鳳凰崩れ
水路に真っ白い影がたたずんでいた。
ところどころに街灯の光が水路の底を透かしていた。その輝きの合間を縫う闇の中に、すっくと白いものが立っていたのだ。
瞬間的に怖気が走った……のだが、よく見ると真っ白い
幽霊の正体見たりなんとやら。だが大きな動物というのがおしなべて怖い中で、大きな鳥というのは怖さの他に独特の不気味さを持つ。正体が鷺だとわかってなお、白い影は奇怪に見えた。
鳥そのものは嫌いではないけれど、大きい鳥は苦手だ。鷺が人里で繁殖することも増えているらしく、それもいささか気がかりだ――そんなとりとめもない話を、翌日会ったうのみ氏の前で放り投げていたのだが。
「あたしは動物全般、好きっすけど」
氏の口から覗くグリルが、銀色に光る。何度見ても気圧される輝きだが、喫茶店のレトロな――実際、明治時代からあるという――風情の中で、どこか上品にも映るから不思議だ。
「でもそれは、こっち側の好きってマインドで押してるから平気なだけでー」
氏の髪はロブくらいの緑色だった――この日は。アクセサリーやピアスの類も、悪目立ちして見えないから不思議だ。そこに(強烈に)いるようでいないようなところが、氏にはあった。
「ほんとのところは、わけわかんないですからね」
わけがわからないことがすなわち怖いことだとすれば、他人も怖いが動物はもっと怖いだろう――うのみ氏はそんなようなことを言った。
続けて「しかしわけを押し付け合うのが存在と向かい合うということであって、そこで押し負けると恐怖に飲み込まれるのである」といった意味の、わかるようでわからないことものたまった。
さて前置きが長くなったが、この時「それで、鳥と言えばっすね」と氏が教えてくれたのが、以下の話なのだ。
上村さん(仮名)が小学生の頃の、奇妙な記憶。
家には彼女ひとりきりで、だからこれは留守番をしていたのだろう、とのことだ。
海辺の町の静かな午後だった。
彼女は家の中で宿題に取り組んでいた。学校のものに加え塾の課題も残していた。必死に鉛筆を動かしていた彼女には、その音がいつからしていたものか、明確にはわからない。
ただ、ふっと集中が途切れた時、彼女の耳が、ぱちぱち、という断続的な音を捉えた。
ぱち、ぱち。どうやら外で鳴っている。焚き火の音に似ていた。すわ火事かと思った彼女は玄関から外に出た。家の前は開けた道だ。向かいに並ぶ家々の合間からは、もうすぐに海が見える。
周囲には人っ子ひとりおらず、野良猫の影もない。波の音も海鳥の声すら聞こえなかった。そして、何かが燃えているということもなかった。
ただ静寂を裂いて、一定間隔で、ぱちぱち、という音が――そう、ちょうど彼女の、頭上から聞こえていたのだ。
見上げると宙に、2階建ての我が家の屋根あたりの高さに、大きな毛の塊のようなものが、ゆっくり旋回していた。鳥のように飛んではいたが、見知った鳥のいずれでもない、いやそもそも、鳥の形もしていなかった。
頭部はうまく確認できなかった。翼らしき部位は時折動いたが、全体に対し妙に小さく、毛の束のように見えた。
敢えて例えるならば、ダチョウの胴体部分だけが飛んでる、そういう感じだった。こんなものがどうやって飛べているのか、それもわからなかったのだが。
それが羽ばたく(?)たびに、ぱち、ぱち、と木が爆ぜるような音が立つ。
ぎええ、と思ったが、正体が気になったのか足がすくんだのか――彼女自身にもよくわからないが――動くことができなかった。
数秒、その羽毛の塊を見上げていると、「どうしたの」と背後から声をかけられた。そこでやっと首が動いた。
先ほどまで無人だった田舎道に、というか彼女のすぐ後ろに、知らないお婆さんがいた。小さな町のこと、大概の住民はおおよそ顔見知りだが、これは全く見覚えのない老婦人だった。ただ大人がいると心強くはあり、中空を指さして「変な鳥がいるの」と伝えた。
お婆さんは「あらぁ」と驚いてみせたが、どこかわざとらしかった。
「あれは『ほうおう』よ、お嬢ちゃん」
「ほうおう?」
鳳凰、という名前は、彼女も知っていた。本にも出てくるし、そういう名前のポケモンもいる。だが……目の前のそれは、小説やゲームに見る聖鳥とは、どうも似つかない。そもそも、鳥、なのか?
「そう。おめでたいものを見たわね。とっても珍しい動物なの、鳳凰はね。鳳凰の翼の音は、賢くて立派な人間にしか聞こえないの。将来、偉人になる人の前にだけ現れるのよぉ。お嬢ちゃん、凄いわねぇ」
お婆さんが、そんなことを言ってニタニタと笑った時。
ぱちぱち。音の間隔が短くなって、『鳳凰』が、
「頭を撫でてあげなさいね」
空から舞い降りて来た。
羽毛の塊が、上村さんの目の前、家のコンクリート塀に降り立った。宙にいる時は大きく見えたのに、眼前のそれは不思議なことに、ニワトリ程度のサイズだった。
濃い茶色の羽毛には、所々、菊花のように鮮やかな黄色が混ざっていた。
「ほら、撫でてあげなさいね」お婆さんの言葉に導かれ、上村さんは手を伸ばしかけたのだが。
重なり合った羽毛の茂み、その奥から、ぐりぐりと這い出て来るものがある。黒ずんだ毛にまみれた、肉の、瘤めいたものが蠢動して、頭だろうか、けれどもそれには、目も嘴も見当たらなかった。
その瘤を目にして彼女は逡巡した。手が引っ込められたその時、黒い瘤がぱくっと割れて、その傷口が大きく開いた。顎が落ちたような形に見えたそうだ。
「ああ」
と、酷く弱々しい、人間みたいな声が聞こえた。
そうして、『鳳凰』は、崩れ落ちた。瘤はどろりと溶け落ち、羽毛がばさ、ばさ、ばさばさばさと剥がれ、地に落ちて、積もった。
数秒のことだった。全ての羽毛が落ちた時、塀の上の『鳳凰』の姿はどこにも見えなくなった。
最初から羽毛しかなかったみたいに。黄色い羽根は地面に散ったそばから、薄汚い灰色に変わった。足下に、何のことない枯葉のように散らかった羽根を、しばし見下ろした後、上村さんは振り向いた。
お婆さんは、上村さんに人差し指を向け、歯を剥いて笑っていた。
「あーあぁ、やっちゃった」
嘲るような、いや確実に馬鹿にした言い振りで。
「あなたがちゃんと撫でないから。崩れちゃったじゃない。あーあ、もう駄目よ。あなた、立派な人になれないね。偉い人になれないね」
それが嬉しそうでもあった。見た目は老人なのに、酷く子供じみて、それは『鳳凰』よりもよほど不快感をもたらすものだった。
「せっかく鳳凰が来てくれたのにねぇ。あーあ、もう賢くなれないよ」
重ねて責めてくる老婆に、上村さんは――咄嗟だったという――反駁した。
「人の顔を指差さないでください!」
一瞬、老婆は面食らった様子で言葉を止めた。ややあって大きな溜息と同時に首を振り、「はーあ、どっこいしょ」と、如何にも億劫そうにしゃがむと、地面に散らばる『鳳凰』だったものを手でかき集め始めた。
上村さんが呆けている内にその作業は終わり、お婆さんは「あーあ、こんなにしちゃって」と愚痴りながら去って行った。後には一本の羽毛も残っていなかった。
上村さんはそのまま、家に戻った。
「だから私、一生立派な人間にはなれないんです」上村さんは冗談めかして言う。
「小さい頃は勉強も運動もできて、持て囃されてました。自分でも頑張らなきゃって思ってたけど、それがあってから肩の力が抜けて、ついでにプレッシャーも感じなくなって。好きなように生きよう、って。どうせ立派になれないんだし」
例のお婆さんらしき人は、やはり町にはおらず、以後も姿を見ることはなかった。
「白昼夢ってやつですかね。それか、記憶の混濁か。現実の出来事とは思ってないですよ、今は」
でも当時は、『鳳凰』のおかげで、楽になれました。
――ガチン、と。何かを嚙み切るように、うのみ氏の歯が打ち鳴らされた。
ぎゃはは、と笑って「そういう、話なんすよ」と氏は締め括った。
コーヒーを飲み干す氏の、緑の髪が揺れる。私の頭の中では、溶け崩れる鳳凰と、嘲笑いながら未来を云々言う老婆の姿が形を成し始めていたのだが、若々しい色の軌跡がそれを霧散させた。そういうことにしておく。
以下、余談である。
江戸末期の奇談集『絵本百物語』に、「波山(ばさん)」という妖怪の話がある。竹原春泉斎の挿絵にあるように、火を吐く鳥の姿を持ち、ばさばさと羽の音を立てることから「ばさん」と名付けられたそうだ。
別名を「犬鳳凰」。下等な鳳凰、とか、鳳凰もどき、くらいの意味だろう。
上村さんの体験は随所にこの妖怪を連想させるものがあるが、もちろん別物とすべきだろう。「ばさん」ならぬ「婆さん」の方はひとまず置き、この鳥(?)は仮に「鳳凰崩れ」と呼んでおく。
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