裕次郎と踊った夜に

 これは私が直接うかがった話である。恐怖を覚えるものではなく、つまり怪談ではあってもホラーとは言えない。しかし私が幽霊談の類に興味を抱くきっかけとなったものなので、ここに書き残しておきたい。


 九州の地方都市に引っ越して来たばかりの頃。心機一転、新天地、はいいのだが、週末にはおとなうあてもなく、書店と映画館と喫茶店をお定まりにグルついていた。

 その日も仕事関係の本を読むため、手近にあった喫茶店チェーンに入ったのだった。休日の昼下がり、店内はほどほどに混みあっていた。窓に面した1人席に座って間もなく、空いていた隣席に誰かがやって来た。視界の端に映る背格好と、発せられた独り言から、年配の女性であることはわかった。また少しして、店員が彼女のオーダーを運んできたようだった。


 きっかけがどのようなものだったか、実はあまり覚えていない。ただその老婦人の方から話しかけてきたのは確かだ。それで初めて彼女の方を向いたのだが、その上品な身なりよりも先に、私の目は卓上に並んだものを捉えた――驚いたことに、ドリンクの他、ケーキが2皿、のっかっていたのだ。クリームをたっぷり被った大振りなシフォンケーキ、それに抹茶のロールケーキ、どちらもなかなか胃に重そうだ。それで聞いてみれば80代後半になるというのだから恐れ入る。


 老婦人は柔和な細面をしていた。白髪は綺麗に整えられ、さすがに背中は丸まっていたが米寿近くには見えなかった。読まなければならない本があったのだが、2個のケーキを軽快に食べ進める姿に圧倒され、いつの間にか彼女の物語に巻き込まれてしまった。


 20年ほど前にお連れ合いに先立たれた彼女の趣味はもっぱら散歩と甘味なのだ。そんな話題から転がった。


 彼女は若くして宮大工の男性と結婚したのだという。

「気が進まなかったんだけどね。というのも、元々は姉が嫁ぐはずだったから」

 しかし彼女の姉は縁談を拒み、幼馴染と駆け落ちしたのだという。

「芝居がかった話だわね」

 ともかくも、それでそのまま彼女が嫁ぐことになったのだ。


 この姉は、駆け落ち相手と都会に出たものの、間もなく病没する。

「綺麗で活発で、我の強い人だったけど、都会の空気がいけなかったんでしょうね。ほら、公害病なんかもあったから、あの頃は……」


 夫は大きな仕事を手がけており、羽振りは良かったらしい。有名な神社の修繕に加わった他、彼の普請した家は丈夫で、地元の人々には未だに感謝されているらしい。敏腕だったのだ。

「随分、贅沢もさせてもらったの。外出は決まって車でね、どれだけ近い場所でも。いっときは運転手も雇ってたんだから。お前には苦労させないよ、というのが祝言の前のあの人の約束でね。でも私、本当は歩くのが好きだったの」


 今はあちこち歩き回るのが健康の秘訣だと思っている。


「そりゃあ、それなりに泣かされもしましたよ。酒癖が悪くてね。でもあの頃は誰もそんなことのひとつやふたつには耐えたもんなの。あの人の遺したお金で今もほら、大好きなケーキを食べてられるんだから、おかげ様よ」


 嫁いだことを後悔した日もあったけれど、それでも自分の人生は恵まれたものだった、彼女はそのように言った。


「姉と駆け落ちした幼馴染が戻ってきてね」そんなこともあった。「僕は本当は君が好きだったんだ、結婚してくれなんて言われたこともあったけど勿論きっぱり断りました。私にはもう夫がありますからって」


 ――よくある話だ、とまでは言わない。しかし正直なところ、どこかで聞いたような話ばかりだ。こうした物語、こうした語り口をする年寄りに、1人2人ならず会ったことがある――私の周りに年寄りが多いからかも知れないが――いささか反応に困り始めた、のだが。


「東京へも連れて行ってもらった。そうだ、私、石原裕次郎にも会ったことあるのよ」


 突然のビッグネームの登場に、さすがに目を剥いてしまった。

「裕次郎に?」

「夫の伝手で日活の撮影所を見学できることになってね、そこで彼と話す機会があったの。でも色紙もペンも持ち合わせてなかったからサインがもらえなくって」


 私は石原氏の印象や様子についてもっと訊きたかったのであるが、老婦人の物語はするすると前へ進んでいく。

 夫婦はその晩、銀座を訪れることにしていたのだが、それを聞いた石原氏は「僕もちょうどダンスホールへ行くからおいでなさい」と2人を誘ったのだという。


「銀座は綺麗なところ。夜があんなに明るいのは初めてだった。ソフトクリームも初めて食べた。こんな美味しい物があるんだって感動したのよ」


 年齢や石原氏の話題から考えると、彼女が東京に行ったのは1960年代の前半頃だろうか。東京の人口は1000万人を越え始めていたはずだ。庶民的な繁華街の地位を渋谷に譲る前でもあり、高度経済成長下の銀座の賑わいは大したものだったろう。1958年に竣工したばかりの東京タワーが天を突くのも壮観だったに違いない。それでいて銀座通りを走る都電という光景もまだ楽しめたはずだ。

 ――知識はかろうじて断片を飾るが、彼女の抱いた印象は計り知れない。その美しさ、ネオンの明るさも、他を知る眼でなければ感動の実際はわかるまい。当時を知る者に特有の眩しさ、昂揚感があったに違いない。


「彼と、石原裕次郎とダンスを踊ったの」


 言われた通りダンスホールに踏み入ると、石原裕次郎から一曲を誘われたのだという。


「私、ダンスなんか皆目わからなかったけど、石原さんがリードしてくださってね。たんたかたんたか、くるくるくる。なかなか筋が良いなんて言ってもらえて。みんな羨ましそうにこちらを見ていましたよ。夫も焼き餅は焼いてたでしょうけど、自分は踊れないものだから黙って見てた。たんたかたんたか。綺麗な所だったわ。銀座は綺麗な所。あのダンスホールは何といったか、忘れちゃったけど、広くて、真っ白な床だったっけ。ライトの照らす真下で踊ったわ――そうそう」


 その時ね、姉がいるのに気づいたの。


「お姉さんが?」

 私は内心戸惑った。姉は亡くなったという話だったからだ。また別の姉がいたのか、あるいは夫方の義姉? いや、どうもそうでない。


「石原さんと踊る私を眺める人たちの中にね、姉がいたの。ライトの届かない、暗がりになった柱のそばで姉がこっちを」


 老婦人は笑った。幽霊、ということか? そんな問いを私は呑み込んだ。

 ホールの柱の陰に佇む姉の輪郭は酷くぼんやりとしたものだったという。目鼻もぼやけており、姉の顔はしていなかった。けれども彼女には姉だとわかった。眩しそうに目を細めていることもわかったという。

 腰から下は溶け落ちたように、形を成していない。だから本当にには足がないんだと思ったと彼女は述べる。ちょうど、溶けたソフトクリームが人の形をしている、そんな風に見えたらしい――もっともこれらの委細は、老婦人の言葉の端々から拾い集めたもので、彼女としては取り立てて姉の様子を伝えるつもりはなさそうだった。


「本当に良い夜だったの。そのとき撮った写真も家にあるはずだけど、見せられないのが残念。東京にはその後も何度か行ったけど、あの夜くらい美しい銀座は二度となかったわ」


 その東京行がいかに楽しい場所であったか。夫がどれだけ尽くしてくれたか。だから自分がどれだけ幸せな人生を送ってきたか。老婦人はケーキを食べ進めながら語り尽くした。そうして、彼女の話は遠方で暮らすご子息のことに移って、なお10分ほど続いた。姉について触れられることはなく、不可思議な出来事も起こらなかった。円満な人生の成果だけがまったりと提示された。


 やがて老婦人は「お腹いっぱいになっちゃった」と2つのケーキをそれぞれ2~3口分残し、愛想よく別れを告げて去って行った。皿を片付けに来た店員が私に向けた気の毒そうな目を見るに、かの老婦人はしばしばこの店に現れるものらしい。


 だが、私は曰く言い難い感動を覚えていた。彼女の話がどこまで事実なのかは知りようがない。実際、彼女が語った通りの人生だったのか。銀座で石原裕次郎と踊ったのか。姉の幽霊を見たのか、あるいは彼女が目撃した霊は、姉だったのか。

 だがこれだけは言える。恐らくはあそこで――あの夜に、姉の霊が出なければならなかったのだ。本当に霊が現れたのかはどうでも良い。現れなければならないからだ。彼女の人生の実相も詳細も私には了解できないが、彼女にとっては当然にそうだったのだろう。


 彼女の物語は、あそこに姉の亡霊が収まることで完璧になったのだ。彼女の人生のある空隙を(おそらく耐えがたい余白のようなものを)姉の霊が埋めているのだ。幽霊はそういうこともする、と思えたのだ。我々の生とか、我々の世界にぽっかりと空いた隙間を、霊や怪異が埋めることもあるのかも知れない。それが埋めなければ平らかにならない、滑らかにならない場合というのがあるのかも知れない。

 ……滑らかになるのが良いとも限らないのだが、それ以上の、何か危ういものがその隙間に入り込むことに比べれば、許されるだろう。


 そうであれば、私は彼女の話を鵜呑みにしておきたいと思うのだ。

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