十七話 事の顛末
第23話
「本当にありがとう樹蘭! 私の命の恩人だわ……!」
宴の数日後、賢妃月鈴が内之宮を訪れた。手土産に大量の果物を携えて。
あの宴で、彼女は餅を喉に詰まらせた。らんかは皇后として振る舞う役目をすっかり忘れ、咄嗟に彼女の救護に当たったのである。
孫雁にも、上級妃を救ったことを感謝され褒賞が与えられた。恐れていたような、悪女のふりを一瞬忘れたことに関して咎められることもなかった。
彼女は赤くなった両頬に手を当てて、恥ずかしそうに俯く。
「本当に……お餅を詰まらせるなんて恥ずかしいわよね。皆の前であんな姿みせるなんて……みっともない。けれどありがとう。樹蘭がいなかったら私……死んでいたかもしれないもの」
「当然のことをしたまでだ。気にすることはない」
「…………」
月鈴はらんかの当惑を感じ取り、気まずそうな表情を浮かべた。
「私のこと真っ先に助けに来てくれたから、許してくれたんだと思ったんだけど……私の思い上がりだったのかしら」
「妾がそなたを、許す……?」
「ほら……樹蘭がおかしくなったのは後宮の悪霊に取り憑かれているせいだから、後宮を出るべきだと言ったら、すごく怒ったじゃない」
そういえば、かつて親友だった月鈴と樹蘭が仲違いした原因は、月鈴が強引に祓い師を紹介したことだと、淑妃麗明が言っていた。
もうすでに樹蘭は多くの祓い師に浄化を依頼しており、効果がなかった。散々苦心しているところに、不用意に祓い師を勧められて腹が立ったのだろう。
彼女が随分慣れた話し方をするところから、以前は仲が良かったことが窺える。
「樹蘭が実家に離婚を申し出ていたと聞いて、反省しているわ。周家の意向で一度結んだ契約が簡単に解消できるはずないものね。一番悩んで苦しんでたのは樹蘭なのに……軽々しく意見を言ったりして……」
周家は代々皇后を排出することで外戚権力を握り、権力を築いてきた一族。
権力欲はあっても、娘への愛情はなかったと孫雁から聞いている。逃げたいと樹蘭が訴えても、易々とその願いを受け入れるはずがなかったのだろう。
「樹蘭が変わったのは後宮に入ってからだった。ずっとおかしくなっいって、悪女などと呼ばれるのを見てるのは辛かったわ。でもごめんなさい、やはり親友として言わせてちょうだい。一度でいいから、お祓いをしてみしょう? 変なものが見えたり聞こえたりするのでしょう?」
らんかは俯き、
(それは恐らく、幻覚と幻聴症状によるもの。樹蘭様は悪霊に取り憑かれていた訳じゃない。そうではなくて、きっと……)
頭の中に、樹蘭が薬を飲んでいた事実が過ぎる。
(心を――患っていた)
奇声を上げたり、異常なほどに猜疑心が強かったり、朝まで暴れたり、何かに怯えたり。それらは悪女という言葉で片づける範疇を超えている。常軌を逸しているのだ。病的なほどに。
そしてらんかは、実の父親が心を患っていたため、すぐ傍でその様子を見ていた。
父は仕事のことで悩んでいたのが病気のきっかけだったが、樹蘭の場合は後宮に入ってから変貌したのだと多数の意見が一致している。それが彼女の精神的な
「いや、その必要はない。このごろは少し調子が良いのだ」
「本当……?」
「ああ。誠だ」
ずっと、月鈴は樹蘭のことを思い、案じていた。
樹蘭は死んでいて、ここにいるのは偽物であるのに嘘をつくのは心苦しかった。真実を知ればきっと、彼女は深く傷つくのだろう。
らんかは自分の罪悪感も声に乗せて、彼女に言った。
「長らく迷惑をかけて……すまなかった」
「……!」
すると、月鈴のつり目がちでくりっとした瞳がわずかに潤み、泣くのを堪えるように眉間に皺が寄る。
床に着いていた自身の手を伸ばし、らんかの手に重ねた。
「迷惑だなんて思っていないわ……! 私がどれだけあなたのことを思い、心配していたか……っ。だって私、樹蘭のことが大好きだもの」
孤立していたと思われていた後宮の中でも、樹蘭にはこんな味方もいたらしい。
けれど、自分は本物の樹蘭ではない。あくまで偽物。まがい物。その負い目から、月鈴を慰めていいのかという迷いがあった。
だが、本物の樹蘭ならどうしたか、女優として想像することはできる。心を患う前の、本来の彼女ならばどんな言葉をかけたのか思案を巡らせる。
(樹蘭様も本当はきっと、大切な友達と笑顔で話したかったんじゃないかな)
らんかは彼女の手をぎゅっと包み込むように握り、そっと微笑みかける。
決して人前で笑うことがなかった、悪女の笑顔。
「妾も、そなたのことが好きだ」
「……っ!」
たとえそれが嘘だったとしても、らんかの芝居でほんのひとときでも月鈴の心が救われるのなら。
女優としてのらんかの口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「久しぶりにあなたの笑顔を見られてすっごく嬉しいわ。餅を詰まらせてみるものね」
「これに懲りたら気をつけよ」
「ええ。分かっているわ」
すると月鈴は顔を上げて、不思議そうに首を傾げる。
「ところで樹蘭。お気に入りの羽衣はどうしたの?」
「お気に入りの羽衣?」
「周家にいたときから、お祖母様の形見だとかで祭典のときは必ず身につけていた薄桃色の羽衣よ。今年は珍しく着ていなかったから、気になっていたの」
らんかはそこで胸がざわりとして、鳥肌が立った。樹蘭の遺体の爪には確か――薄桃色の繊維が挟まっていた。そしてその羽衣を、夢の中で樹蘭が羽織っているのを見たことがある。
仮にもし、祭典で欠かさず身につけていたとしたら――凛凛はその事実を知らないはずがない。
◇◇◇
内之宮に月鈴が訪ねたことを知った孫雁は、政務を終えてから自分も内之宮に足を運んだ。
夕暮れの光に景色が染まり始めていた。
らんかはちょうど、ひとりで套廊に座って書物を読んでいた。夕焼けの橙に彼女の白い肌も染まっている。
庭園から飛んできた蝶が、彼女の近くを浮遊する。彼女がそっと人差し指を出すと、蝶が指の先に留まった。
蝶を見つめながら、慈しむようにすぅと目を細める彼女。その表情を見た瞬間、孫雁の心臓が大きく音を立てた。彼女に対する、特別な情を主張するかのように。
(私は今……らんかに見蕩れている、のか……?)
らんかの一挙手一投足に目が離せない。ずっと見ていたいとさえ思う。こんな風に誰かに対して思うのは、樹蘭以外に初めてだ。
しかし、樹蘭にそっくりだから、という理由で目が釘付けになるのではなく、宮瀬らんかというひとりの女性に魅入っていることに気づき、孫雁は戸惑う。
「……こうして見ていると、らんか様はやはり皇后陛下によく似ておりますね。陛下――」
隣でそう呟いた文英が、こちらを振り向いて眉を上げる。
「陛下、お顔が――赤いですよ。熱でもおありでしょうか」
夕暮れの中でも、孫雁が紅潮しているのだとはっきり分かるほどに、確かな赤みを頬に示していた。
孫雁がそれを隠すように手を添えたところで、らんかがこちらの存在に気づいた。
「陛下! 文英様!」
ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべ、書物を置いてこちらに駆け寄って来た。殺すと脅された相手に対して、あまりに無警戒な態度で。
「何かご用ですか?」
にこにこと無垢な笑顔でこちらを見上げるらんかが眩しくて、鼓動が早鐘を打つ。少年のころの初恋のような甘い胸の高鳴りを誤魔化すように、らんかに苦言を呈す。
「樹蘭の演技はどうした? 彼女はそんな風に間抜け面はしない」
彼女の両頬を摘んで引っ張る。
「なっ……!? 私の笑顔の何処が間抜けなんですか! よーく見て、もういっぺん言ってみなさい!」
孫雁に抓られた頬をむぅと膨らませて睨めつけてくる彼女が、何とも可愛らしくて、またしても胸を射抜かれる。
胸の高鳴りを誤魔化すためにからかったのに、逆に感情が高まってしまう。
らんかは怒っていたかと思えば今度はしゅんと肩を落とし、拗ねたような声で言う。
「……前に『お前は笑っている方がいい』って言ってくださったのは……嘘だったんですか」
「…………」
捨てられた子犬のように切なげな表情で、上目がちに訴える彼女。
ころころと表情を変える彼女に、目線も、心も、自分の何もかもが捕らわれていく。
樹蘭は昔から、こんなに表情豊かではなかった。
これは明らかに、らんかにしかない個性だった。らんかと樹蘭は見た目こそ似ているが全く違う。孫雁がよく知る、過去の樹蘭は控えめで大人しく、慎ましやかだった。一方のらんかは天真爛漫で快活、勝ち気で実直だ。性格は正反対と言っていい。
(私の完敗だ。らんか。私はお前を――愛し始めている)
堪えていた糸が、ぷつりと切れる音がした。彼女を想う気持ちに抗えないと、この瞬間に確信する。
そっと身をかがめて彼女と視線を合わせる。
「あの言葉は訂正する。お前はどんな表情をしていても――」
「……?」
――可愛い。そう告げかけたところで、舌先まででかかった言葉を飲み込む。
もう誰かを愛すことなどないと思っていたのに、どうしようもなく惹かれている自分がいる。しかし……。
(樹蘭を守ることができず、味わえたかもしれない幸福を全て奪っておいて、今更誰かを愛想なんて虫が良すぎる。……許されるはずがない)
孫雁の頭の中には、常に樹蘭の影がある。好きだった彼女を守ることができなかったくせに、どうして自分が幸せになれるだろう。
それに自分が愛したところで、らんかは異世界人。いずれ自分の元を去って行く身だし、彼女を脅した孫雁を愛することなどはありえないだろう。
拳を固く握り締め、たなごころに爪を立てる。そうして自分の中に芽生えつつある気持ちに蓋をした。
「……いや、らんか。それよりお前に重要な話をしに来た。――樹蘭の死の真相について」
言いかけた言葉の続きが、孫雁の唇から紡がれることはなかった。
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