合わない、ドスの利いた声が出る。

眼鏡の奥ですーっと細くなった目は、触れるだけで切れそうな日本刀を思わせた。


「愛する妻を甘やかせてどこが悪いんです?

それに花琳は誰かと違って、きちんと常識を身に着けていますからね」


宣利さんの発する声は冷気となり、その場の空気がビキビキと凍りついていく。

私はもちろん、典子さんも動けなくなっていた。

硬直した時間が続く。

それを壊したのは、チャイムだった。


「ああ。

姉さんが頼んだアフタヌーンティが来たようですね」


何事もなかったかのように宣利さんが立ち上がり、ようやく緊張が緩む。


「おいで、花琳」


「あっ」


私の手を引き、彼が強引に立たせる。

そのままなにか言いたげな典子さんを残して玄関へと向かった。

彼女とふたりきりにしない気遣いは大変助かる。


「ご無理を言って大変申し訳ありません」


宣利さんは丁寧に謝罪し、配達されてきたものを受け取った。


「近いうちにお礼にお伺いするとお伝えください」


彼に頭を下げられ、配達に来た男性スタッフは恐縮しきったまま帰っていった。


「お茶はさすがに葉っぱだから、また淹れないといけないね」


面倒くさそうに宣利さんがため息をつく。


「なにがいい?

どうせカフェインレスとかじゃないし、花琳の好きなのを淹れてあげるよ」


さすがに両手に引き出物クラスの紙袋を提げては手を繋げないので、彼はちょいちょいと手で中に戻るように指示した。

ふたりで一緒にキッチンへ来たが、また典子さんを放置だけれどいいんだろうか。


「ちょっとワゴンを回収してくるね」


ヤカンを火にかけ、宣利さんは私を置いてリビングへ行ってしまった。


「お茶の準備、しておこうかな」


新しいカップを出し、茶葉の準備をする。

甘いもの相手だし今度はさっぱりめの、レモンフレーバーのルイボスティにしようかな。


「花琳は座っててよかったのに」


戻ってきた宣利さんは、用意をしている私を見て不満そうだ。


「これくらいはしますよ」


それに苦笑いで答えた。

彼はどうも、私のお茶を淹れるのは自分の仕事だと思っている節がある。


典子さんにはついてきたお茶を、私たちはレモンフレーバーのルイボスティを淹れる。

お茶と届いたアフタヌーンティの箱、取り皿をワゴンに乗せてリビングへ戻った。


「お待たせしました」


入ってきた宣利さんを、典子さんが上目遣いで不満げに睨む。

もしかしてさっきの僅かな間でもなにか、言ったんだろうか。


「姉さんお待ちかねのアフタヌーンティですよ」


綺麗に口角をつり上げて笑い、宣利さんが箱を彼女の前に置く。

けれどそれは完全に作り笑顔だったし、ひと言でも文句を言ったらその場で抹殺されそうだった。


わざわざ彼が、蓋を開けてくれる。

けれど、中を見て固まった。

なにか問題があったんだろうかと、そろりとのぞき込む。

そこにはどう考えてもふたり分しか入っていなかった。

猛烈な勢いで箱が宣利さんの手元へ引き寄せられる。

携帯を手にした彼は、目にも留まらぬ速さで画面に指を走らせた。


「これは僕らでいただきます。

姉さんはこれを」


まだテーブルの上に置いてあった、先ほどのケーキの残りを彼が典子さんに押しつける。


「ちょっ」


「アフタヌーンティ代は姉さんの口座に振り込ませていただきましたので、奢りなどと言わないでくださいね」


口を開きかけた彼女へ、宣利さんが携帯を突きつける。

その画面をしばらく確認したあと、典子さんがおとなしくなったところからして、それなりの額が振り込まれたのだと思われる。


「ほら、花琳。

美味しそうだねー」


わざとらしく言いながら、私と彼のあいだになるテーブルの角で宣利さんは再び蓋を開けた。

それは季節の梨を使ったものがメインで確かに美味しそうだが、典子さんが気になる。

彼女は二つ目のケーキを手に、恨みがましくフォークを咥えて私を睨んでいた。


「あんな人、放っておいていいよ。

こんな幼稚な嫌がらせをする人間が悪い」


宣利さんの言い様は冷たいが、そのとおりなだけに彼女を庇う余地はない。


それでも典子さんを気にしながら、彼がサーブしてくれた梨の生ハム巻きを食べる。


「そもそも、僕が怖いからって花琳を標的にするのはやめてもらえないですかね」


典子さんと目もあわせず、宣利さんが呆れ気味に言い放つ。


「べ、別にアンタなんて、こ、怖くない、……し」


けれど彼女はしどろもどろになっていた。


「だいたい、これは僕に対する報復なのでしょう?

あなたのオトモダチとやらに僕が嫌がらせをした」


〝オトモダチ〟、そう言う宣利さんは険がある。

それに彼はなにを言っているんだろう?

嫌がらせとか彼らしくない。

でも、心当たりはあった。

最後に連れていかれた昼食会、あそこに参加していた方のご子息が、迷惑行為で炎上した。

宅配ピザを全トッピング二倍とかお店の人が反対するのを押し切って取り、届いたピザを前にこんなの食えるかと配達人をネチネチと責め立てた。

それを動画SNSに載せていて炎上したわけだが、動画が配信されたのは二年も前の話だ。

誰かがわざわざマスコミにリークしたとしか思えない。

ほかにもふたりほど、似たような目に遭った人がいた。


「やっぱりアンタの仕業なのね!」


典子さんがテーブルを叩き、食器が派手な音を立てる。

おかげで身体がびくりと震えた。


「大丈夫だよ、花琳」


私を安心させるように宣利さんが、背中を軽く叩く。

それで少しだけ息がつけた。


「やっぱりもなにも、僕がやりましたが?

僕の花琳を散々いびり倒しておいて、あれくらいで済ませてやったのを反対に感謝してほしいくらいですね」


薄らと宣利さんが笑い、ぶるりと典子さんが身体を震わせる。

この人は絶対に怒らせてはダメだ。

なまじお金があって社会的地位も高いから、やろうと思えばきっとなんだってできる。


「それに知らないと思ってるんですか?

あなたがツインタワーの運営にお金を積み、得意の恫喝で知り合いの店とやらを捻じ込んだのを」


「そ、そんなこと、してないわ」


否定してみせながらも、彼女の目が泳ぐ。

だから私に泣いて許しを乞えば取り下げてやるとでも言うつもりだったんだろうか。

いや、それで溜飲を下げて取り下げてくれればいいが、そんな私を嘲笑い、バカにして、父から店を取り上げるつもりだったんだろう。

怒りでまた我を忘れそうになる私の手を、宣利さんが握ってくれる。

それで幾分、冷静になれた。


「可哀想に、ある人は精神を病んで後悔にさいなまれていましたよ」


きっとその人は典子さんに、私と同じように心が折れるまで怒鳴られたんだろう。

本当に卑劣な人。

……ううん、違う。

可哀想な人、だ。

環境が彼女をそうしたのだと同情している部分もあった。

でも、それは違う。

これは今まで、そんな彼女を正してこなかった周囲の罪でもあるのだ。


「何度、痛い目を見ても懲りないなんて、あなたには学習能力がないんですか」


宣利さんは呆れているようだが、そうじゃない、そうじゃないのだ。

ぎゅっと彼の手を掴み、注意をこちらに向けさせる。

目で彼女と話をさせてくれと訴えた。

少しのあいだ見つめあったあと、彼が小さく頷く。


「典子さん」


彼女と向き合ったものの、それでも恐怖は拭えない。

震える私の手を、宣利さんが握ってくれた。


「もう、嫌がらせはやめてください。

こんなことをしたって、あなたの好きなようにはできないんですよ」


頭は酸欠になったかのようにくらくらする。

心臓がこれ以上ないほど速く鼓動していた。


「脅して言うことを聞かせたところで、一時的なものです。

それどころか、ますますあなたを孤独に追い込みます。

もう、やめましょう?

こんなこと」


精一杯の気持ちで彼女に微笑みかける。

友人という人たちは利害だけのうわべの付き合いに見えた。

母方の祖父母も両親も甘やかせるだけで、彼女の過ちを正さない。

父方の祖父母は厳しくするばかりで、彼女のことをわかろうとしているようには見えなかった。

入り婿の旦那さんもお金以外に彼女に興味がなく、調子よく持ち上げているだけに感じた。

こんな彼女の孤独を、わかってくれる人は周りにいないのだ、きっと。


「……うるさい」


俯いてしまっていた典子さんが、小さく呟く。


「あなたになにがわかるっていうのよっ!」


顔を上げ、ヒステリックに叫んだかと思ったら、彼女は勢いよく私にお茶をかけた。


「姉さん!」


怒気を孕み、宣利さんが立ち上がる。

そんな彼の手を引っ張り、止めた。

幸い、お茶は冷めていて怪我はない。


「誰も私のことなんてわかってくれなかった。

いまさらあなたが、わかった口を利かないで!」


顔を真っ赤にし、典子さんが喚き立てる。

それを、冷静に聞いていた。

やはり、私の考えは当たっていたようだ。

本当に可哀想な人。

ううん、こんな同情をして憐れむ私だって、何様だけれど。


屈辱に顔を染め、典子さんが私を見下ろす。

……ああ。

彼女に私の気持ちは届かなかったのだ。

もし、少しでも救いを求めてくれたら、彼女を知る努力をしようと決めていた。

双方傷つけあって、共に倒れるだけかもしれない。

それでも、少しでも今まで知らずに傷つけられてきた彼女が癒やせたらと思っていた。

でもその手を、彼女は振り払った。


「そう、ですか」


悲しいな。

悲しくて悲しくて堪らない。

私のちっぽけな手では、典子さんひとりすら救えない。

救うなんて思い上がりも甚だしいのはわかっている。

それでも、ほんの少しでも彼女の助けになれないのが、こんなにも悲しい。


「そんな目で私を見ないでよ!」


さらに叫び、目の前にあったケーキを典子さんが私に投げつける。

しかしそれは、宣利さんの手によって阻まれた。

怒りでわなわなと震え、彼女が私たちを見つめる。


「帰る!」


唐突に立ち上がり、足音荒く典子さんは出ていった。


「……失敗してしまいました」


けれど私には、あれ以外の言い方がわからなかった。


「ううん、花琳は凄いね」


気が抜けたように宣利さんがスツールに腰を下ろす。


「僕は姉さんが孤独だなんて考えもしなかった」


彼は驚いているようだが、気づかなかったのは仕方がない。


「家族だから、わからなかったんだと思います。

私は、外の人間だから」


だから第三者の目で典子さんを分析できた。

そういう部分はあるはずだ。


「外の人間じゃない、僕たちは夫婦だろ」


「そう、ですね」


不服そうな彼に苦笑いする。

夫婦だけれど、子供がいなかったら赤の他人だ。

今は好きだ、愛しているという気持ちはあっても、子供がいなくなったら彼の気持ちも変わるかもしれない。


「でも、花琳が姉さんに救いの手を差し出すとは思わなかったよ」


宣利さんは感心しているが、それはそんな高尚なものではない。

ただの安い同情だ。


「失敗してしまいましたけどね」


「ううん。

きっと姉さんの心に届いているよ。

ありがとう」


感謝を伝えるように彼が、私の手を握ってくれる。

それで私が救われた。


「僕も頭ごなしに姉さんを怒らず、もっと気持ちを考えるようにするよ。

こんなきっかけをくれた花琳には、感謝しかないよ」


きゅっと私の手を握る彼の手に力が入る。

これから少しずつでいい、典子さんを巡る環境が変わったらいい。

そう、願った。

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