第17話 ☆きみが知らない話

 それが終わった日なのか、始まった日なのか。どちらが適切なのかはわからない。

 ただ咳き込みながら、生きたまま焼かれる激痛に喘ぐ。燃え盛る炎の中から、蒼く澄んだ満月をただ見ていて。


 次に目を覚ました時、地平線まで広がる荒野に一人佇んでいた。

 炎も、苦しさも消えていて、落ちてきそうな真っ赤な月が、大きな瞳孔みたいにこちらを見ていた。

 そんな月と、しばらく見つめ合っては足元を見て。

「…………今わの際に、ツキが回ってきたな」

 地に伏したまま語りかけてきた男を見て、まず浮かんだのは「なぜその状態で意識があるのか」という困惑だった。腹部、胸部、大腿、下腿部。あらゆる部分に剣が刺さっており、その刺創は20カ所を超えていた。

 致死量の出血に、明らかな胸部外傷。一目で助からないとわかる状態だった。

 それでも、負傷者を眼前にして棒立ちという選択肢は無い。男の傍らに膝をつき、その傷を検分して。

「手を貸してくれないかな」

 男の手が、俺の手首をつかんでは自らの頸部に誘導する。

「生きているだけで、痛くて、痛くて、くるしくて──かいほうしてほしい」

 その手の体温は、生の階段から降りた人間の物だった。

 医師は可能な限り患者の延命に努めるべきである。延命の可能性がある以上、それを追求することが医師の職業倫理である。

 何度も、何度も受講し検討を重ねた生命倫理の課題も、終末医療の現状も。現実を前にしたとき、それらがいかに無意味な物であったのかを理解させられる。

 自分は、眼前の男の命を救えない。喘ぐこの男の苦痛を取り除くことが出来ない。

 おれはは震えていた。男の願いを聞き届けた瞬間に、自分は人の道から足を踏み外すことになる。それに、男はおれが何をしてもしなくても死ぬだろう。

 けれど、その間は。死ぬまでの間、この男は想像も及ばない激痛と苦しみに苛まれることとなる。

 命を救えなくても、おれの手にはたしかに、いま男を救う術があった。男の願いを叶える術が。

「きみになら、できる。きっと、きみにしかできないことなんだ」

 そんな言葉に、おれは抗えなかった。自分の所業の恐ろしさを理解することを、頭が拒んでいて。思考と感情、自分の身体とがバラバラに引き裂かれたみたいだった。

 男の青い唇が、感謝の言葉を紡いでは弧を描く。

 何かが折れて、千切れて。小さくなっていく鼓動に、手をすり抜ける体温。

 生々しい感触が、いつまでもいつまでも両手に纏わりついては離れなくて。

「くるしい、やめて」

 気付けば、手の中には違う青年がいた。銀髪は、色素の薄い栗毛に。碧眼は、黒曜石みたいな黒目にすり替わっていて。鬱血しては赤く膨らんだ顔のまま、涙目でただ「たすけて」と喘ぐ。

 銀髪の男のような、見目麗しさはない。人ごみに紛れれば、直ぐに見失ってしまうような素朴な青年だった。

 けれども、青年の唇がおれの名を紡ぐたびに、胸中が、温かな多幸感で満たされる。その素朴な青年が、誰よりも何よりも愛おしくて。抱きしめて、もう大丈夫だと安心させたかった。泣かないでと、震える唇にキスをしたかった。

 溢れ出る庇護欲とは相反して、生白い首に回した手がミシリと音を立てた。そして、苦痛に見開かれた黒目。そこに反射した男は、歪な泣き笑いをしていた。

「すき、すき。愛してる」

 歪んだ口元から、縋るような甘い声が漏れる。

「────だいすきだよ、圭一」

 ぼきん。

 そんな音が鳴ったのは同時だった。藻搔く四肢が、脱力してはだらりと投げ出される。

 もう戻れないね、と。自分の声をした誰かが耳元で言った。


「あれ」

 視界が開ける。

 鈍色の無力感も、冷えた絶望感も、甘やかな多幸感も。すべてが霧散していた。

 背もたれに預けられた上躯を起こす。

 どうやら、自分は呑気に寝こけていたらしい。からっぽな胸に次に浮かんだのは、大好きな彼が居ないという寂しさだった。

 ツンと痛む鼻を啜って、沈んだ内面のまま相貌を擡げて。

 目元を拭った袖口が、涙に濡れていた。

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