砂かけばばあ(付)

(承前)


【付記 一握の砂】

「鎮守の森の木々のほとんどは、戦時の木材調達のために切り倒されたそうです。恐らくあの樫の巨木も例外ではなかろう、ということでした」


 メダカ先生は、そう話を締め括った。研究室の窓の外は既に暗くなっていた。

 その日はメダカ先生(「名のある土地」参照)から、良いコーヒー豆が手に入ったからとご馳走していただいた。ふと、トルコのコーヒーは熱い砂の上で沸かすのだという話になり、そこから話題が転がった。

 七瀬さんは戦争を生き延び、後に学者となった。10年ほど前に亡くなるまで、その分野の開拓期を支えた功労者であったらしい。メダカ先生の恩師にあたる人物だ。先生自身は、大学院生の頃に七瀬さんから聞かされたらしい。


「ある飲み会の後、唐突にこの話をされましてね。その時、七瀬先生はこう、体のあちこちをゴシゴシこするように触っておられて」

 メダカ先生はネクタイを緩め、手の甲で首筋をこすって見せた。この日のネクタイは黄色と黒の横縞が入った、なかなか奇抜なものだった。

「今でも、体がむず痒くなるんだ、と。砂がくっついている感覚になるんだと。髪の間や、衣服の隙間に砂粒が入り込んでいないか、気が気でなくなる、とも」


 昔話をあまりしない人だったという。それこそ、戦時中の記憶などはほとんど口にしたことがなかったらしい。そんな七瀬さんが、この怪談だけは教えてくれた。それは……


「それはつまり、戦争より怖かったということですか」

 私は思わず、妙なことを聞いてしまった。メダカ先生もさぞ戸惑ったことだろう。

「いえ、そういうわけではないでしょうけど。ええ、戦争はまた、別でしょう」

「すいません、戦争より怖いことが、あってもいいかと、つい」

「え、ああ、どうでしょうね……」


 閑話休題。私は怪談の内容に話を戻した。

「遺体を運ばせたのは、その、有馬さん自身の遺言だったということでしょうね?」

「そういう理解でよろしいかと」

「鎮守の木に登った、というわけですね。その有馬さんの遺体に、大きな鳥がたかっていた……?」

「七瀬さんの体験を額面通り受けとめて噛み砕けば、そういうことになるでしょうか。『鎮守の木に登る』という言葉は、風葬、あるいは鳥葬のことを指していたのかも知れませんね」

「しかし……」

 鳥葬。遺体を鳥に食べさせる宗教儀式だ。チベットのそれが有名だが、日本にそうした風習が明確に存在したわけではない。野外に放置する風葬(遺棄葬)の結果として鳥が遺体を食べるということはあったのだろうが。


「この地域の生物相から考えても、日常的にそんな葬法が行えたとは思えません」


 七瀬さんが見た巨鳥の正体をごく現実的に説明してみるなら、婆の唄にあったように、「もろこし」すなわち海外から渡りを行ってきた渡り鳥、あるい迷鳥だろう。例えばクロハゲワシのような海外の大型種も、日本に迷い込むことはなくはない。だが、そんな鳥がいつも現れる保証はないのだから、鳥葬が習慣化するとは思えない。


「だから、一定の地位の者に限られたものか、あるいはもっと狭い範囲で実施されたものかも知れません」

 例えば、有馬家だけで行われていた、とか(とすれば「鎮守の木に登る」という言い回しは、むしろそんな特殊な死に方を皮肉ったものなのかも知れない)。


「そんな習俗があって、それで実際に鳥が飛来したとして――それに、何か意味や効用があったんでしょうか」

「ひとつの推測に過ぎませんが」メダカ先生は、自分でも突飛なことを話しているのを承知しているようで、言いづらそうに口を歪めた。

「例えば地域に恵みをもたらすような儀式ですね。富とか豊作とか、雨乞いということもあるでしょう。高貴な人、特殊な人の死体がそれをもたらす、という民俗はありますからね。そういえば、随所に話題が出ていたように、この地域では山姥に関する言い伝えがあったようです。関係があるかはわかりませんが、山姥の死骸が金銀や資源に変わるという伝承はしばしばあるようです。新潟の山姥伝説、〈弥三郎婆〉は人の死体を杉の木に吊るしたという話も……」


 ――もっとも、仮にどのような意義を持つ葬法だろうと、有馬の婆がそれを再現した理由はまた別であろう。


「有馬さんは、地域に貢献する、というような人物ではなかったような」

「ええ、だから、もっと個人的な願掛けのための方法だったのかも知れません。このケースだと、例えば誰かを呪いたいだとか、逆により大局的に、日本の戦勝を祈るつもりだったとか――もっとも、有馬の婆の場合は、もはやそのような葬法をとってもらうこと自体が目的化していたかも知れませんね」


 恐らく、七瀬さんから聞かされたこの話のことを、メダカ先生は折に触れて思い起こしてきたのだろう。いつもより饒舌な様子だった。

 しかしいずれにせよ、もはや婆の意図はわからない。またそれがわかったところで、七瀬さんの身に起こったことの説明にはならないのだ。


 私はメダカ先生の部屋を辞し、帰路についた。日の落ちた道を歩きながら、少し別のことを考えた。以下は、その際の所感である。


 この話を聞いて、私は『砂かけばばあ』のことを連想した。

 大変に有名な、神社の近くや林の中で人に砂をかける妖怪である。奈良、兵庫などの近畿圏、及び岡山などに伝承がある。同類の妖怪は青森から福岡まで各地に語られるが、それらは「砂まき狸」など、砂が降る現象を動物の仕業だと受け取ったものだ。砂を撒く神事が背景にあると読み解かれることもあれば、鳥が羽毛から砂を落とす現象や、東アジアから飛んできた黄砂が正体だと考えられることもある。


 その妖怪の知名度に間接的に貢献したのは、民俗学者・柳田國男である。

 まず「大和昔譚」(澤田四郎、1931年)という調査報告に、以下のように「すなかけばば」の記述があった。


「人淋しき森のかげ、神社のかげを通れば、砂をバラバラふりかけて、おどかすといふも、その姿を見たる人なし」


 やがて柳田は『妖怪談義』(1956年)収録の「妖怪名彙めいい」において、この「大和昔譚」から採取した妖怪を紹介した。この「名彙」を水木が読み、妖怪画に描くと共に漫画のキャラクターとして採用したことで、老婆の姿をしたの存在は広く認知された、ということになる。

 だが、「名彙」の中で、柳田は気になることを書き残している。


奈良県では処々でいふ。御社の淋しい森の蔭などを通ると砂をばらばらと振掛けて人をおどかす。姿を見た人は無いといふ(大和昔譚)のに婆といつて居る。


 姿を見た人は無いはずなのに「婆」と呼ばれる――柳田はこの些細な疑問を「妖怪名彙」に書き残した。個人的に、これはずっと気にかかっている。

 妖怪の外形を目撃することの方が稀なのだから、このような名付けが行われるのはおかしいことではあるまい。だから「大和昔譚」での紹介に対する無粋なツッコミ……と言えなくもないが、見方を変えれば柳田は、外形以外の情報からこの妖怪が「婆」だと解釈されている可能性に触れているのだ。


 七瀬さんは鎮守の森で、有馬の婆を想起する断片に襲われ、ここに彼女がいるのだという恐怖を抱いた。各地の砂かけばばあが老婆として認識されるのも、そうした、老婆をあらわす情報・記号のようなものが集積した結果なのかも知れない。

 七瀬さんの物語は、私にそんな物狂おしい考えをもたらしてくれた。


 物狂いついでに、もうひとつ。

 七瀬さんがそのとき有馬の婆を想起できたのは、彼が婆にまつわる数年間の記憶を、強く有していたからだ。そしてその後も七瀬さんは、恐らく生涯において、婆のことを忘れることはなかったのだ。

 婆の望みがなんだったのかはわからないし、それは叶わなかったかも知れないが、その代わり彼女は、一握の砂と化して自らの痕跡をこの世に刻んだ。それは戦争の忌まわしい記憶を越えるものですらあった。

 七瀬さんにとっては気の毒なことでしかないが――しかしその事実はどこか、砂山に混じる1粒の砂金のような光を放っている。

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