第13話
らんかは彼の名前を呼び続けた。肩を揺すると、ようやく孫雁は悪夢から目を覚ました。
「らんか……?」
「うなされてるみたいだったので、起こした方がいいかと思って……」
「……悪いな」
眠りながら泣いていたことに気づいた孫雁は腕を目元に乗せて、唇だけで答えた。
「樹蘭はよほど、私が憎いのだろうな」
「……」
らんかが沈黙していると、孫雁は上半身を起こした。
「……私も以前、よく眠れなくて悩んでいました。入眠時に胸が苦しくなったり、身体が震えたりして寝付けなくて。寝たら寝たで悪夢を見て目を覚ましてばかり。だんだん眠ること自体が怖くなっていきました」
「何か、悩みでもあったのか?」
「父が亡くなったころでした」
「……そうか。今は寝れているのか?」
「はい! 今日も快眠でした!」
「……一応、あの部屋は殺人現場なんだが。逆によく寝れるな」
父が逝去したのはらんかが高校生のころ。学校のこと仕事のことで忙しく過ごしていたときだった。
当時は相当な
「そのときにね、悪夢対策を凄く調べたんです。根本的な悩みを解消するのが一番かもしれないですけど、生活習慣でも改善できました。例えば――沢山運動する、とか」
らんかはにこりと微笑みながら続ける。
「あとは、柑橘系の果物を食べるといいみたいですよ。焼き芋……は、どうかわかりませんけど」
「試してみる。気を遣わせたな」
「……いえ」
孫雁は、冷酷で偉そうな人。
そう思っていたが、この人も人間で、弱い部分を抱えている。先ほどのうなされ方は尋常ではなかく、昔の自分を思い出すようで胸が切なくなった。
「私は……樹蘭様が憎いです。陛下のお心をこんなに苦しめて……」
生前も、孫雁の好意を無下にして傷つけてきた樹蘭。死してもなお、彼のことを苦しめているのが憎らしかった。
この国の皇帝は、大勢の妃を持つことができるようだし、その地位があれば選り取りみどりだろう。たったひとりの、嫌われ者の悪女に固執する必要などないはず。
拒まれ、疎まれてもなお、慕い続けるのは、畏怖さえ感じる。
「樹蘭様はひどい人です。きっと、陛下にはもっと良い人がいるのでは……? こんな風にあなたを傷つけたりしない人が――きゃっ」
思わずそう呟いたところで、孫雁に押し倒されていた。
「陛下、」
「――お前に何が分かる」
彼がついさっきまで横になっていた場所に背中が当たり、残っていた彼の体温が伝わる。抵抗しようにも、両腕を押さえつけられていて身動きが取れ取れない。
彼の長い黒髪が重力に従って垂れ下がり、らんかの頬を無でる。
らんかを射抜く美しい双眸は、怒りに揺れていた。そして、その歪んだ表情から、傷ついた心が伝わってくる。
「黙れ。樹蘭を貶めるようなことを次に口にすれば――その口を二度と効けなくしてやる」
彼は片手をらんかの頬に添え、血色の良い唇に親指の爪を立てた。唇につめの先がくい込んで痛みを感じる。
ああ、この人は。心酔し、執着し、盲目になっている。たったひとりの愛した女に雁字がらめになっている彼が、哀れで、美しくも思えた。らんかはこんな風に誰かを愛した経験がないから。
らんかは彼に組み敷かれたまま、涙を零した。
「……っ。ごめん、なさい……っ。そんなに傷ついた顔、しないで……」
ぽろぽろととめどなく雫を溢れさせるらんかを見て、孫雁ははっと我に返った。
性急な動きで手を引き、らんかから離れる。
「すまない。つい怒りに任せて……」
「いいえ。何も知らないくせに、踏み込んで、ひどいことを言ったのは私です。傷つけるつもりなんて、なかったのに……っ」
らんかも半身を起こして、彼に向き合って座る。
(どうしてだろう。この人の傷ついた表情を見ると、傷ついた声を聞くと、心が掻き乱されるのは)
鏡の中で孫雁の声を初めて聞いたときからそうだった。彼が悲しんでいることが声から伝わって、胸が苦しくなって、なぜか泣きそうになった。
それに、彼にこうして会う度、昔から知っていたような懐かしさを感じる。
「お、おい」
「うう……ごめんなさい。陛下……っ。私、陛下のことを励まそうとしたんです……っ」
怒っていたはずの孫雁だが、らんかが子どものように泣き始めたのを見て、すっかり当惑の色を示している。
「分かったから。もう謝らなくていい。お前を許す」
次の瞬間、彼の腕の中にいた。床に押し付けられていたときの乱暴さが嘘のように、優しい抱き締め方で。
孫雁はらんかのことを、壊れ物でも扱うかのように包み込み、耳元で囁いた。
「だからもう、泣くな」
彼の腕の中は、温かくて、心地が良かった。強ばっていた肩の力が勝手に抜けてしまう。
顔をそっと上げると、彼は頬に手を添えて涙を拭ってくれた。その手つきが優しくて、胸の奥がきゅうと切なく締め付けられる。
彼はこちらを見下ろしながら呟いた。
「こうして見ると、本当によく似ている。……お前が時々、樹蘭にしか見えなくてやりずらい」
「私は樹蘭様じゃありません。樹蘭様と重ねないで――私を見て」
「え……」
その発言に、孫雁は眉を上げた。他方、思わず口から出た言葉に、らんかは顔を熱くなる。
(こんなの、陛下に好意があるみたいじゃない)
すると彼は困ったように、眉尻を下げた。
「そうだな。少なくとも、樹蘭はお前ほど泣き虫ではなかった。すぐ怒ったり、泣いたり喚いたり、感情を表すこともしなかったな。お前は本当に
「こどもじゃ、ないです」
「――だがなぜか、目が離せない」
そのとき、孫雁の目に熱が宿ったように見えた。彼が樹蘭のことを語るときに見せる表情。また、らんかの脈動が加速していく。
(駄目だ、私……この人のことを好きになりかけてる。どうしてこんな、厄介な相手を……)
らんかは自分の感情を自覚した。それはまるで、出会う前から恋をしていたようで。好きになったとしても、彼の目には樹蘭しか写っていない。絶対に振り向いてはもらえない相手なのに。
冷酷な一面を持つ皇帝。ふいに見せる笑顔や、ふいに触れる優しさに、なぜか心惹かれてしまう。
自覚した自分の気持ちに任せて、ゆっくりと、彼の肩に顔を埋めた。そして孫雁もらんかの背に腕を回す。そのとき。
がたん。
音がした方を振り向くと、扉の前に唖然とした文英が立っていた。直前の音は、手に抱えていたであろう書を床に落とした音だったらしい。
「ぶ、ぶぶぶぶぶ文英様!?」
慌てて孫雁から離れるが、文英は何かを悟ったように微笑を浮かべ、何も言わずに部屋を出て行った。
らんかは持ってきた毛布と書を抱えて、立ち上がる。
「私……内之宮に戻ります。文英様の誤解、解いておいてくださいね……! それじゃ、また何かあれば報告に来ますので……!」
「あ、ああ」
文英に孫雁と抱き合っているところを目撃され、ようやく我に返ったらんかは、逃げるように執務室を出た。
らんかは執務室の格子戸に背をもたれて、胸の辺りで拳を握る。そしてそのまま、床にへたり込むのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます