十六話 大舞台で、悪役を演じる

第22話

異世界に来てから、ちょうどひと月が経った。

 日本にいたときは、むせ返るほど暑い真夏だったが、興栄国は日本の季節とは真逆の冬だった。こちらの国にも四季はあるが、冬の厳しさは日本を上回る。


 ひと月で、この世界に転移してきたばかりのころより、更に気温が下がった。身体の芯まで凍りついてしまいそうなほどに。

 天和宮の色彩は減り、冷たい風が葉を落とした木々に吹き付けている。


 そして今日は――年に一度の冬至祭典。夏の祭事は皇帝が取り仕切るが、冬は皇后が主催し、天を祭る慣わしだ。


(あんまり寝れなかったな。どんな撮影や舞台でも、ほとんど緊張なんかしないのに)


 寝台から下りたあと、重い瞼を擦りながら、火鉢の近くで身を温める。片手をかざせば、手のひらに熱が伝わった。


 昼ごろから厳粛な儀式が始まり、それが終わると宴が開催される。

 らんかは樹蘭として参加しなければならないが、驕慢な彼女なら、平気な顔をして儀式に遅刻して現れると考え、少し遅れて祈年殿に向かうつもりでいる。

 それに、冬至祭典より先に行きたい場所があった。


 女官の服を着て、赤茶けた鬘を被る。そしてそばかすを描き、田舎出身の下級女官を装い、正体を隠してひっそりと内之宮を出た。

 宮殿の敷地内は、冬至祭典の飾り付けとして、石畳の脇に燈籠が設置された。らんかは歩みを止めて、暖色の輝きを放つ燈籠を眺めた。


「綺麗……」


 夜になったら、もっと幻想的な景色になるのだろう。日本で暮らしていたころには見られなかった、異世界の不思議な文化にらんかの心は高揚する。


(この国も、素敵なところが沢山あるのね。もっと色んな景色を見てみたい)


 今は身代わりで精一杯だが、もっとゆったりとこの国を満喫できたらいいのに、と内心で思う。

 そうしてらんかが向かったのは、天和宮の施薬院。施薬院には薬を使って皇族に医療を施す医官がいる。

 施薬院の建物に入ったらんかを、医官のひとりが出迎える。


 女官のふりをしたらんかは、遠慮がちに要件を伝える。


「皇后陛下の命で参りました。いつものお薬を受け取りに……」


 これは医官に鎌をかけただけ。樹蘭が薬を飲んでいたかどうかを、凛凛がはぐらかしたので、真実を確かめに来たのである。

 らんかの言葉に、医官はごく自然に頷く。


「ああ、かしこまりました。すぐにご用意いたします」


 彼は奥の調合房へと踵を返した。


(やっぱり、樹蘭様は薬を常用していた……)


 用意された椅子に腰かけながらしばらく待っていると、医官が小包が乗った盆を持ってきた。


蘇葉ソヨウ好朴コウボク茯苓ブクリョウ柴胡サイコを調合したものでございます。幻覚や幻聴、不安感が特に強いときにお飲みください」

「これを、陛下はいつもお飲みになっていらっしゃったんですか?」

「え、ええ。そして陛下の症状について他言しないという言いつけもしっかり守っております」

「そう……ですか」


 らんかは小包を受け取り、お礼を伝えた施薬院を出た。


「不安感、幻覚に幻聴……」


 らんかの脳裏に、幻覚と幻聴に脅えて苦しんでいた父の姿が思浮かび、小包を握り締めた。



 ◇◇◇



 そして、祭典の時刻がやって来た。

 儀式はつつがなく終わったが、皇后はそこに姿を現さなかった。本来、皇后は天に捧げる琴奏楽を行わなければならない。

 しかし、樹蘭は一度たりとも人前で琴を奏でたことはなく、人々は皇后の不在を不審に思っていた。


 宴には、四代名家はもちろんのこと、官吏を務める国中の良家の家長と長子らが集まる。

 宮殿内にある祈年殿は、贅を尽くして飾られていた。


「皇后陛下は、また琴奏楽をなさらなかったようだ。皇家の伝統さえ守れない彼女を皇后に据えたままでよいのだろうか」

「はっ、皇家も落ちぶれたということだ」


 宴の予定時刻から四半刻経過しても一向に姿を現さない皇后に、参集者たちは口々に不満を漏らしていた。



「――皇后陛下のおなーり!」



 官吏が仰々しく声を上げると、噂話をしていた声は消え、皇后の登場に目を奪われた。


(いかなる相手に対しても傲岸不遜で、決して笑顔を見せない。冷酷無慈悲の嫌われ者。それが私の――新しい役)


 らんかは今、皇后樹蘭として立っている。別人であることは、決して誰にも悟らせない。この役目を果たせなければ、孫雁は元の世界に帰すことを検討すらしてくれなくなるから。


 自分のために用意された席に向かう途中で、こちらに頭を下げて敬意を示している下女が視界に入る。

 心の中で『ごめんね』と謝罪の言葉を呟いてから、わざとらしく肩をぶつける。


「邪魔だ」

「きゃっ……」


 ぶつかった衝撃で地面に倒れた彼女には見向きもせず、席につく。

 豪華な食事にも不満を吐き捨て、食器ごと座卓から滑り落としたらんかを見て、人々はほとほと呆れ果てていた。


 らんかは踊り子たちに冷たく告げる。


「何をしている。さっさと舞を披露せぬか」

「「かしこまりました。皇后陛下……!」」


 琵琶や二胡の演奏に合わせて、年若い踊り子たちが舞う様子を、らんかはつまらなそうなふりをしながら見つめていた。彼女たちはこちらの値踏みするような態度に怯え、身体を強ばらせていて。


(怖がらせてごめんね。でもこっちも仕事なの。許してね)


 声には出せないが、また心の中で何度目かの謝罪を唱える。悪女のふりをするようになってから、もはや一体どれだけ反省、自責してきたか分からない。


 樹蘭として踊りを見ている最中に、ぐぅと絶え間なくお腹が鳴った。いくら空腹を主張されても、先ほど料理を地面にぶちまけているため、食べられるものはないのだけれど。


(おなかが空いて死にそう……。ああもう、カレーとかピザとか食べたい。ていうか日本に帰りたい。なんで私がこんな目に……)


 異世界に来てすでに二ヶ月が経つ。ほんの二月前までは女優をしていたのに、人生とは何が起こるか分からないものだ。日本での日々を恋しく、そして懐かしく思い出していたとき、貴賓席に座る上級妃のひとりが目に留まる。


 青白い顔をして、両手で喉を抑えながら苦しそうにしている。けれどその様子に、周囲は誰も気づいていない。


 彼女は、らんかがまだ唯一接触を図っていない賢妃、張 月鈴ユーリンだった。


(何かを喉に詰まらせたんだわ……! どうしよう、まだ誰も気づいてない)


 咳き込んだりしていないということは、軌道が塞がって窒息している可能性があるということだ。

 その瞬間、自分が悪女のふりをしている立場であることが頭から消えた。反射的に立ち上がり、椅子を後ろにがたんと倒して彼女の元へ駆け寄る。


「――張賢妃!」

「…………っ」


 彼女は顔面蒼白になってこちらを見上げ、涙目になりながらはくはくと唇を動かした。手元の皿には、柚を練りこんだ餅を丸めた湯円タンエンが。これを詰まらせたのだろう。


 凛凛によると、樹蘭と月鈴は犬猿の仲らしいが、命がかかっているときにどうこう言っていられない。

 らんかは彼女の背を叩きながら、後ろに控えている女官たちに命じる。


「何をしてるの!? 早く医官を呼んで! お餅を詰まらせたみたいです。誰か、手伝って!」

「「はい……!」」


 慌てて駆けつけた女官たちは、人が喉を詰まらせたときの対処法など分からず、すっかり狼狽えている。それこそ、皇后の口調が普段と違うことに意識が向かないほどに。

 背中を強く叩いても、口から何かが吐き出される気配はない。


 参集者たちは、月鈴の青白くなった顔を見て、ただならない様子を理解しざわめく。


(お正月に餅を詰まらせるご高齢の方が多いからって、バライティー番組に出たときに対処法を教えてもらったことがある。実践もしたじゃない。ええっと、なんだっけ……。そうだ、突き上げ法!)


 叩いても詰まったものが出てこない場合の対処法を思い出したらんか。

 月鈴の肩を擦ったり呼びかけたりしている女官たちを押し離す。


「後ろ、少し退いてもらえますか? あなたは彼女の頭を下に下げさせてください!」

「は、はい……!」


 らんかは月鈴の背中側に立ち、後ろから抱き締めるように腕を回して、みぞおちの上で拳を作る。


「彼女、妊娠はしていませんね?」

「はい、していないです」

「分かりました」


 確か、この方法は身体に負担がかかるから、乳児や妊婦にはやってはいけなかった。

 そしてそのまま、拳をぐっと引き上げ、腹部を圧迫する。躊躇なく、何度も何度も。尊い上級妃の身体に触れ、こういう救命行為ができる身分の者は、医官と皇后の他にはいないだろう。


(お願い、吐き出して……)


 その動きを何度か繰り返しているうちに、月鈴はえづき、湯円を吐き出した。彼女が吐いたものでらんかの手が汚れるが、らんかはお構いなし。それどころか、口元で引っかかった餅を直接掻き出す介助までする始末。


「かはっ……げほっごほ……っ。ごほっ」


 月鈴は苦しげに咳き込んだが、気道が確保されたため次第に顔色も良くなっていった。


「樹蘭……ありがと、とう……っ。げほっ」


 彼女は瞳に安堵の涙を浮べ、掠れた声を絞り出すように礼を言った。


 しん……。らんかの迅速な救命措置を目の当たりにした参集者たちは、あんぐりと口を開いて呆然としている。

 しかしその静寂は、すぐに大きな歓声に変わる。


「お見事!」

「おお……。皇后陛下が妃の命を救ったぞ!」


 困惑と感動で盛り上がる会場の中で、らんかはだらだらと冷や汗を流しながら天を仰いだ。

 口調、表情、所作、行動。今のらんかは、役者として失格だ。


(どうしよう……! 今完全に、宮瀬らんかに戻ってた……!)


 脳裏に、剣を引き抜いてこちらの首筋に突きつける文英の姿が思い浮かび、目眩がしてふらりとよろめいた。

 そして急いで思案を巡らせた結果、目の前の長机をひっくり返し、凍えるような眼差しで人々を見据える。


「――大きな声で騒ぐな。耳障りだ」


 物に当たり、誰より大きな音を立てた皇后が言うと説得力がない。

 がたん、がしゃん、ばりんと色々な音が地面にぶつかる音が響き、人々の感心は一瞬にして失望に変わるのだった。

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