第20話 『怠惰』はかく語りき 下

「人一人殺しておいて、まともでいられるわけがないと。そう言っている」

 最早、俺は耳を塞いでいた。

 何も聞きたく無かった。これ以上、何も。

 急転直下というわけではない。前兆は、前触れはあった。

「……人殺し?何言って────違う、そんなわけない。狩野は……!」

 だからこそ、俺はずっと───、

「おいおい、目を逸らすなよ。お前はもう知ってるはずだろ」

「やめ────、」

「あれは『憤怒』を殺した」

 膝の力が抜ける。崩れ落ちて、真っ白な床を見つめて。

 …………罪源の継承は、罪源者の『殺害』によって為される。

 埋め難い断崖のように横たわる事実に、ただ対面させられる。そんな醜態に、あはは、なんて笑み声が降った。

「ああ。自分が崖から転げ落ちたことすら、ついさっき知ったんだもんな」

「…………っ、」

「アンタ。原作者のくせして、本当になにも知らないんだな?」

 そして、次に降ってきたのは、黒革の手帳だった。

 地に横たわるそれを、暫し呆然と眺めて。

「は、」

 自らの瞳孔が、収縮するのが分かった。

「やるよ。拾ったから」

「は…………いや、でも、これは、」

「取れよ。元々はお前の物だろう?」

 それは紛れもなく、狩野に持ち去られたはずの、俺の手帳に他ならない。

「……んで、今更こんな物、」

「『こんな物』?違うだろ」

 ────今のお前に、最も必要な物だ。

 その通りだった。

 掠れた声を漏らして、鎌首を擡げる。

 壮絶な笑みだった。まるで本物の『モーガン・ル・フェイ』のように微笑みながら、青年がこちらを見下ろしている。

 背後で手を組んだまま、「無償の親切は怖いか?」と穏やかに首を傾げて。

「じゃあ、こうしよう」

 ぴ、と、立てられた人指し指に、視線が吸い寄せられる。

「じゃんけんをしよう」

「は…………」

「お前が勝てば、手帳をゲット。俺が勝ったら──そうだな。一つ、俺の願いを聞き届けてもらおう」

 首筋を、嫌な汗が伝う。

『怠惰』にじゃんけんで負ける。その意味を、俺はよく理解していた。

 脳裏に過った、デッドエンドの一文字を、首を振っては霧散させる。

「パチモンなんじゃないのかよ……」

「役を任された以上、『モーガン』のお作法に則るのが礼儀だって。そう思わないか?」

 どうにしろ、腹を括るしかないらしい。

 俺は、狩野の事を何も知らない。だから、知る必要がある。

 あの手帳を手に入れない事には、前に進めないのだ。

 顎を引けば、ターコイズブルーの瞳が、愉快そうに細められる。

 目尻に陰惨な皺を刻みながら、「そう気張るな」なんて小首を傾げて。

「所詮は、三分の一の運試しだ」

 …………本当に?

 そんな一抹の不安が、胸中を過る。

 嫌な感覚だった。

 掌の上で、良いように踊らされているような。

 思い出すのは、すまし顔で講釈を垂れる男の言葉だった。

 ──勝負事で、相手の提示した条件やシステムを鵜呑みにするべきじゃない。

 ──大抵の場合、それは君にとって不利で、相手にとって有利な物になっているから。

 騒めく胸中に反して、あまりにも軽い調子でかけられる号令。

「さいしょはグー」なんて言葉と共に、握った拳を軽く振って。

 考える。

 そして、その男は何と言っていたのか。

 確か、そう。「必ず『グー』を出すのをやめろ」と。そう言っていて。

「じゃんけん」

 ──だから俺は、グーを出した。・・・・・・

「…………」

「は…………」

 モーガンは、『チョキ』を出したまま目を見開いていた。

 そして、暫しの沈黙の後。

「…………驚いたな」

 そんな言葉に、理解する。

 モーガンにはやはり、このじゃんけんに勝てるという確信があったのだ。

 チョキを出せば、勝てる──少なくとも、負けることはないという確信が。

「なにが、『三分の一の運試し』だ」

 転がり出た悪態に、心外だという表情で仰け反るモーガン。

 芝居じみた所作は、どこまでもこちらをおちょくっているようだった。

「運試しに変わりはないだろう?」

「白々しい。負ける気なんてさらさらなかったくせに」

「…………酷い言い掛かりだな」

「言い掛かり?どの口が」

 答えは無い。

 代わりに、腕を組んだまま、先を促すように笑みを深めて。

 直ぐにでも手帳を渡してほしいところだが、俺が疑問に答えるまで動くつもりはなさそうだった。

 諦観に濡れた溜息が漏れる。

「初めて」と口を開けば、モーガンは腕組を解いた。

「…………初めて違和感を覚えたのは、貴方の目の前で転移魔法を使ったときだ」

 彼は、転移魔法の触媒が「グラトニーの眼球」であると瞬時に断じた。

 百歩譲って、それが眼球であることは理解できても、持ち主ばかりは、会話の内容を聞いていないと知り得ない。

「…………作るところを見たんだよ。実際に、『暴食』の目玉をくりぬいて──、」

「グリードさんは、全ての準備をあの井戸で行っていた。貴方の千里眼を警戒していたからだ」

 そして、カフェテラスで狩野の手帳を見た時。

 ステータス欄には、狩野が『傲慢』を屈服させたという記述はなかった。

『傲慢』の固有魔法が、プライド殿下の手の中に残っていたということだ。

 故にあの時点では、モーガンは固有魔法にブーストをかけることはできなかった。

 井戸での光景を視ることなど、出来るはずがないのだ。

 だからこそ、読唇術か、その他の特殊技能か。

 絡繰りこそ分からないが、モーガンが遠視だけではなく、その会話の内容も知ることができるのは確かだった。

「あなたはグリードさんの『グーを出すな』というアドバイスを盗み聞きしていた」

「……俺を物凄い暇人だと思ってるか?四六時中お前たちを見てるって。ピンポイントでそんな──」

「それだけじゃない」

 遮るように言えば、モーガンは鼻白んだように閉口する。

「『自分が崖から転げ落ちたことすら知らない』」

「…………」

「あなたは俺にそう言った。これは明らかに不自然だ」

 だって、あの時──第三の試練で投影された映像は、明滅するする信号機と、走る列車だけだった。

 極めつけは、俺のうわ言。

 ──「ああ、おれ、あ、死んで、電車が、違、バラバラで、死ん────」

 思い出すのも恥ずかしいが、あのとき俺は確かにそう言った。

 それだけを見れば、俺の死因は列車関連の事故であると考えるのが自然だ。

 間違っても、「崖から落ちた」なんて言葉が出てくるはずがないのだ。

 …………俺が、『この世界に来る前』を視たという話でもなければ。

 そして、グラトニーの不老不死に、グリードの履行魔法。

 どれもが、オリジナル──先代の記録と少しずつ食い違っていた。

 加えて、「固有魔法は、罪源者の手を渡るごとに少しずつ形を変える」と。

 そのグリードの言葉を勘案したとき、導き出される結論は──、

「──あなたは、対象の『過去』を視ることができるんじゃないか」

 俺の言葉に、モーガンの目元が痙攣する。

 そして次の瞬間には、色の無い相貌が、不敵な笑みに塗り替わっていた。

「──完敗だ」

「…………」

「すっかり篭絡されたアンタを見た時、『憤怒』がどんな反応をするのか見ものだったのに」

「待って」

「はぁ。くどいようだが、約束は約束だしなぁ」

「待てって」

 聞き捨てならない野望に待ったをかける俺を他所に、青年は薄ら寒い噓泣きをする。

 そして、よよ……と涙を拭いながら、俺の手に手帳をねじ込んだ。

「…………」

 ぶり返してきた恐怖を踏みつけながら、震える指で表紙を捲る。

 表紙を捲っては、馴染みのテキストへと視線を滑らせて。

 未知の──『憤怒』としての彼のページにたどり着いたと同時に、「ああ」と絶望に濡れた声が漏れた。

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