五話 大人しく過ごしてなんて、いられない

第6話

「ぬるい! 後宮の女官はまともに茶のひとつも淹れられないのか!?」

「も、申し訳ございません……! ただちに淹れ直して参ります」


 皇后には、凛凛の他に複数の側仕えがいる。そして、凛凛以外には一切心を開かず、冷たく当たっていたという。

 らんかは座卓に肘をつきながら、女官のひとりを睨めつける。


「淹れ直す必要はない。気分が悪くなった。皆下がれ」

「か、かしこまりました」

「凛凛。そなたはここに残るのだ」


 傍で控えていた凛凛が小さく相槌を打った。

 そうして、凛凛以外の女官を退室させる。格子戸が閉じたのを確認し、らんかは肩の力を抜いた。皺を刻んでいた眉間を指先で撫でながら、あっけらかんとした様子で尋ねる。


「どう? 今の、悪女っぽかった?」

「は、はい、完璧です。いつもの樹蘭様を見ているようでした」

「そっか……」


 安心したような顔を浮かべたらんかは、ぐっと伸びをして背もたれに半身を預け、足もだらしなく前に出す。

 皇后は傲岸不遜な悪女、そして嫌われ者だった。それを演じるのは気疲れする。


 樹蘭の死は監察医の誤診であり、実は生きていたという事実は、世間を騒がせた。

 今は、内之宮で療養中ということになっている。その間、らんかは孫雁が手ずから書き記した興栄国の歴史、樹蘭の経歴、人物像などの資料を読んで記憶していた。


「喉渇いた……。悪いけど、水を持ってきてくれる?」

「すぐにお持ちいたします」


 凛凛は恭しく礼をして、水を用意し始めた。彼女の後ろ姿を見ながら、日本にいたころはマネージャーが身の回りの世話をしてくれたことを思い出す。


 らんかは机の下に置いておいた箱を引っ張り出す。

 箱の蓋を開けると、中には宦官の衣裳が収まっていた。これは凛凛に頼んで用意させたものだ。衣裳を両手で取り出してかざしてみる。


「恐れながららんか様、その宦官の服を何に使うおつもりでしょうか」

「これはね――私が着るの」

「…………はい?」


 いたずらを企む子どものように笑ってみせると、彼女は目を瞬かせる。


 らんかは、彼女から受け取った水を飲み干したあと、自分が着ているものを脱いでいき、宦官の服に着替えた。黒と赤を基調にした簡素な装いだが、らんかの気品は少しも損なわれていない。


 去勢した宦官は、髭が抜け落ち、喉ぼとけが小さく、少年のような声のままだと聞いた。らんかは女だが、女らしい特徴がある宦官なら疑いを持たれることはないだろう。


 それから鏡台の前に座り、用意させた男物のかつらを被り、髪型を整える。

 凛々しい眉を描けば、らんかは青年のような容貌へと変わった。それも、嫌味なくらいに美形の。


「らんか様は……化粧がお上手なんですね。まるで別人のようです」

「ありがとう。仕事をしながら化粧の勉強もしていたの。あなたもしてあげようか?」

「いえ。……お構いなく」


 らんかは女優をする傍らで、化粧の専門学校に通っていた。色々な役を演じる中で、化粧に興味を持ったのだ。


 皇帝は大勢の妃を後宮に抱えている。

 皇后は皇帝の正妃であり、妃の中でも格別の存在として位置づけられる。そして、序列的に皇后に次いだ身分になるのが、四夫人。上から順に、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。しかし、貴妃だった、美帆メイファンは、病死したため、四夫人の中で貴妃のみは現在空席となっている。


 後宮において、皇帝が居住する本殿から最も近い場所にあるのが、皇后が暮らす内之宮だ。そしてその奥に、東西南北に分かれた四つの宮が大きく佇んでおり、南は空き家、残りの宮に三人の上級妃が住んでいる。


 らんかは鏡を見ながら、爪を噛む。


(陛下にはただ普通に過ごしていればいいって、言われたけど……大人しくしてなんかいられない。犯人をさっさと捕まえて、元の世界に帰してもらわなきゃいけないんだから)


 いつ解決するか分からないものを待っていても仕方がない。このまま大人しくしていたとして、犯人が後宮のどこかにいるなら、いつ命を狙いに来るかもしれない。だったら尚更、じっとしていられないだろう。


 らんかは自分が日本から着てきたスーツのスカートのポケットを漁る。そこから出てきたのは、小ぶりな小物入れ。

 中に入っていたのは、酔い止め、頭痛薬、睡眠薬。靴擦れしたときのための絆創膏のみ。特に役に立ちそうなものはない。

 机の上に小物入れの中身を散らばして、ひときわ大きなため息を零すらんか。


 するとそのとき、格子戸の向こうから足音が聞こえてきた。女官の足音とは違うことに気づき、顔を上げる。

 がらりと戸が開き、孫雁と視線がかち合った。その横には文英が付き従っていた。


「女官たちが皆部屋を追い出されたと聞いたが、宦官がなぜここに? ――樹蘭はどこだ」


 きょろきょろと辺りを見回す彼に、らんかは小首を傾げながら言う。


「分かりませんか? 私です、らんかですよ。陛下」

「らんか……? お前、なんだその格好は」

「見ての通り、宦官の変装です」


 化粧筆を台に起き、すっと立ち上がる。靴底を敷いて高さを出した履物を履き、孫雁の元まで歩み寄る。彼もかなり高身長だが、厚底の履物があればらんかも長身の部類に入る。


「しゃらら〜ん。似合いますか?」


 らんかは見せびらかすように、衣を翻しながらくるりと回った。らんかが回ると、彼女の周りに花が辺りに飛ぶような幻が見えた気がして、孫雁と文英が顔を見合せた。


「――あ」


 彼の髪についている糸埃に目が止まる。取ってやろうと手を伸ばすが、彼の手にぱしんと弾かれた。


「何をする気だ」

「埃が付いていたので、取って差し上げようかと」

「勝手に触れるな」

「あーそうですか、これは大変失礼いたしました。皇帝陛下は気位が高いようで」


 心のこもっていないらんかの謝罪に、怪訝そうに眉間に皺を寄せつつ、埃を自分で払う孫雁。


「気位ではなく地位が高いんだ」


 彼は、どこからどう見ても別人の男にしか見えないらんかの上から下までをじっと観察した。


「本当に……男にしか見えないな」

「――ならよかった」


 ふっと柔らかく微笑む。


「これから私は少し、出かけて来るので」

「酔狂な。そのような格好で外を出歩いて、女官たちを誘惑でもする気か?」

「惜しい。女官を誘惑ではなく、徳妃、翠花スイファ様のところへ行きます」

「……徳妃だと?」


 すっと人差し指を立てて、口の端を持ち上げるらんか。

 犯人候補は、空席の貴妃を除いた三夫人。彼女たちはそれぞれ樹蘭の生家に対立する名家の令嬢だ。彼女たちの元に会いに行って、直接樹蘭を殺害した動機を探ろうと思っている。


 そして、孫雁から渡された資料の中に、翠花は無類の男好きであるということが書かれていた。だから宦官の格好をした。


「遺体の近くから、上級妃に与えられる簪が見つかった――とのことですが、女性の力で首を絞めて窒息死させるって、実際可能なんでしょうか?」

「圧迫痕と傷を見るに、樹蘭は窒息して意識を失うまでかなりの時間を要し、激しく抵抗したと推測されている。男の力であれば、殺害までそれほど時間はかかっていないだろう」

「……なるほど」


 樹蘭の首は全体を囲うように締め付けた痕があった。そしてその下には、一度手で首を絞めたと思われる女性の手形がくっきり残っている。

 また、抵抗して掻きむしった傷ができていた。そして爪の間には薄桃色の繊維が挟まり、血で汚れていたとか。

 その繊維を調べたところ、高価な染料で作られる薄桃色の生地の一部で、それは上流階級の女性の衣にしばしば使われる。

 このことから、犯人は一度樹蘭の首を手で圧迫したが、樹蘭が抵抗して殺せなかったため、薄桃色の布で締め直したと考えられる。


「犯人は女性。いずれにしても、上級妃の誰かが関わっていた可能性が高いってことですよね」

「それはそうだが……」

「とにかく、私は上級妃たちに接触して、動機を探ってみようと思いますので。――では、ごきげんよう」


 にこと愛想よく微笑んで、ごく自然に孫雁の横を通り過ぎようとすると、腕を掴まれた。彼は眉間に皺を寄せて苦言を呈す。


「ま、待て。そのような勝手な真似を許可した覚えはないぞ」

「だからって、部屋に引きこもってなんかいられませんよ。そうしている間に誰かが命を狙いに来るかもしれないじゃないですか! それとも、皇帝陛下が代わりに殺されてくれるんです?」

「なっ……」


 らんかの強気な態度に唖然とした孫雁は、その場でわずかにたじろぐ。

 近くで様子を見ていた凛凛は、らんかの無礼な振る舞いに青ざめている。


「おい……その生意気な物言いはなんだ?」

「私、気づいたんです。陛下は私のことを簡単には殺せないって。犯人が明らかになるまで、皇后の座を守るための身代わりが必要なんでしょう?」


 弱気な立場でいたら、思い通りにされるだけだ。芸能界にいたときもそう。常に、仕事相手とは対等な立場として接していた。

 下手に出て、侮られたら自分に不都合なことを強いてくるかもしれないから。

 例え相手が皇帝になろうとも、媚びたりへつらう気はない。


(犯人を見つけて、早く元の世界に帰してもらう。そのために私もできることをやるのよ)


 らんかは孫雁の鼻先にびしっと人差し指を差し向けて宣言する。


「樹蘭様の身代わりの役目はしっかり全うしましょう。でも、それ以外は、私の好きにさせてもらいます。後宮のことを何も知らないまま、じっと待っているだけなんて――絶対に嫌ですので」


 優美な微笑を湛え、飄々とした様子で部屋を出て行くらんか。

 その後ろ姿を、孫雁はあんぐりと口を開けて見ていた。


「本当に奇特な……いや、奇妙な女がいたものだ。――宮瀬らんか」


 しばらくして、そう呟いた彼の表情はどこか愉快さを含んでいた。彼は文英に視線を向ける。


「止めますか」

「よい、放っておけ。らんかに影を付けろ。翠花は危険な相手だ」

「仰せのままに」


 文英は恭しく頭を下げた。

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