四話 見事に演じて見せましょう
第5話
凛凛は、真面目で気難しそうな雰囲気の娘だった。年齢はらんかより少し上くらいだろうか。
彼女はらんかをひと目見るやいなや、驚きと困惑の表情で、こちらに駆け寄って来た。
「樹蘭様……っ!? なぜ、なぜここにいらっしゃるのですか……!? そのお姿は……?」
至近距離で顔を見つめられながら尋ねられる。近くで見ても疑われないということは、樹蘭とらんかは余程似ているのだろう。
「そなたは……誰だ?」
「え……」
らんかは何も分からない、と言った様子で小首を傾げる。
凛凛が驚く横で、孫雁が事の仔細を説明した。樹蘭は首を絞められ死にかけていたが、実は生きていて、記憶喪失になったのだと。
「そんな……っ。凛凛です、樹蘭様! 忘れてしまったのですか!?」
「悪いが……覚えておらぬ」
「孤児だった私を、樹蘭様が助けてくださったのです。小さな頃からずっと一緒に過ごして参りましたのに……」
記憶喪失の事実を知った凛凛は、顔を歪ませて悲しむ。生きていた事実への喜びと、自分のことを忘れてしまっていた悲しみがせめぎ合い、涙になって零れる。
らんかは優美な所作で手を伸ばし、彼女の頬に添えた。瞳からこぼれ落ちていく雫を親指の腹で優しく拭いながら、そっと唇を開く。
「……小、凛」
すると凛凛は、元々大きな瞳を更に大きくさせた。
「そうです! 樹蘭様! 小凛です。あなた様はいつも私のことをそう呼んでくださったのですよ」
「自分が何者かさえ思い出せぬはずなのに……なぜだろうか。そなたの泣き顔を見ていたら、とめどなく……涙が溢れてきた」
「……!」
らんかはつぅと両目から涙を流しながら、困ったように小さく微笑む。
樹蘭は悪女と聞いていたが、記憶喪失になって棘が取れるというのはありがちな展開だ。らんかは以前、記憶喪失になって別人のように優しくなった悪役を演じたことがある。
(記憶喪失の役は……一度やったことがあったな。あのときは確か……高校生の役か)
そして凛凛は、長い間一緒に過ごした相手。そのような相手と再会すれば、頭では忘れてしまっていても、心は何か覚えているのではないか。
らんかは女優として、お涙頂戴シーンを、何十回、何百回と演じてきている。嘘泣きだって朝飯前だ。
らんかの切々とした表情や態度、そして洗練された所作に、孫雁と文英は『あれは本当に先ほどまでのらんかなのか』と驚き、息を飲んでいる。
らんかと凛凛のやり取りは、大切な友人との感動的な再会そのものだった。
「樹蘭様、なんとお労しい……っ。ううっ……」
仕える身でありながら、主人の衣裳に縋り付き、泣き崩れる彼女。
(よっぽど、慕っていたのね)
そんな彼女を騙していることに罪悪感を感じたそのとき、孫雁がぱんっと手を叩く。
乾いた音が部屋に反響し、俯いていた凛凛は顔を上げた。
「――そこまで。合格だ」
「……はい」
らんかは雑な手つきで自分の涙を拭い、先ほどまでのしおらしい態度が嘘だったかのように、飄々とした様子で孫雁を見上げた。
一方、何が起こったのか分からずにきょとんとしていた凛凛だが、らんかの首に絞殺されたときの痣がないことに気づく。
「樹蘭様、首の痣は……?」
「ごめんなさい、凛凛さん。私は樹蘭様ではないんです」
「へ…………?」
唖然とする凛凛に、文英が告げる。
「彼女は我々も見まごうほど皇后陛下に似ていらっしゃいますが、赤の他人です」
「う、嘘……」
「らんか様には今後、皇后陛下暗殺の犯人が見つかるまで、皇后陛下のふりをして過ごしていただきます。ですので、あなたも彼女を本当の主人だと思って接するように」
「それは……あんまりでございます。樹蘭様が生きていたと私を期待させて……っ」
再び樹蘭が死んだ事実を突きつけられた凛凛は、顔を覆って嗚咽を漏らした。そんな彼女に、孫雁はどこか同情した様子で告げる。
「お前には悪いことをした。すまない。……部屋に戻って休め」
「……かしこまりました。皇帝陛下」
凛凛は両手を重ねて前方にかざし、礼を執る。孫雁の命令に従って部屋を退出した。
(冷血漢と思いきや、一応人の心はあるみたいね)
らんかは割と、根に持つ性格だ。殺すと脅したことは決して忘れてやるものか。
部屋に残っているのは、らんかに孫雁、文英の三人。
「お前に演技の才があるということは分かった。今一度問う。お前に樹蘭のふりが務まるか?」
「はい。樹蘭様はたぶん――私の得意分野です」
「……?」
らんかの得意分野は、悪役だ。なぜか今まで、悪役を演じるのが得意で、演じる機会が多かった。
まさかその経験がこんな形で役に立つとは予想もしなかったが。
らんかは孫雁の顔を見上げながら、不敵に微笑む。
「私なら、本物の樹蘭様より完璧な悪女になれる自信があります。ですから早く、犯人を見つけてくださいね?」
そして絶対に、元の世界に帰してもらうのだ。
孫雁は少しだけ面白そうに口の端を持ち上げ、こちらを見下ろした。
「演技の実力だけではなく、度胸もあるらしい。なかなか奇特な女がいたものだな。――気に入った」
こうして、なりかわり転移妃が誕生したのだった。悠然とした態度で孫雁に対峙するらんかは、固く決意する。
(なんとしてでも役を務め上げて、元の世界に帰ってみせるんだから……!)
◇◇◇
孫雁はひとり、部屋に残った。
操魂の術のための祭壇の裏に、本物の樹蘭の遺体が安置してある。本来ならこの遺体に、樹蘭の魂が戻り生き返るはずだった。
彼女は横たわっていて、その死に顔は驚くほど安らかだった。遺体の発見が早かったため、眺めていても、ただ眠っているだけのように見える。
いつも眉間に皺を寄せて周りの人々を睨めつけ、叱責していたが、今は優しげな表情をしている。
(二日前までは生きていたというのに……。なぜだ、樹蘭)
彼女の死を知るのは、自分の側近の文英、樹蘭の侍女である凛凛、そして――異世界人の宮瀬らんかだけだ。
彼女の生家である周家にも伝えるつもりはない。
樹蘭を殺したのは、皇后の座や権力を狙った者かもしれない。そして、殺害現場に落ちていた簪の持ち主の誰かてもある可能性がある。
皇后が死ねば、次の皇后を誰にするかという話をしなければならない。
だから、犯人が確定していない今は、らんかを使って樹蘭の死を隠しておくのだ。誰の思惑通りにもしない。樹蘭の地位を犯人に奪われるなどもっての外だ。
樹蘭の首には、痛々しい圧迫の痕が全周に残っている。女の手で手前から首を絞めたと思われる痣の上に、くるりと一周する布の圧迫痕が重なっている。
眼球には溢血点が見られ、顔面にはうっ血があった。そして、首が締まっているときに抵抗したことで、首に引っ掻き傷がつき、爪の間には布の繊維が挟まっていた。
縄ではなく、布のような太いものを使っているようだか、首を絞めた凶器は発見されていない。これらは全て他殺の特徴である。
(無体な。痛く、苦しかっただろう。私が代わってやれたら、どんなによかったか……)
孫雁はそっと手を伸ばして、樹蘭の頬を撫でた。彼女が生きているとき、陶器のように白く滑らかな肌だと思って見ていたが、今は本物の陶器のように冷たくなってしまった。
「――樹蘭」
愛おしいその名を口にしてみても、反応は帰って来ない。
孫雁は、彼女のことを愛していた。周家は李家と親戚関係に当たるため、幼いころから交流があった。言ってみれば、幼馴染のようなものだ。
純粋で、素直で、いつもにこにこと笑っている。そんな樹蘭のことをいつしか恋い慕うようになっていた。そして彼女も、自分のことを想ってくれていると――自惚れていた。
樹蘭は成長とともに誰もが息を飲むほど美しくなっていった。清廉潔白な性格で多くの人に好かれ、皇后の有力候補として後宮に入ることが決まった。しかし、そのころから、無垢だった樹蘭の笑顔が曇り始めた。
彼女を悪女と呼ばれるほどに変貌させるほどの何があったのかは、分からないままだ。
そして、樹蘭は輿入れの日を迎え、貴妃として後宮にやって来た。
(樹蘭は入宮してからの五年間、ただの一度も私に笑いかけてくれることはなかった)
入宮した日、貴妃になった樹蘭の寝所へ渡った孫雁。昔から今もずっと好きだと伝えたが、幼いころに親しくしていた彼女の面影はなく、氷のような表情を向けられ、「私はあなたを愛しておりません」と冷たく跳ね除けられた。
それから彼女は、孫雁からの寵愛を拒み、周囲へも冷たく当たり、悪女などと言われるようになった。
彼女がどんなに嫌われ者になっても、孫雁の心は彼女に捕らえられたままだった。ただ彼女のことが好きだった。
孤立していった樹蘭だが、唯一、凛凛にだけは心を許しているようで、いつも傍に置き頼っているようだった。
(きっとお前は、私の妃になどなりたくなったんだな。それなのに私は……お前にいつか振り向いてもらうことを――期待していた。手放してやれていたら、こんな結末にはならなかったのかもしれない)
ひたむきに想い続けていれば、いつか心を通わせることができるのではないかと願ってしまったのだ。
きっと樹蘭は、後宮という狭い檻に自分を縛り付けた孫雁が恨めしくて仕方がなかっただろう。だから、心も荒んでいったに違いない。
「すまない、樹蘭。私が憎いだろう。好きなだけ私を憎め」
彼女の白い頬に雫がぽたりと一滴落ちる。
孫雁は彼女の顔を見下ろしながら囁いた。
「――お前を殺した犯人を必ず見つけ出し、その首を墓に捧げよう」
そのために、呼び戻しの術を使って現れた、樹蘭そっくりのらんかを利用するつもりだ。彼女は、顔の造形、体格、声、爪の形に至るまでの全てが気味が悪いほど樹蘭と同じだった。
時折見せる柔らかな表情は、悪女へと変貌する前の樹蘭を彷彿とさせた。
操魂の術は、先代たちが何度も実践しているが、失敗したことはほとんどなかった。
今回も孫雁は手順通りに行い、確かに成功したはずだった。なのにどうして、樹蘭ではなくらんかが現れたのかは分からない。
孫雁はすっと立ち上がり、名残惜しげに彼女のことを一瞥してから、部屋を出る。
部屋の外で、文英が待機していた。
「彼女を誰にも知られずに、ひっそりと葬ってやれ」
「……仰せのままに」
彼は両手を重ねて前に掲げ、敬意を示した。
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