名のある土地

(前略)是に類した言い伝えが、他の地方にもあることを、人に聞き又は書物で見て、思い出された方はどうか知らせて下さい。

(柳田國男『田の神の祭り方』)



 ――涙、で思い出すことがひとつあります。これはあなたもお好みの話かも知れませんね。

 ぜひ聞かせて欲しいと頼むと、教授は「その前に」とコーヒーを入れてくれた。「少し、長い話になりますから」


 教授のことは以降、とでも呼んでおこう。本名から取られたユーモラスな愛称と、柔らかい物腰で学生から親しまれている。だが専門分野においては一流の研究者・教育者で、仕事の上でも締めるべきを締め、頭を下げるべきを下げる、私にとっても頼れる上長である。

 年齢は50代、頭髪に白いものは混じっているが、肌の色つやは驚くほど良い。誕生日や卒業式などの節目ごとに学生から贈られるネクタイを、日替わりで着用しているのが微笑ましい。この日は鳥の描かれた小紋柄だった。


 校務の打ち合わせを終えた我々はよもやま話に興じており、そこで私は、先日うのみ氏から聞いた『青が濃くなる部屋』の話を、ほんのさわりだけだが、話した。

 メダカ先生はその手の話を嫌がらない。むしろ楽しげに聴いてくれるところがあった。時には自分の知る話や、経験談で応えてくれることもある。その理由をなんとなく、本件から察したわけだが――ともかく、「涙」という単語から、メダカ先生が語ってくれたのが、以下の話である。



 故郷に「涙地蔵なみだじぞう」と呼ばれている祠がありました。とはいえ「涙」に関する由緒があるわけではない。石で組まれた祠に扉はなく、中には簡素な石像が収まっていました。赤い前掛けが巻かれてかろうじて地蔵に見える、そんなものでしたね。

 ――断っておきますが、その祠それ自体の話ではないんです。飽くまでそれが建っていた場所について、です。


 中学生の時分ですね。通学に片道1時間くらいかけてました。田舎道をね、徒歩で。自転車を使う生徒も多かったですよ。でもうちは親兄弟と共用でしたから、自転車に乗れる日は限られてました。

 それで、同じように徒歩の級友たちと、てくてく帰るわけですが、通学路の途中で休憩がてら、道草を食うことも多かったわけです。


 ルートを少し逸れたところに、空き地がありました。学校と家との中間地点くらいでしたねぇ、片側に田んぼを見渡せる、やや盛り上がった農道があって、そのもう片側がぽっかりと空き地になっていました。そう、結構な広さでしたね。大きな屋敷を建てても良いくらいで、草木も茂ってはいなくて、なんの土地なんだと――中学生ながら気にはなっていました。

 山の麓で、いつもなんとなく薄暗い、寂しい場所でした。しかし中学生にとっては寂しいところだから楽しいということもありますでしょう。時々、遊び場所にしていました。


 遊び場所と言っても、私の友人連はあまり活動的なタイプではありませんでね。キャッチボールなんかすることはありましたが……いやいや、悪い遊びなんてのじゃない。馬鹿話で時間を浪費して、それで十分楽しかったんですね。農道の陰になる位置に座れば、近所の大人に見つかって咎められることもありませんでした。


 その空き地を見下ろす場所に、「涙地蔵」があったんですね。空き地を取り囲む細い道、農道から延びた支路のようなところに立ってました。しばらくは全く、気にしてませんでした。私たちが座り込む定位置からは少し離れていましたから。何かあるなと目視はしていましたが、別に地蔵堂なんかは珍しくないわけですから。


 初めて近寄ってみたのは、たまたまひとりで帰っていた日でした。空き地のぐるりを散策していて、覗いてみる気になったんですね。そうすると、先ほど申し上げた通りの祠でしょう。中の地蔵さん……だかなんだか、石仏が妙に可愛らしく見えましたもので、家に帰ってから親に尋ねてみたんです。あれは何か由緒のある地蔵なのかと。そうすると、由緒は知らないが「涙地蔵」と呼ばれていると、こう言われたんですね。

 だからまぁ、決して無名のものではなかったんです。積極的に拝む者はいなかったけれど、なんだかそういうものがあるんだということは、親世代は認知していたんですね。


 次に空き地へ行った時には、2人でした。別のクラスの吉田(仮名)というのが一緒でした。あれは涙地蔵というらしい、と私が話題にすると、じゃあ俺も見てみようかなと吉田が走っていったわけです。

 先に覗き込んだ吉田が「おい、来てみろ」と手招きしました。一緒に祠の中を窺うと、祠の奥、石像の裏側に、何か白っぽいものがありました。最初に見た時はなかったはずですがね、いや少なくとも気付かなかったですね。

 吉田がね、手を伸ばして取ってしまったわけです。小さな祠ですよ。石像は固定されていましたから、その脇から手を突っ込んで無理やりに取り出していました。私はやめておけとね――言ったかなぁ、止めたかなぁ、どうだったか、もしかしたら私も面白がってたかも知れません。


 紙じゃなかったろうと思います。プラスチックの札……ほら、我々の研究室とか、教室の入口に貼ってる表札あるでしょう、あんなものでした。

 黄ばんだプラスチックの板が何枚かあって、それぞれに油性マジックで大きく、平仮名が書かれていました。


「しょうへい」

「ふみこ」

「あきひろ」

「さだお」


 人名でした。ぎょっとしましたよ。それはやはり、最初は不気味さからです。ただ、地蔵堂ですから、何か亡くなった人を祀ったものかも知れないと考えまして、それはそれで良くないことをしてしまったと、焦りました。

 ここでさすがに、吉田には注意したろうと思いますね。元の場所に戻した方がいいと。札にじっと見入っていた吉田も、我に返ったようで、あわててそれを石像の裏に押し込みました。


 その後、ずっと気がかりではあったんです。気がかりだったからこそ、空き地には近づかなくなりました。

 一方で、自分なりに調べてみたい気持ちも出てきました。学校からは遠い家だったけれど、図書館が近所にあったのは幸いでしたね。ただ結論としては、町史なんかを読んでも「涙地蔵」のことはわかりませんでした。

 ――わかったのは、当時70歳くらいだった大伯母に尋ねた時でした。それが、祠を覗いてからどれくらい経ってのことだったか、その記憶が曖昧なんですけども。

「涙地蔵?」

 大伯母は一瞬考え込んだ後、ああ今はそう呼ぶのか、と頷きました。

「あれは元々は、『あみだ地蔵』って言ったんだ」

 そう教えてくれたんです。つまり、彼女の知る限りにおいて、「あみだ地蔵」と呼ばれてきた祠が、訛ったか誤解されたかして、いつしか「涙地蔵」になったんですね。なるほど、その時は面白く思いましたね。


 でもそれで、あの名札のことがわかったわけではないですし、それに――よく考えると、「あみだ地蔵」も妙な名前だ。そうでしょう。この「あみだ」が阿弥陀如来のことを指すとしましょう。地蔵というのは地蔵菩薩ですから、別の仏様ですね。もちろん、阿弥陀如来を石仏として祀ることはありますから、それが地蔵と混同されたというのはあり得ますが・・・・・・


 いったん話を進めましょうか。

 ある日の放課後、吉田が声をかけて来ました。あれ以来、吉田と喋るのは久しぶりでした。意識して避けたつもりはないんですが――

 下足場で靴を履き替えながら、私は吉田に、「あみだ地蔵」の話をしようかと思いました。けれどもそれより先に彼は言いました。

「なぁ、今日はあそこに寄っていこうぜ」

「あそこって?」


 何か、聞き間違えたのかと思ったんですが、やっぱり吉田は「さだお」って言ったんです。我々には「さだお」という友達はいませんでしたから、誰かの家というわけではないんです。

「ほらあそこだよ」吉田はなぜか苛立たしげに続けました。「あの空き地、さだおっていうらしいよ」


 。「さだお」というのはね、そこで思い出したんですが、あの札に書かれていた名前のひとつでしたよ。

 それはどういう・・・・・・なんの話なんだと当惑していると、吉田は、すらすらと次のようなことを語りました。


「あの日、名札みたいなものを見つけただろ。それがどうも気になったんだ。1週間くらいたって、夜中、布団の中で気になってどうしようもなくなったから、家を抜け出して行ってみたんだ。そしたら空き地に男の人がいて、教えてくれたんだ。ここは今、『さだお』なんだって」


 ――彼の言っていること、すべてが理解できませんでした。なぜ夜中にあんな場所へ行くのか。その男は何者なのか。なぜそんな男に近づくのか。なぜ空き地が「さだお」なのか。


「丁寧に教えてくれたんだ。その人はあの空き地の元々の持ち主なんだけど、あの空き地の名前が思い出せないんだって。だから色んな名前をつけてみて、しっくりくるかどうか、試してるんだって。つけた名前を祠に入れておくと、土地と名前がしっくりくるかどうか、段々わかってくるんだって。色んな人から名前を借りてきて、今は『さだお』にしているんだけど、やっぱりこれもしっくりこないって」


 ごく平気な様子でしたよ。あまりに普段の調子で喋るから、私も、なるほどそういうことなのか、と一瞬だけ納得しそうになりました。今でもですね、どうかすると、あの辺りには何かそういう風習のようなものがあったのかと、考えることもある。でもですね、やっぱり異常でした。


「どんな男の人?」と聞きました。あの周辺は人家もまばらで、年格好からおおよその見当はつきそうなものでしたが。

「さぁ?」と吉田は首を傾げるんです。

「そういえば顔とか背丈とか、わからなかったな。暗かったからかな? いや、遠かったからかな」

「遠かった?」

「その人、ちょうど空き地の真ん中に腰まで埋まってたから」


 家の用事があるから、と私は下手な言い訳をして、彼を置き去りに走って帰りました。

 徒歩1時間の道のりを、ほとんど駆け抜けて、心身ともにくたくたになりましてね。家の鍵を開けるや否や、玄関にへたりこみました。

 帰ったのか、と、台所から母の声がします。私の弱々しい返事に被せるように、

「さっきまで大伯母さんが来てて、あなたによろしく伝えてくれって」

 こう、言うのですね。

「何を?」と私は靴紐をほどきながら、気のない返事をしたでしょうね。内心、それどころじゃないですから。また、台所から声がします。


「なんかね、の地蔵のことはもういいのかって」


「えっ、えっ」とね、私はほとんどパニックになりましてね。

「あそこでしょ? 空き地のところの」

 大伯母も、母も、もしかしてみんな、あの土地を「さだお」って呼んでいるのかと。玄関で、呆然、動けなくなってしまったんですが、

「大伯母さんもあんなに腰から埋まってしまって――」と聞こえた瞬間、2階の自室に駆け上がりました。


 本当に母の声だったか? さて、違うんでしょうね。ほら、鍵を開けたって言いましたでしょう。うちは家に誰かいる時は、鍵をかけないのが習慣だったんです。私が自室で縮こまり、どれくらい経ったか、日が落ちてから玄関の引き戸の音と「ただいま」という母の声がしました。多分、本物の母はその時帰ってきたんでしょう。

 大伯母も、その日、うちには来なかったでしょうね。あまりにも怖いから確認はしませんでしたが。とにかく、母や大伯母にその後、変わったところはありませんでした。もしかしたら疲れ果てた私の、うたた寝の夢だったのかも知れません。そうであって欲しいと思います。


 でも、吉田は――いえ、私たちはちゃんと、中学を卒業しました。私は母にせがんで自分用の自転車を買って貰いました。それで、残りの中学生活は、寄り道をせずに帰るようになりました。吉田とも、顔を合わせる機会はめっきり減りました……減らしましたね。

 そうして卒業した直後――私は県外の高校に進学して寮生活になりましたが、吉田の行方は知れません。友人連中の誰も、彼の進路を知りませんでした。どうやら家族も引っ越したそうなのです。


 1年後ですねぇ、お盆に帰省しました折に、近くを通りかかることがありまして足を向けました。あの空き地にね。真夏の昼の明るさに、勇気づけられたんでしょうなぁ――行くんじゃなかった。

 涙地蔵だか、あみだ地蔵だかに、恐る恐る歩み寄ってみると、ご丁寧にプラスチックの札が、祠の内壁と石像の合間に挟み込まれて、つまり実に取り出しやすい格好で、立てかけられていました。私を誘うようにね。

 見ましたよ。何かを確かめたくて。

「かずひと」

 札にはマジックで、そう書かれていました。

 吉田の名前です。


 今はあそこに住む親類もいませんから、長く帰っていません。あの土地も、祠も、どうなったものやら知りません。

 ただ、今はひとつ思うところがあります。やはり、あの地蔵は本来「あみだ地蔵」でもなかったんじゃないかということです。「あみだ」もまた訛ったものか誤解されたもので、元は「やみだ」だったんじゃないでしょうか。

 「病田やみだ」というのは、ご存じでしょう、祟られる田んぼのことです。踏み入った者や、耕す者が、みな病気になってしまうという土地。あそこは、そういう田んぼを、ずうっと前に潰して出来たんじゃないですかね。その祟りを恐れて建てられたのが、あの地蔵だったんじゃないですかね。

 病田とか忌田いみだの伝承は日本各地にありますが、ある場所の病田は持ち主の名前、すなわち人名で呼ばれていたそうです。私の故郷の、あの空き地は、そんな由緒が忘れ去れた場所だったんじゃないか――今はそう、呑み込んでいます。



 メダカ先生はこのように話を締め括った。以下は、冷めたコーヒーを味わいながら私が抱いた所感である。


 先生の言う、持ち主の名前がつけられた田んぼというのは、民俗学者・柳田國男が紹介した、静岡県榛原郡の事例だろう。万法師(まんぼうし?)という人物が亡くなった後、彼の所有していた田が「病田」になってしまったという伝承だ。柳田はこの話について『御刀代田考』(1961)という論文、それから『田の神の祀り方』(1949)の附記でも触れている。柳田の言では、その病田が「万法師」という持ち主の名前で呼ばれていることになっている。

 柳田が「万法師」伝承の典拠としたのは『静岡県伝説昔話集』(1934)のようだ。ただこれにあたってみると、確かに万法師という人物の持ち田が病田になった伝説は確認できるが、田が人名で呼ばれていたという情報はない。柳田の勘違いか、あるいは追加踏査を行った結果知り得たことなのか、それはわからない。いずれにしても柳田はこの伝承に興味を寄せ読者に――本稿の冒頭に掲げたような――情報提供を求めている。

 要するに、人名のついた田んぼ、というのが他にあるものか、私にはわからない。また上記の「万法師」の話と、先生の体験は、似ているようで似ていない部分もある。

 なお、柳田は『御刀代田考』で、病田は祟られた場所なのではなく、神聖な、何かを祀るための場所であって、その祀り方を間違えた者に障りがあるのではないか、という考えを提出している。つまり、が病田となるの、だろうか。そうだとして、吉田少年の見た「男」というのは、間違えたことを正そうとしたのか、それとも、間違え続けようとしていたのか。


 今ひとつ付け加えれば――先生は故郷には長く帰っていないから土地の現在は知らない、そう仰っていたが、私はこの言い分は怪しいと思っている。知りたくないために過度に避けているか、あるいは何らかの形で知っているのではないだろうか。もちろん、私が同じ立場でも、知らぬ存ぜぬ記憶せぬを決め込むかも知れない。

 例えば、そう、もし未だに祠の中の名札の、最も新しいものが「かずひと」のままで、つまり空き地の名前が「かずひと」のままなのであれば、それはということになるだろう。しっくりくる名前を与えられた土地はどうなるのか、その先のことは、何とはなく考えたくない気がするのだ。

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