おしぼり様の件

「そういえば、髪の毛にまつわる怖い話ってありますか?」


 床にごっそりと落ちた自分の髪を見下ろして、私は美容師の百舌屋もずやさんに問うてみた。

 その日は既に、彼の実家にまつわる怪奇談――これについては別稿を構えるが――をひとつ聞き終えたところだった。カットもあらかた終わり、だぶついた時間を埋める雑談、のつもりだった。


「なくはないですよ」百舌屋さんは、私の毛先を細かく整えながら答えてくれた。

「でもこれ、オバケを見たとかそういう話じゃないから、どうかな」

 是非聞かせて欲しいと懇願すると、じゃあ――と彼は語り出した。



 飲み会で聞いた話らしい。

 太田さん(仮名)の地元に、お化けが出る家の噂があった。既に離れて暮らしている彼女は「そうなんだ」程度の感想しか持っていなかった、のだが。

「よくよく聞いてみると、そこ、私が昔住んでた家らしくって」


 以下は百舌屋さんが太田さんから聞いた内容になる。百舌屋さんはこの話を、太田さんを再現する口真似を交えながら話してくれたため、ここでは擬似的に太田さんによる語りの形で記述してみよう。


 ――その家に住んでたのは、あたしが15歳の時まででした。うん、物心ついてから、中学卒業頃まで。両親とあたしと、おばさんも同居してました。途中で妹も生まれたから、計5人。

 このおばさんってのが厳しい人だったんで、あたし、何かってーと、しぼられましたよ。

 ああそう、しぼられる話なんすよね、これ。


 あたしが怖かったのはってお化けの話。

 ひとりでお風呂に入るようになってから、同居しているおばさんが言い出したんです。

「ちゃんと髪の毛を乾かさないと、おしぼり様が来るよ」

 あたしが髪を濡らしたまま、家の中をうろちょろするのを見かねて言うんですね。


 要は「しつけ妖怪」ってやつ。それがまぁー、怖くて。おばさんによると、おしぼり様は子供が寝ているところにやってきて、濡れた髪をんですって。押入れの中から出てきて、痩せた腕をにゅーっと伸ばしてね、髪の毛をぎゅ、ぎゅって握ってくる。


 それだけ、うん、言ってしまえばそれだけのお化けで、別に害はなさそうなんですけど、でも気味は悪いじゃないですか。

 だから頑張ってタオルでこすって、ドライヤーもかけられるようになったんですけど、少しでも濡れ残っているのをおばさんに勘づかれると「おしぼり様が来るよ!」と、こうです。


 ある時……8歳の頃ですね。その晩はおばさんが留守にしていて、少し気が緩んだんです。ああ、「おしぼり様」のことを言うのはおばさんだけで、父も母も特に何も言って来ないんです。

 ――よく考えたら、両親から細かい生活上のしつけみたいなの、ほとんど受けた記憶がないっすね。箸の持ち方とか、言葉遣いとかであたしや妹を叱るのは、専らおばさんでした。


 話を戻すと、その日は髪の毛を乾かさずに寝室に行っちゃって、そのままウトウト……濡れ髪で眠っちゃったんです。そしたらイヤな夢、見ちゃって。


 幽体離脱してるみたいな……ってわかります? 意識が体から抜け出して、眠ってる自分を見下ろしている、そんな光景。

 あたしが、布団の上で仰向けになってる。それで、枕の外に投げ出された長い髪の毛が、じっとり濡れているわけ。そこに、寝室の押入れの方から腕が伸びてくる。

 おばさんが言ってたような、痩せた腕じゃなかったと思う。すらっと綺麗な肌に見えた。ああでも、暗いからかな、肌の色は灰色に見えました。

 腕だけです。前腕。肘から手首まで。肘から上は見えないんだけど、その部分だけが来る。投げ出された私の髪の毛を、やっぱりすらっと長い指で握り込むんです。


 それで、ぎゅーっって。

 髪を束で握って、しぼるわけ。


 そのしぼり方が忘れらんないんです。徐々に強くなるのが見ていてわかりました。こう、だんだんと、肘が曲がって――肘から上は見えないんですけど、肘を立てたな、ってのがわかるんです。手首もねじって、締め上げる、って形になる。

 指の間から、ぽた、ぽた、って、水の滴が垂れてくるんです。落ちた水滴で畳が濡れて、どんどん染みが広がっていく――


 イヤでしょ。まぁ単なる夢ですけどね、心のどこかで罪悪感があったのかも知れないです。

 翌朝、おばさんが向けてきた「それ見たことか」って目も――そう見えただけってことですけど――とにかく気味悪くて。それ以来、風呂上がりには絶対に時間をかけて髪を拭って、乾かすようにしてきました。

 っていうか、思い切って親に頼んでね、髪を短くしましたよ。理由は特に言いませんでしたけど、別に親もどうこう意見はつけず、ばっさりとやられましたね。


 それから何年か経って、あたしが中学校に上がるくらいから、おばさんの性格がどんどんキツくなっていきました。

 結構な年齢だし、仕方ないかなって感じなんですけど、ほんと些細なことでも文句つけられました。こっちも反抗期だったんですけど、何か言い返すともう大声で怒鳴り散らすんですよ。あたしが𠮟られてんのに妹に矛先が行ったりするもんだから、やってらんなくて。

 なるべく受け流しましたよ。小言くらいは慣れたんすけど、イヤだったのは、例のおしぼり様のことでした。うん、まだ言ってたんですよ。

 それも、髪の毛のことだけじゃなくなってて。


 時々ですけどね、他の生活習慣についても、おしぼり様の名前を出すんです。

 例えばそうだなぁ――外から帰ってくるとするでしょ。荷物を置いたりなんかしてて、手を洗うのが遅れたりすると言うんです。

「手を洗わないと、おしぼり様が来るだろ! 手をしぼられるよ!」

 あとは、玄関で靴をそろえてないとするでしょ。

「おしぼり様に脚をしぼられるよ!」


 無茶苦茶でしょ。濡れた髪をしぼる、ってのはわかるっすよ。実際、夢に見たしね。でも手とか足とかをしぼるって言われても、ピンと来ないというか。ピンと来ないのが――なんか、余計、不気味っていうか。

 妹もその名前を出されるとすぐに泣くようになっちゃってました。


 なんだかむずむずして、辛抱できなくなって、言っちゃったんすよ。

「なぁ、もうやめろよその話」って。ある日。

「おしぼり様、なんてさ。ちゃんと言うこと聞くから、そんなもんのこと言うな!」


「そんなもんってなんだ!」

 噛みつかれるかって、そう思うくらいの剣幕でした。おばさん、もう顔を真っ赤にして、肩をわなわな振るわせてました。

「おしぼり様が来るだろうがぁぁぁ」

 目を落とすと、拳を固めてるの。握り拳。指が壊れるんじゃないかってくらいに、ぎゅううう――って。


 それでも落ち着かなかったのか、おばさん立ち上がってね、キッチンにあった台拭きを水道で濡らしたかと思うと、両手で強くしぼり始めたんです。

 ぼたぼたぼたぼたっ――床に水がしぼり落されて。おばさんは何度も何度も力を込めて台拭きをしぼる。ぐいぐいって音が聞こえた気がしました。


 何度も何度もしぼって、台拭きがカラカラになると、「これでいい……」とかつぶやいて、部屋に引っ込んだんですけどね。

 もう、あたしへのしつけとかじゃなく、ほとんど妄想っていうか、自分でそれを信じてるんだなー。そう思いました。


 でも、その次の日ね。学校から帰って、自分の部屋で着替えようとしてたんです――ああ、小学生の頃に寝てた寝室のことなんですけど。

 押入れを開けるとね、短い筒のような物体があったんです。ゴミかと思ったんですけど、模様で気がつきました。おばさんがしぼったあの台拭きなんですよ。それが、押し入れの下段、引き戸を開けたところに転がってました。


 雑巾をしぼった後、そのまま放置した状態、わかります? しぼられた形のまま、カチカチに固まりますよね。それなんですけど――触った瞬間、なんだか異様に硬い気がしたんです。凄い力で押し固められたような、機械で圧縮したような、そんな固まり方でした。

 しかもね。触っているうちに、もろもろと、真ん中あたりがほどけたんです。つまりね、ところどころで、繊維が千切れてたんですよね。なぜって、強く強くしぼられてそうなったんでしょ。


 押入れに投げ込んだのは、おばさんだと思うんです。別に鍵のある部屋じゃなかったから。そんなことするのはおばさんぐらいなんだけど――ただ、おばさんの力で、いや、人間の力で出来ることじゃないような、そんな代物でした。


 押入れ。そう、押入れはね、おしぼり様がやって来る方角でしょ。

 これ――あたし、その時はじめて気がついたんすけど――押入れの方から出て来るってことは、おしぼり様は外から入ってくるんじゃなくって、最初から家の中にいるものなんじゃないか。それに思い至って、あらためて、ぞっとしたんですよね。

 押入れの向こうは、階段を隔てておばさんの部屋があるだけです。だからなんなのかって、おばさんが何かやってんのかって、おしぼり様って結局なんなのかって――それは理解できませんでしたけど。

 理解しちゃいけない気がして――もっと言うと、理解したら、おしぼり様が出てきてしまう気がして、考えるのやめました。台拭きは棄てちゃって、見なかったことにしました。


 少しして、引っ越すことになりました。あたしの中学卒業と同時にね。

 父親の仕事、それからあたしの進学の都合、ってのが表向きの理由だったけど、おばさんから離れるため、ってのが大きかったと思います。誰も口には出さなかったですけど。

 ええ、そうですよ。おばさんは残していきました。両親とあたしと妹、4人だけで隣の市に引っ越しました。


 そこから何カ月か、何年か……よくわかんないですけど、おばさんはその家にひとりで住んでたはずです。でも、いつの間にかいなくなってたって、親からはそう聞きました。



「ちょっと。ちょっと待ってください」

 そこで、――本稿の筆者は、つい口をはさんでしまった。百舌屋さんには失礼とは思いつつ、尋ねずにはいられなかったのだ。

「その『おばさん』って、太田さんの、その――なんですか?」


「気になりますよね」と百舌屋さんは笑った。「俺も、ちょうど同じところで訊いちゃいましたよ。どういうご関係なんだ、って」


 百舌屋さんの質問に、太田さんは一瞬、あっけにとられたような顔をしたという。あっけにとられた――いや、より厳密には、呆れたような表情を見せたという。今更何を訊くんだ、と言いたげな。

「どういうって……別に、何の関係もないですよ」

 父母どちらかの姉ではないのか、と問うと、

「いや、親戚とかじゃないですよ。年くった親族を置いてけぼりにしたら薄情じゃないですか。全然知らない人ですよ。ただ一緒に住んでただけです」


 その「おばさん」なる人が同居していた理由を、太田さんや妹は聞かされていなかったし、今も知らないままなのだそうだ。両親に聞けば何かわかりそうなものだが、「まぁ、もう昔のことっすからねー」と、彼女にそのつもりはないらしい。



 ――そうそう。それで、最近知ったわけです。何って、その、昔住んでた家が、心霊スポット扱いされてるって話。

 おばさんがいなくなったその後に、別の家族が住んでた時期はあるらしいんですけど、今は無人なんだって。いや、詳しいことは知りませんよ。ただその地域で、近づいちゃ駄目な扱いを受けてるそうです。実際に立ち入った男の子が、良くないことになったとも聞きましたけど、まぁ、飽くまで噂レベルで。具体的にどんなお化けが出るとか、何が起こるかもわからないですけど……


 ただ、その家の呼び名。

 『ねじ切る家』って呼ばれてるそうです。

 いるんですかね、おしぼり様。


 話し終えた太田さんを、百舌屋さんはじっと眺めたという。友達づてに知り合ったこの飲み仲間は、いささか乱雑な物言いをする他は、ごく常識的な人間に見える。常にベリーショートに整えられた髪は、そういうことなのかと合点が行った。それから――百舌屋さんが目線を落としたのに、太田さんも気づいたらしく、恥ずかしげに笑ったという。

「箸の持ち方っしょ。これもおばさんにしつけられて、こうなったんすよ。駄目だな~と思ってるんすけど、なかなか直らないもんですね」

 太田さんは、握り箸に固めた手を、ぐらぐらと揺すって見せた。


 1本の、やがて2本の手が闇から現れる。中空に浮かぶ布切れを、両端から掴む。手首をひねりながら、勢いよくそれをしぼる。布切れは細くねじられたかと思うと、真ん中で引き千切れる――

 そんな光景を、私は頭に描いていた。既にカットを終えた百舌屋さんが、目の前に暖かい濡れタオルを差し出してくれた。

「どうぞ。よくしぼっておきました」

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