第6話

病院へ行ったら妊娠が確定された。

父も私が宣利さんの子供を産むのに反対はないらしい。

ただ、今の状態では働くのは無理だとバイトを断ってくれて本当に申し訳なかった。


また時間ができてしまったので、資格取得の勉強時間に充てる。


「はっ」


とはいえ眠気との戦いなので、しょっちゅう寝落ちているが。

今日は携帯の通知音で起こされた。


「誰……?」


父か、母か、それとも出戻ってきていると知っている友人かと携帯を見る。


「うっ」


しかしそこに表示されている名前を見て、まるで責められているかのように息が詰まった。


「なんで宣利さんから……」


おそるおそるメッセージを開く。

あれからまだ、彼には妊娠を教えていなかった。

共通の知り合いがいるわけでもないので、誰かから彼に伝わるはずがない。

じゃあ、なんでメッセージなんか……。


【君のものが出てきたので渡したい。

都合がいいのはいつか】


「へ?」


想像したものとは違っていて、変な声が出た。

のはいいが、渡したいって?


【わざわざ持ってきていただかなくても、送っていただければいいですが?】


そうだ、別にそんな手を煩わせる必要はない。

それこそ合理主義の宣利さんは嫌がりそうなのに、なんで?


【直接会って渡したい。

いつ、都合がいい?】


なんで彼がそこまで拘るのかわからないが、若干苛ついている空気を感じ取ったので、都合のいい日を送る。

そのまま会う場所を決めてメッセージは終わった。


「ほんと、なんなんだろう?」


あの人の考えることはわからない。

離婚前も、した今も。




待ち合わせはホテルのラウンジだった。


「こっちだ」


スタッフに声をかけられたところで、先に店内にいた宣利さんが手を上げる。

それだけで酷く絵になって、周囲の視線を集めていた。


「お待たせしてすみませんでした……」


時間には十分に余裕を持って起きるつもりでアラームはかけたが、案の定二度寝した。

おかげで待ち合わせ時間を三十分も過ぎている。


「いや。

おかげでひと仕事する時間ができた」


これは嫌みなのかフォローなのか彼は真顔だから判断できない。


「なにか飲むだろ」


「そうですね……」


渡されたメニューを開く。

なんかコーヒー一杯二千八百円とか見えて喉が変な音を立てそうになった。

超一流ホテル、しかも高層階にあるラウンジとなればそうなるのかもしれない。


「こう……」


紅茶と言いかけて止まった。

こんなところだとポットで出てくる可能性が高い。

それだとカフェイン摂取量がオーバーしそうだ。


「……グレープフルーツジュース、で」


言い直してメニューを閉じる。

ううっ、出費だよー。

いくら三億の貯蓄があるとはいえ、庶民の感覚は抜けない。

それは倉森花琳として生きた一年間でも変わらなかった。

それに無駄遣いはできるだけ抑えたい。

だってこれから、子供のために使っていかなければならないのだ。


「わかった」


宣利さんは軽く手を上げてスタッフを呼び、自分のコーヒーおかわりとあわせて私の分も注文してくれた。


「それで。

渡したいものがあるとのことでしたが」


スタッフが下がり、用件を切り出す。


「ああ。

これだ」


テーブルの上を滑らされてきたのは、小箱だった。

それを見て中身を確認しないでもなにが入っているのかわかった。


「これはもう、私のものではありませんので」


目の前に置かれたそれを、押し戻す。

それは私がマンションに置いてきた、結婚指環と婚約指環の入っているケースだった。


「いや、これは君のものだ」


しかしさらに、ケースはこちらに押し戻されてくる。


目の前に置かれたそれを、押し戻す。

それは私がマンションに置いてきた、結婚指環と婚約指環の入っているケースだった。

でも、今頃なんで?


「いや、これは君のものだ」


しかしさらに、ケースはこちらに押し戻されてくる。


「これは僕が君に渡したものだ」


「そうですが……」


だからなんだというのだろう?


「なら、これは君のものだ」


「えっと……」


困惑して目の前の小箱を見つめる。

さっきから宣利さんはなにが言いたいのかわからない。


「失礼します」


微妙な空気が流れる中、スタッフが頼んだものを運んでくる。


「ありがとう」


「失礼しました」


宣利さんにお礼を言われ、女性スタッフは僅かに頬を赤らめて下がった。

それに若干ムッとしたが、もう私には関係のないことだ。


「その」


場を仕切り直し、改めて口を開く。


「離婚したのでもう、私のものではないですが」


だからこそ、未練を断ち切りたくてあそこに置いてきた。

なのになぜ、今、目の前に突き返されているのだろう。


「離婚してもこれは、君のものだ」


「……は?」


どの理論でそういう結論が出るのかわからなくて、まじまじと彼の顔を見ていた。

しかしレンズの向こうの目は自信を持っていて、まったく揺るがない。


「えーっと。

宣利、さん?

離婚相手との結婚指環なんて、もう着けられないですが……?」


まさか、それすら理解していない……とかいうのはないと思いたい。


「僕としては着けていてほしいんだが……」


「は?」


さっきからこの人はいったい、なにを言っている?

さっぱり私には理解ができない。

まさか、離婚しようと私は自分のものとかいうDV支配思考なんだろうか。

いや、それこそ彼らしくない気がする。


「とにかく、それは返品不可だ。

邪魔なら売るなりなんなりしろ」


「はぁ……」


よくわからないが受け取らないと彼は不機嫌になりそうなので、そろりと指環たちをこちらに引き取った。

それにそれなりのものを買ってくれていたので、売ればかなりのお金になる。

あれなら売って、養育費の足しにしよう。


「最近はどうだ?」


これで話は終わりだと思ったのに、なぜか世間話の延長戦に入った。

というか宣利さんが世間話をするのが変な感じがする。

一緒に暮らしていた頃は、必要最低限の会話しかしなかったのに。


「あー、そうですね……。

時間ができたので資格を取れるだけ取ろうと思って、勉強しています」


妊娠したのはなんとなく隠した。

いや、言わなければならないのはわかっている。

けれど、迷惑がられたらどうしようと恐怖が拭えない。


「そうか。

君は僕と暮らしていた頃もよく、勉強していたな」


懐かしそうに彼が、眼鏡の奥で僅かに目を細める。


「僕と結婚したのも父上の会社のためにと。

そういう君を見て、僕ももっと頑張らねばと思ったよ」


宣利さんがそんなふうに思っているなんて知らなかった。

それは嬉しいけれど、今日の彼はなぜか饒舌だ。

おかげで聞いているうちに睡魔が襲ってくる。


「食事なんて栄養が摂れればそれでいいと思っていたが……おい、大丈夫か?」


「……えっ、はい!」


声をかけられ、慌てて飛び起きる。

どうも、うたた寝をしていたみたいだ。


「あ、大丈夫、……です」


適当に笑って、誤魔化す。


「まさか、寝ないで勉強しているのか?

睡眠不足はパフォーマンスが落ちるだけでいいことなんてなにもないぞ」


心配そうに宣利さんは眼鏡の下で眉根を寄せた。


「いえ、そんなわけじゃないんですけど……」


と言う端から、欠伸が出てくる。


「本当に大丈夫か?

眠いのなら……」


「いえ。

大丈夫ですので」


にっこりと笑顔を作り、これ以上なにも言うなと押し通す。


「大丈夫じゃないだろ。

そもそも健康第一みたいな君が、寝不足というのからおかしい」


けれど彼にはまったく効かないらしい。

かまわずにすぐに否定してきた。


「なにか困ったことでもあるんじゃないか?

それが気がかりで眠れないんじゃないか?

僕でいいなら相談に乗ってやる。

話してみろ」


しかもさらに、心配してくれる。

いい人なんだよね、本当に。

だからこそ、惹かれていたんだけれど。


じっとレンズ越しに彼が私を見つめている。

その目はどうしてか、心配でしょうがないと語っているように見えた。

こんなに私を思ってくれているのに、なにも話さないなんて気が引ける。

それにこれは、彼も当事者なのだ。


「その」


「うん」


言いかけたもののやはり、彼に子供を拒否されるのが怖い。

レンズを挟んで見つめあう。

こんなに私を心配してくれる人が、拒否なんてありえない。

そう信じて、そろりと再び口を開く。


「……妊娠、しました」


それでも目を逸らす。

私から出た声は酷く小さくて、消え入りそうだった。


「え?」


聞こえなかったのか――それとも理解できないのか、一声発して宣利さんは一度、大きく瞬きをした。


「すまない。

もう一度、言ってくれるか」


ばくん、ばくんと心臓がバウンドしそうなほど大きく鼓動する。

末端から血の気が引いていって、震える指先をもう片方の手で掴んだ。

周囲の声が遠い。

まるでこのテーブルだけ、別の世界みたいだ。

静かに、小さく深呼吸し、言葉を紡ぐ。


「……妊娠、したんです」


細い私の声は、細かくビブラートしていた。


「わかった」


私の答えを聞き、宣利さんが重々しく頷くのが見えた。

それはどういう意味の〝わかった〟なんだろう。


「復縁しよう」


それは予想どおりといえば予想どおりの言葉だった。

誠実な彼だ、自分の子を身籠もっている私を、放っておくはずがない。


「あの。

責任とか、取っていただく必要はないので。

十分な慰謝料をいただいてますし」


彼の気持ちなどなく、義務だけで復縁などしたくない。

そんなの、ただ虚しくなるだけだ。


「十分と言うが、あれで足りると思っているのか?

それにきっと、がっつり税金持っていかれるぞ」


「……え?」


なんで税金がかかるの?

慰謝料は非課税だって父がお世話になっている税理士さんが言っていたのに。


「僕が不貞を働いたとかいう正当な理由がないからな。

あと、一般的な慰謝料の額を超えている。

……まあ、それを見越してあの額なんだが」


「え、今……」


「なんでもない!」


咳払いして宣利さんは誤魔化してきたが、税金折り込んであの額にしたとか言わなかったですか?


「君ひとりならやっていけるだろうが、子供とふたりだと厳しいだろうな。

なにしろ子育てには金がかかる」


はぁっとこれ見よがしに彼がため息をつく。


「そう……ですね」


だったら……えっと。

えーっと。


「じゃあ、宣利さんに養育費を請求すれば……?」


「どうしてその結論になるんだ!」


軽く彼がテーブルを叩く。

なんか怒られたけれど、私は間違っていないよね?


「僕と復縁すればいいだろ。

君にも子供にもなに不自由ない生活を約束する」


うん、これが正解だと言わんばかりに彼は頷いているが、それこそどうしてその結論になる?


「あの。

ですから責任を取っていただく必要はありませんので。

幸い、親は普通より裕福ですから、頼めば助けてくれると思うのでお金の心配はいりません」


「あ、ああ」


「それに好きでもない相手と復縁しても今後、本当に好きな相手ができたときに困りますよ。

それに宣利さんならそのうち、それこそそれなりの方との縁談が来るでしょうし。

ですから、復縁なんてしなくていいです」


彼はカップの水面を見つめたままなにも言わない。

もしかして気に障ること、言っちゃったかな。

宣利さんの性格からいって、子供の責任を取らないとかありえないのかも。


「……その子供は僕の子供だよな」


「はい、そうですが……」


もしかして、私の浮気を疑っているんだろうか。

だとしたら、私は彼という人間を見誤っていたことになる。


「じゃあ、僕の子供を妊娠している花琳も僕のものだ」


「……え?」


ゆっくりと彼の顔が上がってくる。


「お腹の子も花琳も僕のものだ。

僕のものが僕から離れるなど許さん。

僕は花琳と復縁する。

二度と離婚はないと思え」


レンズの向こう、強い意志で燃える瞳からは視線は逸らせない。

私を支配し、命じる目に、知らず知らず喉がごくりと音を立てる。

けれどそれが――嫌じゃない。

むしろ心は彼に支配されたがっていた。


「……わかり、ました」


無意識に、了承の返事が口から出てくる。


「よし」


目尻を僅かに下げ、彼は満足げに頷いた。

それで急に、その場の空気が緩んだ。

つい、詰めていた息をそっと吐き出す。


「すぐにでも連れて帰りたいんだが、今は引っ越しの最中だから……」


「引っ越しの、最中?」


それで、指環で引っかかった謎が解けた。

マンションを引き払うのに元私の部屋に入り、指環が置いてあるのに気づいたのだろう。

まあ、それまで一歩も私の部屋に入らなかったのも謎ではあるけれど。


「ああ。

曾祖父の家を継いだんだ。

それで、そちらに引っ越す手配をしている。

マンションはもう引き払って、ここ数日はこのホテル暮らしだ」


「そうなんですね」


あの古くて大きな家を引き継いだなんて、やはり跡取りとして期待されているからなんだろうな。

……ちょっと待って。

ということは、私もあそこに住むようになるの?


「あの……」


「あの家に住めるようになるまであと数日はかかるし、花琳の部屋の手配もしなければならない。

そうだな……」


私の声など聞こえていないのか、宣利さんは軽く握った拳を顎に当てひとりでなにやら考え込んでいる。


「来週。

来週末に花琳を迎えに行く。

そのつもりで準備しておいてくれ」


ようやくまとまったのか、彼の顔がぱっと上がった。


「はい……?」


「業者はこちらで手配するから花琳はなにもしなくていい」


「はぁ……」


「復縁の手続きは顧問弁護士に相談しておく。

……ああ。

花琳とお腹の子を任せる病院も選ばないとな」


私を無視し、どんどん宣利さんの中で話が決まっていく。

そういえば結婚のときもそうだったなと遠い目になった。

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