二十一話 国民的女優が選んだ道

第30話

気がつくと、らんかは執務室にいた。孫雁の身体の上に乗るように、陣の上に倒れていた。


「ん……」


 先に意識を取り戻したらんかがゆっくりと瞼を開くと、あと少し近づいたら鼻先や唇が触れてしまいそうな距離に、孫雁の顔があった。

 そして、らんかが顔を赤くさせたのと、孫雁が目を開いたのはほぼ同時だった。


「わっ、ご、ごめんなさい! すぐに速やかにただちに、退きますので……!」


 謝罪を口にし、性急な動きで彼から飛び退こうとするが、腕を掴まれてそれを阻まれる。


「あ、あの……」

「――なぜお前がここにいる。らんか」

「……」


 自分の身体の上にらんかを乗せたまま、彼は真剣に問う。孫雁はらんかが元の世界に帰ることを望み、そうなるものと思っていたようだ。

 らんかは、孫雁の青い双眸を見下ろしながら言う。


「――まだ、興栄国でやり残したことがあるので」


 らんかはそう答えて、祭壇の上に鎮座する鏡をちらりと見る。それを孫雁に悟られないようにすぐに視線を戻した。


「それに、陛下に大事なことを伝えられていないですし。私……陛下のことが……」


 鏡の中で伝えそびれた想いを口にしかけたとき、がらっと格子戸が開いて、文英が執務室に飛び込んでくる。


「陛下、らんか様! お戻りになったのですね! ご無事ですか――」


 ふたりが絡み合っている様子を見て、言葉を失う文英。

 らんかは慌てて密着していた体勢を起こし、今度こそ孫雁から離れる。


「平気だ。文英、お前はしばらく下がっていろ。……らんかと二人で話がしたい」

「仰せの……ままに」


 再会して早々、部屋を出て行くように言われた文英は、不本意さを表情に滲ませ、けれど叩頭してから部屋を出て行った。

 執務室には、らんかと孫雁ふたりきり。ふたりは陣の上に腰を下ろしたまま、向かい合っていた。


 彼は熱を帯びた眼差しでこちらを見据える。


「――続きを、教えてくれるか?」


 きっと彼は、らんかが何を言おうとしているのかもう気づいている。


 鏡の中で会った樹蘭は、らんかのことを自身の生まれ変わりだと言っていた。

 正直、その実感はない。らんかと彼女は見た目こそ瓜二つだが、境遇や性格、価値観も違う。

 しかし前世がどうかではなく、魂が叫ぶ感覚がある。もう一度、興栄国へ戻りたい、と。


 樹蘭は自分の居場所を全部、らんかに譲ると言っていた。彼女がそれを許可してくれるのなら、らんかは皇后としてこの国に居場所ができる。

 そして叶うのなら、孫雁の傍にいたい。もっとこの人が知りたい。これが浄土と地獄の狭間で百年間募らせていた樹蘭としての未練というのなら、そうなのかもしれない。

 なぜなららんかは、初めて孫雁の声を聞いたときから、心が激しく揺さぶられるのを感じていたから。


 らんかは彼のことを見つめて懇願する。


「私……今度は、樹蘭様の名誉を回復してみせます。こう見えて私、多芸だし、心身ともに健康だし、皇后にふさわしいと思うんです。きっと役に立ってみせます。だからまだ、私のことを皇后でいさせてくれませんか……?」

「どうして?」

「どうしてって……それは……」


 彼の青い瞳から、少しも目を逸らすことができない。彼はこちらの気持ちなんて全部見透かしているはずなのに、わざと引き出そうとしているのだ。

 らんかは目を潤ませ、震える声を絞り出すようにして言う。


「……陛下のことが、好き……だから」


 そう言い終わった刹那、孫雁は自身の唇をらんかの唇に押し当てていた。肌とも粘膜とも違う特別な感触に、目を見開くらんか。片手で頬をしっかりと固定されており、身じろぎさえできない。


 唇から伝わる温かさに、身体の強ばりも溶けて、らんかも目を閉じる。

 触れるだけの優しい口付けのあと、彼は唇を離してこちらを見つめた。


「私はいつまで命があるか分からない身だ。せっかく手放してやろうと思ったのに、後悔しても知らないぞ」


 孫雁が生きている限り、鏡によって寿命はすり減り続けるから。


「後悔なんてしません。陛下と一緒にいられるなら」

「――孫雁でいい」


 出会ったときから、一度も読んだことがない彼の名前。改まって口にするのは気恥ずかしくて、らんかの顔が熱くなる。ほんのりと色づいた頬を見て、彼は愛おしげに目元を緩める。その眼差しは、樹蘭にだけに向けられていたもの。

 らんかはまごつきながら唇を動かした。


「孫雁……様」


 照れて俯くらんかの頭を、孫雁がそっと撫でる。髪を弄ぶように撫でてから、今度は頬に手を添える。らんかは上目がちに彼の方を見上げた。


「私と樹蘭様は別人です。仮に私の前世だったとしても、記憶もないし、性格も違います。それでも……いいんですか?」

「言ったはずだ。私はらんかに惹かれているのだと。何もしてくれなくていいんだ。ただ、私の傍にいろ。そして、樹蘭もそれを望んでいるのだろう」


 らんかは頬に添えられる彼の手を握り、「はい」と答えた。

 幸いなことに、樹蘭が死に、らんかがなりすましていることを知っているのはごく限られた人間のみだ。

 らんかがこのまま樹蘭として生きれば、樹蘭が自死したとして揶揄されることはなくなる。


 らんかはすっと立ち上がり、祭壇の上の鏡をまっすぐ、力強く見据えた。

 あの鏡が存在する限り、孫雁の寿命は吸い取られ続ける。――逆に言えば、あの鏡さえなければ、孫雁は生きられる。


 おもむろに鏡を両手で掴み上げ――床に叩きつける。ぱりん……と大きな音が室内に響き渡ったのと同時に、李家の家宝が砕け散った。


「お前、何を……」


 孫雁は茫然自失となり、小さく唇を開いたまま硬直する。

 窓から吹き込んだ風がらんかの漆黒の風を揺らす。らんかは何食わぬ顔で彼のことを見下ろした。


「私にとっては、この鏡より孫雁様の命の方がずっと大事です。バチが当たるかもしれないですけど、甘んじて受けます」

「そうではない! 鏡を壊せば……お前は未来永劫、元の世界に戻れなくなるんだぞ!」


 珍しく動揺して声を荒らげる彼だったが、そこではっとする。孫雁は先ほどのらんかの『興栄国でやり残したことがある』という言葉を瞬間的に思い出した。


「まさかお前、この鏡を割るためだけにこの世界に戻ってきたのか……?」


 らんかは不敵に口角を上げた。


「大切な家宝を割るなんて恐れ知らずなこと、できるのはきっと私だけだもの。それに今は思うんです。新しい世界で生きるのも、結構面白そうだなって!」


 きっと、今の地位を築いてきた李家の先祖たちは、らんかのことを恨むかもしれない。それでも構わない。ただ目の前の孫雁を助けたかった。苦しみ悶えながら彼の寿命が削られていくなんて嫌だ。

 そのとき、『それでいいよ』と言うかのように鏡の破片がきらりと輝く。


 清々しいほどに無鉄砲で、無茶な性格。また、ひたむきでまっすぐならんかに、孫雁は瞳の奥を揺らした。

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