鵜呑抄(うのみしょう)

酢豆腐

青が濃くなる部屋

「じゃあ、これ大学の話なんすけどー」

 氏は、銀色の笑いを浮かべて話し出す。


 氏と、仮に彼女のことをそう呼んでおく。何より目立つのは前歯にはまったグリル、氏が口を開くたびに、まばゆいシルバーが目をかすめる。髪型もその色も会うたびに違っているが、その時はピンクがかったソバージュをキャップから溢れさせていた。

 副業はアーティストだという。本業は知らないが、氏を知ったのはその「副業」絡みだ。本稿の筆者――以後簡単に「私」とするが、私は地方の大学で働いている。多くの大学が「地域」をキーワードに再編され始め久しいが、今や私たち大学人には「地域貢献の模索」が大きな課題としてのしかかっている。地元と連携した価値創造こそ、地方大の「使命」なのである。閑話休題。そんなわけで私もしばしば、地域のクリエイターを訪問しては「何かしらの合同プロジェクトで地域を盛り上げられないか」という相談をすることになる。うのみ氏はそんな相談相手のひとりであった。


 極めて行動的な氏のもとに、色々と怪談奇談が集まってくることを知ってからは、それを聞くのが私の密かな、というか主な楽しみになった。もとより、うのみ氏と私の共通の話題は、未だ固まりきらない「プロジェクト」を除けばそれだけなので、雑談は自然とその方向へ向かう。

 その日は、そう――美大出身の氏から、一般的な大学とはどういう場所なのかと尋ねられ、二三答える中で、に流れていった。


「クラブとか、サークルの部屋が入ってる建物ってあるっしょ」

「ありますね。私の母校では『学生会館』なんて呼んでましたけど」

 私が、一昔も前になってしまった学生時代を回顧している間に、

「そういう場所の話っす」うのみ氏は――あちぃ、と舌打ちしつつ――肩に引っかけていた真っ赤なブルゾンを椅子の背もたれにかけ直した。それが落語家の仕草のようで、いささか面白い。

「ある男性から聞いたこと、そのまま話すんで、茶々入れないで聴いてくださいね」


 そのころ藤井さん(仮名)はいささか「自暴自棄になっていた」のだそうだ。細かなトラブルが幾つも続き、日々に面白みや張り合いを感じなくなっていたという。

 そんな毎日を乗り越えていくのが生きるということなのだと――年を重ねれば言えるかも知れないが、そんな賢しらな意見も当時の物憂さを晴らすことはなかっただろう。

 大学生活が2年目に入って、それから3ヶ月。ほとんどの講義に対しても、入学当初持っていたような興味を抱けなくなってきた。好きなアメリカ文学を学びたい、英米文学のゼミに入りたいという希望だけが淡く残り、ゼミが始まる3年生までの時間を消化するような毎日だった。


 その日、クラブ棟をくさくさとうろついていたのはなぜだろう。その時期、サークルでの人間関係も上手くいっておらず、部室を退散したのかも知れない。ともかく藤井さんは普段行くことのない4階に上り、そして廊下の端のある部屋に目を留めた。もう使われていない幾つかの部屋が並ぶ、その先。視界に入らないことはないが、誰も通る必要のない、この建物の最奥の部屋。

 その部屋の話は以前から聞いていた。長く空室で、共有の倉庫とされているが、不便な場所で利用する者はほとんどない。


 「青い部屋」と、そこは呼ばれていた。しばしば変なことが起きる部屋だという、一種の怪談だ。好奇心たっぷりの学生たちが近づかないのは、ひとつにはその話がもはや広くは知られていないからであり、今ひとつには起こるとされている現象が地味で、不得要領だったからと考えられる。


 部屋の名の通りのことが起こるのだと、先輩からはそう聞かされた。具体的に何なのか、どんな曰く因縁があるのか、詳しくは教えて貰えなかった。ただ先輩は「その部屋では、とてもかなしいことがあったらしい」と付け加えた。惨いことや、残酷なことではなく「かなしいこと」。その表現と、「かなしい、とてもかなしいことだ」と繰り返した先輩の、彼のことを見ているようで見ていない黒々とした瞳孔が、藤井さんには忘れられなかった。

「かなしいことがあったんだ」

 そうだ、ここに入ってみよう。そんな気になった。

 いったん1階に降りて管理人室を訪ねると、あっけなく鍵を貸してくれた。パートらしき管理人が「青い部屋」の件を知っているのか否か、定かではないが、要するに共有倉庫だから氏名とサークル名だけ伝えれば出入りできるわけだ。


 鍵もまた、拍子抜けするほど滑らかに開いた。いささか滑らかすぎるほどだった。

 ドアを開け、中を覗く。10畳分ほどの部屋の、正面の窓をふさぐように金属製のラックが並んでいる。壁際にはボール箱が幾つか見えたが、本当にただそれだけの部屋だった。

 窓はラックに邪魔されてはいるが、昼下がりの光は部屋の全容を概ね明らかにしていた。だから藤井さんは後ろ手にドアを閉めた。脇のボール箱に一瞬だけ目をやって、視線を正面に戻した、その時。


「あ」

 藤井さんは小さく声を上げた。確かに、部屋が青く見えたからだ。


 比喩でも光の加減でもない。

 青い壁が出現していた。部屋を中程から隔てるように、青みがかった半透明の、壁としか形容できないものが、横幅いっぱいに広がっていた。もちろん先ほどは存在しなかったものだ。正面に見えていたラックと、その奥の窓は、青い壁を透かして輪郭をおぼろにしていた。

 カーテンめいた幕のようにも、もっと硬質の――色硝子のようにも見えた。今ならば、アクリルのパーティションと形容するかも知れない。


 窓から入る光が壁の色をまとうがために、部屋には淡い青色が散らばっていた。なるほど、青い部屋だ。

 どのくらい見入っていたのか藤井さんは覚えていない。おそろしかったからか、美しかったからか、それはあるいは同じことかも知れないが、いずれにせよ彼は目を離せなかった。


 だが、凝視の間に、壁の色がわずかずつ濃くなっていくことに気づいた。水色に近く見えたのが、ゆっくりとだが確実に、青みを深めている。それに伴って向こう側の窓の明かりが透りにくくなり、部屋が暗さを増した。藤井さんは咄嗟に電灯のスイッチをまさぐったが、蛍光灯は既に取り外されていた。


 さらに、水面に波紋が立つように壁が濁った。いや、そうでない。徐々に青の濃くなる表面とは別に、その向こうで、壁に隔てられた部屋の奥の光景が変異していた。

 人の形、だと感じた。ガスのような暗いもの。もやもやとした影が、床から噴き上がった、そんな様子だ。それが青い壁と窓との間で揺れるがために、光はもはや届かない。

 その揺れるものが、人の形を思わせた。頭や腕といった部位があったわけではない。柱と言う方が近いが、風もないのにぐらぐらと右に傾げ、左に傾げするそれは、ガスでも柱でもないのだ。まるでそれは、苦しみもがいているように見えた。苦しみもがいているから人間のように見えたのだ。藤井さんはそう言った。


 「人影」を眺めながら、かなしいなあ、かわいそうだなあ、という感情がわいてきた。先輩の言っていたことだ。この部屋では、とてもかなしいことがあった。


 その時、なぜか藤井さんの頭には、数カ月前に亡くなった祖父のことが浮んだ。祖父はとある不慮の事故で亡くなったのだが、それが――具体的には言えないが――ずいぶんと滑稽な死にざまだった。祖父の娘にあたる母親も「最後まで間抜けだね」と苦笑いした、そんな死に方だったから、藤井さんは未だにそれを悲しんだり悼む気持ちになれずにいた。

 そんな祖父のことが、祖父の死にざまが、忽然と脳裏に蘇り、そうして我知らず藤井さんはつぶやいた。


「かなしい」


 かなしいなあ、ああ、かなしいことだ――自分の口から洩れる言葉と、そして目から滴る涙に驚いていると、壁は急速に、ぎゅううと絞り出すように色濃く、真っ青となった。塗り潰されたような青が、「人影」も光も覆い隠し、部屋はほとんど暗闇と化した。

 だが目が慣れたのか、あるいはなのか、そびえ立つ青だけは、しっかりと認識できた。


 藤井さんの目からは涙が流れ続けていた。深い深い青色が、いよいよ滂沱を誘うようで、かなしいな、かわいそうだな、かなしいな。

 目が。

 眼球が前へ迫り出すような感触を覚えたという。大量の涙に押し出されるか、あるいはそれに乗じて吸い取られるように、目玉が眼窩から抜け出る、そんな違和感が、いや痛みすら走った。


 そこでようやく、藤井さんは部屋の青に背を向けて、ドアノブを引っ掴んだ。入ってきた時と同じようにドアはあっけなく開いた。


 廊下を全力で駆け抜けた時も、少し落ち着いておそるおそる鍵をかけに戻った時も、鍵を管理人室に返却して大学を出た後も、涙は止まらなかった。


「今になって思うんですけど」藤井さんは語る。

「たぶん、祖父を亡くした僕と、あの部屋の波長……みたいなものが合ったんでしょうね。あの部屋であったかなしい出来事ってのも、きっとなんですよ。笑われちゃうくらいに滑稽な死に方だったから、かなしんでくれる人を求めてるんじゃないですかね」

 ちなみに、藤井さんはそれ以来、涙を流していない。

「世の中にはもう、あれよりかなしいことはないですから」

 笑って言う。



 ――ガチン。


 銀の歯が打ち鳴らされて、話は終わった。

「どうっすか?」うのみ氏はグリルを見せて、微笑んでいるのか嘲っているのか、よくわからない笑いを浮かべた。


 一通り感想を述べた後、私はあらためて問いかけてみた。

「藤井さんのお考えは的を射てるんでしょうか。その、部屋であった『かなしいこと』ってのは……」

 うのみ氏は、これには直接は答えなかった。

「私は呑み込んだことを吐き出せたから、それでいいんすよ。次はセンセイが吐き出すなり、噛み砕くなり、料理するなり……」

 まぁ――と、氏は向き直って、試すような視線を寄越す。「この話に教訓があるとすりゃ、あんまり見入っちゃいけないよってことっすけどね。でも教訓ってのも馬鹿らしいし、深入りしたければどうぞご自由に」

 銀色の笑いに気圧されながら、最後に気になったことを尋ねた。

「ちなみにその、藤井さんは、大丈夫なんですか? 今?」

「超、元気にやってるっすよ」うのみ氏はやはりこともなげだ。「なんせ、かなしみは感じないんすから、とか言って。はは、知りませんけど」


 実際その通りで、先日、本稿を書くにあたってうのみ氏づてに了承を求めたところ、ご快諾をいただいた。「青臭い時期の話で、ちょっと恥ずかしいですけどね」とのことだ。

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鵜呑抄(うのみしょう) 酢豆腐 @Su_udon_bu

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