ビッグ弾吉
「じゃあ、『ビッグ
小気味よく刻む、ハサミの音の合間から、いささか滑稽な単語が聞こえた。
私の頭髪を軽快に刈りつつ、これから紹介する奇怪な話を教えてくれた彼――美容師を、仮に
彼自身、興味深い経歴の持ち主だが、彼の周囲にも特異な経験談をお持ちの方が多いらしい。とりわけ怪談、不可思議な話の蓄えがあり、それを引き出すのが毎度の楽しみである。もちろん、一種の世辞としての誇張、あるいは端的に嘘かも知れないが、聞いた話はいったん鵜呑みにしておこうと、最近は思っている。
この日は雑談として、子供の頃に読んだ漫画の懐旧に興じていた。それも倦んできた頃に、百舌屋さんは冒頭の問いを投げかけてきたのだ。
『ビッグ弾吉』。どこかありがちなタイトルではあるが、どうも知らない。
「そういう漫画が、あったらしいんですけど」
鏡越しの百舌屋さんは、クロシェハットのやたらカラフルなものと、強く
【第1巻】
Aさんという人の体験だ。彼が『ビッグ弾吉』を初めて見たのは、学童保育で通っていた教室でのことだった。
両親が共働きだった彼は、小学校入学当初から、学童保育に預けられることに決まっていた。しかし彼の学校では制度が未整備だったため、放課後になると隣の校区の小学校に通う必要があった。
預けられていたのはほとんどが、その隣の学校の児童だった。当時内気な性格だったAさんはその輪に入れず、多くの時間を本棚の前で過ごした。最初は絵本や低学年向けの児童書を読んでいたAさんだが、半年が経つ頃には漫画本にも手を出し始めた。そんな中で、本棚の、ぎりぎり手の届く高さに、白と赤で彩られた背表紙を見つけた。
『ビッグ弾吉』というタイトルのその漫画は、当時のAさんにとってはやや字が多く、コマ割りも細かかったが、内容は単純で理解に難くなかった。弾吉と呼ばれる元気な少年が仲間と繰り広げる一話完結型のドタバタ劇だった、とAさんは記憶する。イタズラ好きの弾吉は手痛い失敗や戒めを受けることもあったが、熱血漢でいじめっこを懲らしめることもある。何より、活動的で友達の多い弾吉の姿に、Aさんは憧れのような感情を抱いた。
表紙には「①」と書かれていたので、2巻目以降もありそうだった。ただ本棚にはその1巻きりで、仕方なくAさんは「①」を繰り返し読んだ。収録されていたのは7話で、何度も読んだのだからそれは間違いない、とAさんは言う。しかし。
ある時……それは冬休みの直前だったが、話がひとつ増えていたという。読み慣れた7本に続いて、8本目の話が存在していたのだ。
さすがに混乱したものの、しかし得をした気分にもなって目を通した。内容は、弾吉が山で修行中の武道家にイタズラをしかけ、懲らしめられるというものだった。
問題は、最後の大ゴマだった。両手足を縛られ、崖っぷちからロープで吊るされる罰を与えられた弾吉……というシーン。
「わーん、助けてくれーい!!」
もがきながら笑い泣きする主人公の目が、いつものデフォルメされたそれに比べ、妙に細かく、瞳が描き込まれ、白目を血走らせた、鬼気迫るものになっていたのだ。さらに、通常はベタ塗りになっている弾吉の髪が、塗り忘れなのか、そのコマだけは真っ白になっていて、それが曰く言い難いおぞましさを醸し出していた。
その夜、Aさんは夢を見た。夢の中では、子供らしき声が助けを求めていた。
「わーん、助けてくれーい!!」
「助けてくれーい!!」
「助けてくれー、助けてくれー、助けてくれー」
弾吉少年の声だと思った。もちろん聞いたことはないが、自分が想像していた通りの声、だと思った。
Aさんは『ビッグ弾吉』に触れがたくなった。読みたい気持ちはあるのだが、あの8話目のことを考えると、腹の底からせり上がるような不安を覚えたのだ。
2年生進学を控えた頃、Aさんの学校にやっと学童保育の教室ができた。これで隣の学校に通わなくても済むようになったのだが――
最後の日、ひとつの事件があった。グラウンドの端を歩いているAさんの目の前に、人が落ちてきたのだ。
どさり、と無機物のように、その体はAさんの眼前2~3メートル先に落下した。
落ちたのはその学校の教師だった。Aさんも何度か姿を見かけたことはある、年配の男性教員だった。卒業アルバムの空撮に向けて体育倉庫の屋根を掃除していたが、足をもつれさせて落下したのだと、その後の喧噪の中で聞いた。
命に別状はなかった。しかし、折れた手足の痛みに悶え、白髪頭を振り乱し、目を血走らせたその教師の表情を、Aさんは忘れることができない。
以後、Aさんがその小学校を訪れることはなかった。だから本棚の『ビッグ弾吉』に触れる機会もなくなった。彼が再びその漫画と出会うのは、4年後のことになる。
【第2巻】
小学5年生になったAさんには友達も増えた。やはり両親は共働きであったから、土日や放課後には誰かの家に遊びに行くことも多かった。遊びは、もっぱら流行中のテレビゲーム。だが3~4人いれば盛り上がるそのゲームも、誰かが帰って2人になると面白味に欠け、そのような時は手持無沙汰になることがあった。
夏休みのある日、B君という友人の家でそんな状況になった。2人ともゲームをやめて、なんとなくB君の持っている漫画を読み出した。大きな本棚に並ぶ背表紙を吟味している時に、それを見つけた。
赤と白の背表紙。ポップな『ビッグ弾吉』の文字。さらに「②」という数字が目に入り、反射的にそれを抜き取った。表紙のキャラクターを見て、1年生の頃を思い出す。確かに『ビッグ弾吉』だった。かつては気に留めなかった作者名――「寅田てっぺい」という字面も、よくよく見れば見覚えがある。
「この漫画、知ってる」とB君に呼びかけると、彼は一瞥の後、「へぇ」とさほどの興味を示さずつぶやいた。
「そんな漫画、あったかなぁ」B君自身、初めて見たのだった。本棚もその中身も既に家を出た兄から譲り受けたもので、半分ほどの漫画は開いたこともない。
「昔、1巻目だけ読んでたんだけど……」
Aさんは本棚をひと通り眺めてみたが、第1巻は見当たらない。ここには、「②」しか見当たらないようだ。
以前の不気味な記憶は残っていたけれど、何度も読み返した甘やかな時間も思い出して、つい読み始めてしまった。
昔と違い、いまや滑らかに読むことができる。内容は相変わらずのコメディタッチだったが――3話目を読み出す頃には、違和感を覚え始めた。その違和感は、読み進める間、一貫して続いた。
まず、主人公・弾吉が女の子のスカートをめくるシーンが頻出した。仲の良いキャラクターをポカポカ殴り、さらには、道で財布を拾ってお金をちょろまかす話さえあった。確かに弾吉はイタズラ者だったが、1巻では女子に乱暴したり、友達を無下に扱うようなことはなかった。イタズラはしても、姑息な犯罪などはしなかった。1巻の弾吉なら財布はすぐに交番に届けただろう。
そして報いと言うべきか、ほとんど、いや全ての話のオチが、弾吉がきつい罰を受けるというものになっていた。父親に殴られる、ハチの大群に刺される、車にひかれる――1巻でやり込めたいじめっ子に逆襲されるに至っては、目をそむけたくなった。
「わっはっは、この前のお返しだ! それっ、ブル!」
いじめっ子の飼っている大きな犬が、弾吉に噛みつく。
「うわーっ! 許してくれ~っ」
痛みに悶え、悲鳴を上げ懇願する弾吉――
これがあの『ビッグ弾吉』だろうか。違和感はもはや嫌悪感に変わったが、最後に残された7本目の話を読み切ることにした。その話は、そこまでに比べれば落ち着いた、落ち着きすぎた内容だった。
1人でハイキングに来た弾吉が道に迷い、遭難のような恰好になってしまう。しかし弾吉はごく淡々と木の実を採ったり、焚火をしたり、川に沿って歩いたりして、山を下る。
「わぁ、町が見えたぞ、ばんざい!」
木々を分けて下山する弾吉の姿で、物語は終わった。
だがAさんは、この話を最もおぞましく感じた。なぜなら、全てのコマで、弾吉の左半身が真っ黒に塗られていたからだ。淡々と動き回る弾吉の、帽子も、顔も、服も腕も脚も、左側だけがベタ塗りされていた。作中ではなんの説明もなく、最初のコマからそうなっている。B君の兄の落書きかとも思ったが、どうも印刷に見える。とすれば印刷所のミスだろうか……
再び、かつてのせり上がる不安、独特の息苦しさがAさんを襲った。時刻は夕方になって、門限が迫っていた。いつの間にか携帯ゲームに夢中になっていたB君に、そろそろ帰ると告げる。
「それ、面白い? 貸そうか?」
『ビッグ弾吉』を指さしながらB君が言う。一瞬迷ったが、かぶりを振って見せた。
家に帰ってからも、おぞましさと不安が消えなかった。だが、既に高学年になってある程度の理性と常識を身に着けたAさんは、何かの間違いだったのではないかとも思い始めた。
1巻目の記憶が――それも今やどこまで信用できるか――内容を歪めて見せたのではないか。弾吉の半身が真っ黒になっていたのは――あるいは漫画を読みながらうたた寝でもしていたのではないか。
そんな考えがよぎるのと並行して、もう一度あれを読んでみなければ、という焦りに似た欲望も起こってきた。読んで確かめなければ。もう一度、読みたい。
次にB家に行った時に、やっぱり貸してくれと頼もう。そう思ったのだった。
だが、再び第2巻を手に取ることはなかった。遊びに行ったその2日後、B君の家は火事で全焼してしまったからだ。B君とその家族は、全員が軽い火傷を負ったものの、すぐに避難したために助かった。火の不始末が噂されたこともあって、B君一家はそのまま引っ越してしまった。
『ビッグ弾吉』第2巻も、恐らくは灰になったことだろう。
【第3巻】
最後に、Aさんが高校生の頃の出来事。
電車通学をしていた彼は、放課後、乗り継ぎ駅で降りて周辺の商店街で暇つぶしをしていた時期があった。
少し足を延ばしたところに、某古本チェーン店があり、そこで立ち読みすることも覚えた。小説やエッセイにはまっていたので、足を止めるのはそうした文庫本が並んでいるコーナーだったのだが――その店は漫画本の棚もかなり充実していた。だから、何度目かに訪れた時には、それをつらつらと眺めてみた。
視線が児童向け漫画の一帯に及ぶと、やはり『ビッグ弾吉』のことを思い出してしまう。B家の出来事から5年、顧みればなお不気味である。ただあの時、B君の家で見つけた第2巻の、カバーや奥付をよく見ておかなかったことを、少し後悔していた。小学生だったから仕方ないとはいえ、いつどこから出版されたものなのか、なんという漫画誌に連載されていたのか、それがわかれば――つまり尋常の漫画であることが確認できれば、得体の知れない恐怖を抱き続けることもなかったのではないか。
店を訪れるたびに『ビッグ弾吉』を探してみたが、見つかることはなかった。インターネットで検索してもそれらしい情報は出て来ない。こうなると本末転倒で――つまり「実態がわかれば怖くない」と考えたが故に「実態がわからないからますます怖い」という心境になってしまった。
ついにはある日、おずおずと店員に「寅田てっぺいの『ビッグ弾吉』って漫画、ありませんか?」と尋ねてしまった。店員も棚を確認してくれたものの、やはりその店にはない。店の在庫データといった便利なものはなく、対応してくれた店員も、そんなタイトルも作者も聞いたことはないようだった。
店を出て、缶コーヒーを飲みながら自分を落ち着けようとした。
見つからないなら仕方ない、知ることができないなら仕方ない、そもそも少年期の記憶などにかかずらってどうする、不安定な心が事実を歪めていたのかも知れないじゃないか、来年は受験なんだからしっかりしよう――
理路とも言えない理路で頭を整理しながら、駅のホームに至った。そこで、
「『ビッグ弾吉』を探してるんだね?」
声をかけられた。背の高い、中年男性が隣に立っていた。
「え? あ?」戸惑うAさんに、男は畳みかける。
「さっきお店で探してたよね? 『ビッグ弾吉』を読みたいんだね?」
つまり、店員との会話を脇で聴いていたのか?
「いえ、別に読みたいってほどじゃ……」
「今まで読んだことある?」
「あ……」ない、と答えようとしたが、言葉が喉で詰まった。
あの、不安感が、おぞましさが肺腑を突き上げてくる。
「2巻まで読んだんだね」これは、Aさんがそう伝えたのかどうか、よくわからない。「じゃあ3巻が気になるでしょう?」
40代くらいだろうか、黒いスーツを着ていて、背筋が伸びたサラリーマン風で――変わったところといえば、手ぶらであることと、微動だにしない笑顔を貼りつけていたことだった。
「3巻は最終巻でね、弾吉はどんどん体が悪くなっていくんだ。そりゃそうさ、毎回あれだけ酷い目にあってたんだから。ついには入院するんだけど、うふふ」
男は、第3巻のあらすじを説明しはじめた。Aさんは逃げ出したかった。知りたくない、聞きたくない。しかし電車はまだ来なかった。
「それで最終話ではねぇ、町に巨大な怪獣が現れるんだ。それで弾吉の友達や家族、メインキャラクターは次々に死んじゃうわけ。そうするとね、弾吉が入院した病院の医者が実はマッド・サイエンティストでね、弾吉の体を改造して、巨大化させちゃうんだ。ふふ、『ビッグ弾吉』のタイトル通りになるってわけ。面白いでしょ?」
何も面白くない。Aさんにはその先が想像できた。小1の時に見た悪夢、夢の中出聞こえた弾吉の声が蘇る。「助けてくれー」
「でも子供が巨大化した程度で怪獣には勝てないでしょ? だからやっぱり弾吉はズタボロにされるわけ。いつもみたいに。米軍が核兵器の使用を決定して、お話はおしまい」
そのコマが容易に思い浮かんだ。満身創痍の弾吉に怪獣が炎を吹きかける。弾吉は叫ぶ。「ぎゃああああ、助けてくれ~い!」……誰かが言う。「トホホ、やっぱり核兵器しかないか」……そして弾吉の頭上に閃く核ミサイル。
「どう、読みたくなったでしょ?」
Aさんは首を振った。子供のように大きく大きく首を。
「嬉しいなぁ、『ビッグ弾吉』を好きな子がいるなんて、僕はね、寅田――」
――気がつくとAさんは、自宅に帰りついていた。電車に乗った記憶はなかった。一体、あの男とはどうなったのか。ただ、外の日は既に落ちて、母親が仕事から帰っていた。
「えっ、あれ?」
いささか、いや、大いに狼狽したが、さらに次のような母親の言が、彼を戦慄させた。
「さっき話してた子、誰?」
「はい?」……「子」?
「私が帰ってくるまで、家の前でお喋りしてたじゃん。小学生くらいの男の子と」
母親の言うところによれば、薄暗い路上でAさんが男の子と話し込んでいたのだという。Aさんが腰をかがめ、男の子を覗き込むようにして、楽しそうに言葉を交わしていた様子だった。男の子は背中を向けていたので、母親から顔は見えなかったが、白いシャツに、黒いパンツをはいていたという。
弾吉が来たんだ。根拠はなかったが、Aさんはそう発想した。
Aさんは、本屋や図書館に行かなくなった。できれば本棚というものを見たくないのだという。今は電子書籍で読書を楽しんでいるが、購入した電子データの中に、まぎれ込んでいないか心配になることはある。いつかどこかの本棚に、あるいは電子書籍のライブラリの中に、『ビッグ弾吉』を発見してしまうのではないか。Aさんは今もそんな不安に襲われることがある。何より怖ろしいのは、見つけてしまったら最後、それを手に取らない自信はない、そんな好奇心が今でも自分に残っていることだという。
――百舌屋さんの語りと共に、ヘアカットも終わった。
しかし、なんとも嫌な話である。私も子供の頃に、怖い漫画や不快な絵を目にして、長く引きずった経験を持っているだけに、腹の底に響くある種の共感があった。
「『ビッグ弾吉』を見つけたら、是非教えてくださいね」
百舌屋さんはそんな冗談を言って笑う。
「いやぁ……できれば出会いたくはないですね」
「まぁ、Aの話がどこまで本当かはわからないですけど」
そこで、ふっと百舌屋さんの笑顔が消えた。
「話の中に出てきたB君って、僕なんですよね。数年前に、Aと再会しましてね。僕の家であいつが読んでた漫画がそんなタイトルだったか、よく覚えてないんですよ。ほら、その後、あんなことがあったから」
鏡の中の百舌屋さんを、私は凝視した。
「今でも左肩と左脚に火傷の跡があるんですけど、見ますか?」
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