第二章 出戻りの出戻り

第5話

宣利さんと離婚し、実家に帰ってきて数日後。

携帯に銀行から振り込みがあったと通知が来た。

宣利さんの言っていた、慰謝料というヤツだろう。

いや、離婚は合意の上だし、そんなものはいらないと言ったのだ。

しかし。


『この一年、なにかと君には嫌な思いをさせた。

その慰謝料だ。

取っておけ』


と言われ、断れなくなった。


「えっと……」


携帯を操作し、額を確認する。

そこには見慣れない数の0が並んでいた。


「えっと……一、十……億。

おくぅーっ!?」


ありえない額を認識し、ごろごろしていたベッドから飛び起きる。


「えっ?

はっ?

三億?」


そんな額、プロ野球選手の年俸でくらいしか聞いたことがない。

なにを考えているんだ、あの人は。

速攻で電話をかけるが、出ない。

まあ、仕事中かもしれないから仕方ない。

今度は交換したものの滅多に使ったことのない、メッセージアプリを開いた。


「えっと……。

慰謝料、振り込まれました。

ありがとうございます。

けれど額を間違っていませんか?

……と」


振り込みされた額が表示されている画面のスクショを添えて送信する。

しばらく待ったが既読にはならない。

とにかく早く、この気持ち悪いお金の説明をしてもらわないと落ち着かない。

そわそわしながら返事を待っていたら一時間後、ようやく来た。


【間違っていない。

妥当な金額だ。

なお、返却不可】


「返却不可ってさー」


本当に間違っていないんだろうか。

宣利さんの性格からいって、間違っていてもこのまま押し通そうとしている可能性も考えられる。

しかし、返却不可と言われたらこれ以上、どうにもできない。


「ううっ、受け取るしかないのか……」


あの人は本当に、なにを考えているんだろう?

でも、もう縁は切れたんだし、気にしない、気にしない。


夜になり、父が帰ってくる。


「ただいまー」


「おかえりー」


キッチンから顔だけ向け、返事をした。


「いい匂いがしてるなー」


「今日は肉じゃがだよー。

おかーさーん、おとーさん、帰ってきたー」


「はーい」


すぐに二階から母の声が帰ってくる。

母は父よりも一時間ほど前に帰ってきていた。

洗面所へ手を洗いに行く父を横目に、最後の仕上げをした。


「ごめんねー、花琳ちゃん。

作ってもらって」


キッチンへ来た母が炊飯器を開け、ご飯をよそってくれる。


「いいって。

置いてもらってるんだし、これくらいしないとね」


笑って私も料理を並べていく。

今の私は長いお休み中だ。

父の仕事を手伝わせてくれと帰ってすぐにお願いしたが、今まで大変だったんだろうからしばらくはゆっくりしとけと父に言われた。

とはいえなにもしないのは性にあわず、毎日食事を作らせてもらっている。


家族三人が揃い、夕食がはじまる。

ちなみにふたつ下の弟は宮崎牛に惚れて宮崎に拠点を置き、買い付けの仕事をしているので滅多に帰ってこない。

てか、宮崎牛を買い付けるためだけに子会社まで興した彼を、我が弟ながら尊敬する。


楽しく食事をしながらふと思う。


……宣利さんはちゃんとごはんを食べてるのかな……。


あの人には私と結婚する前、サプリメントだけで生活していた疑惑がある。

離婚して私がいなくなって、またあの生活に戻っていないだろうか。

せっかく、顔色もよくなったのに。

早く再婚して……再婚。

再婚、かぁ。

あんな大会社の御曹司だし、そのうちそれこそしかるべきお嬢さんと結婚するんだろうな。

いやいや、もう宣利さんなんて気にしないんだって。


「会社のほうはどう?」


つい宣利さんのことを考えている自分へ苦笑いしつつ、彼への思いを断ち切るように父へ話題を振った。


「宣利さんのおかげで……あ、いや」


途中で出してはいけない名だったと気づいたのか、父が言葉を濁らせる。


「いいよ、話振ったの私だし」


苦笑いでご飯を口に運ぶ。

離婚したから融資の即返済、などというのは宣利さんは言わなかった。

それどころか契約どおりゆっくり返してくれたらいいと父に連絡をくれたそうだ。

やっぱり、宣利さんは私が思っていたとおりの人だ。


「私もそろそろなんかしたいな。

なんかない?

仕事。

掃除でもいいよ」


「あのなー」


呆れ気味に父がため息を落とす。


「じゃあ、私の助手はどうかしら?」


いい思いつきだとばかりに母が小さく手を打った。

母は父の会社でメニュー開発の仕事をしている。


「来月、一人辞めるのよ。

だからそこに、花琳ちゃんが入ってもらったらちょうどいいわ」


「母さん」


「そうだよ、よくないよ」


咎めるような父の声に賛同した。

開発部は会社のエリートといえる人たちが集まっている。

そんなところに私なんて、無理。


「えー」


不満げに唇を尖らせる母は、もうすぐ還暦だなんて思えないほど可愛い。

こんな母だから父は惚れたのだろう。


「『えー』でもダメだ」


なぜか父が、少し赤い顔で咳払いする。

やはり、母が可愛いと見惚れていたようだ。


「どこかの店がバイト募集してないか聞いてやる。

それでいいか」


「うん、いいよ」


これで忙しくなれば当面、なにも考えなくてよくなると喜んだものの――。


「花琳ちゃーん。

もう、私も出るけど。

ちゃんと起きてごはん食べてよ?

また帰ってくるまで寝てたとかやめてよ。

じゃあ、いってきます」


「……はーい」


ドアの向こうから聞こえた母の声におざなりな返事をし、起き上がる。


「……眠い」


それでも頭はぐらぐらし、そのまま布団に突っ伏しそうだ。


「顔洗ってこよ……」


ふらふらとベッドを出て洗面所へと向かう。

ここのところ、とにかく眠い。

眠くて眠くて堪らない。

寝ていていいと言われたら、延々寝ていられそうだ。


「ごはん……食べたら……目も覚める……かも……」


顔を洗ったものの頭ははっきりしない。

キッチンでとりあえず、母の用意してくれていた朝食を食べた。


「……はっ!」


頭がかくん!と落ちた衝撃で、目が覚めた。


「ヤバい、寝てた……」


ごはんを食べている途中だというのに寝てしまっていたのには笑えない。

おかしい、絶対におかしい。

いったい、私の身体になにが起こっているんだ?

来週からは店でのバイトも始まるのにこれでは困る。


ごはんを食べたら幾分目も覚めたので、リビングのソファーに座って携帯で検索をかける。


「【過眠】、と」


原因は様々だが、ストレス以外に心当たりはない。

だとしたら病気なんだろうか。


「うーっ」


なんとなく思うところがあって【妊娠 眠い】で検索をかけてみる。


「可能性、大だな……」


そこには妊娠初期の症状として眠気が書いてあった。

月のものが遅れている。

あのたった一回で、とは思うが、可能性はゼロではない。


「……ドラッグストア、行ってくるか」


重い腰を上げ、自分の部屋に戻って出掛ける準備をする。

検査キットを買ってこよう。

あれこれ考えるのはそれからだ。




結局。

検査キットを買ってきてやってみた結果は陽性だった。


「どうする?

どうするよ?」


最初から宣利さんに知らせるという選択肢はなかった。

別れてしまった今、迷惑をかけるわけにはいかない。

それに慰謝料としてもらったお金で十二分に子供を養える。


「とりあえずお父さんとお母さんに相談だよね……」


そっと自分のお腹を撫でてみる。

困った事態にはなったが、不思議と後悔はなかった。


今日、父は接待で帰りが遅い。

母とふたりなのはラッキーだ。


「花琳ちゃん、眠いのはどう?」


心配そうに母が聞いてくる。

今日も夕食を母が作ってくれて、大変申し訳ない。


「……眠い」


今だって気を抜くと眠りそうになる。

しかしこれが赤ちゃんがもたらすものだと思えば、仕方ないと割り切れた。


「ほんと、どうしちゃったのかしら?

一度、病院行く?」


「あー……。

赤ちゃん、できた、……かも」


曖昧に笑って母の顔を見る。


「……は?」


なにを言われたのか理解できないのか、一音発したまま母は固まった。


「え?

今、赤ちゃんができたって言った?」


一瞬のち、おそるおそるといった感じで母が聞いてくる。


「うん。

言った」


「それって、宣利さんの、子供?」


「そうだね。

てか、それしかないね」


当たり前のことを聞いてくる母に苦笑いしてしまうが、そうするしかできないのだろう。


「まあ!

花琳ちゃん、どうするの!」


いきなり母がテーブルを叩いて立ち上がり、食器がガシャンと派手な音を立てた。


「まあお母さん。

落ち着いて」


「落ち着いてって!

花琳ちゃんこそなんで、そんなに落ち着いてるのよ!?」


「あー……」


母が興奮気味に詰問してくるが、それはもう私の気持ちは決まっているからだろうな。


「なんか、ね。

この子がお腹にいるってわかったとき、凄く嬉しかったんだ」


宣利さんと私の子供。

これが宣利さんが私に伝えたかった気持ちなんじゃないかと思えた。

それであのとき、避妊しなかったんじゃないかな、って。

だから産む以外の選択肢なんてなかった。


「宣利さんが私に与えてくれた、数少ないものだから。

絶対に産みたい。

お母さん、お願いします。

この子を産ませてください」


精一杯の気持ちで頭を下げる。

ダメって言われたら……家を出るか。

なんといっても私にはあの三億があるから、どうとでもなる。


「花琳ちゃん、頭を上げてよ」


こわごわ、頭を上げて母の顔を見る。


「花琳ちゃんが気持ちを決めてるなら、もうなにも言わない。

安心して子供が産めるようにサポートするわ」


私と目をあわせ、母がにっこりと笑う。

反対される心配はそれほどしていなかったが、それでもほっとした。


「でもね」


産んでもいいがやはりなにかひと言、もの申したいのかと背筋を伸ばす。


「宣利さんには知らせたほうがいいと思うわ」


「うっ」


しれっと母はお茶を飲んでいる。

さすが母親というか。

私の考えはお見通しなんだな。


父には母から伝えてもらえることになった。

自分の部屋に戻り、携帯片手に唸る。


「うー、あー」


伝えたら、宣利さんがどう思うのかさっぱり想像できない。

わかるのは追加で今度は養育費が振り込まれそうだっていうのくらいだ。


「……とりあえず、病院行って確定してからにしよ」


そうだそうだ、まだそうだろうという段階なのだ。

……高確率で確定だけれど。

はっきりわかってから知らせたほうがいいに決まっている。

こうやって私は、先延ばしにしたんだけれど……。

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