第4話 Dearest Tale

 始めこそ不安げだった少女は、おずおずと少年の手を取った。少年は小さな手を強く引き上げ、拍子に体勢を崩した少女の身体を抱き留めた。当時の少女は少年の腰ほどの背丈しかなかったが、温度は彼以上に温かだった。愛されながら育った証拠だろう。

 少女はまだ潤んだ瞳で彼を見上げていた。


『お花がほしいの?』


 少女が求めたモノ――――幻で咲かせた、触れることも叶わない花々を指差す。少女は無邪気な様子で頷いた。そして慌てて首を振る。


『もう帰らなきゃ……。お母さんに怒られる。友達がもう教えてるかもしれない』


 あんまり素直に言うものだから、つい笑ってしまった。


『分かった。じゃあ引き返そうか。その途中にも綺麗な花が咲いているから、それを摘めばいい』


 少女の手を握ったまま入口までの慣れた道を辿っていると、大人しく並んで歩いていた少女がためらいがちに口を開いた。


『お兄ちゃん』


 深紅の瞳が丸くなった。


 初めての呼び名だった。彼を指す言葉はずっと『精霊様』か『怪物』だった。

 人間たちが、家族を呼ぶ時に使う呼称というのは知っていた。無論精霊は家族ではない。崇拝や脅威の対象であっても、すぐ近くの場所で寄り添っていたとしてもなり得ない、一番遠い呼び方だ。


 彼を指すのに最も似つかわしくない呼び声が、波のように響いて胸の奥を満たす。


『お兄ちゃんは、怪物?』


 みんながそう言うの、と臆さず訊かれた言葉に、自嘲が込み上げる。


『さあどうだろうね? “皆”が誰と誰なのか知らないけど、もしそうだったら?』


 肯定も否定もせず問い返す。すると思ってもみなかった答えが耳を打った。


『私、お兄ちゃんが怪物ならうれしいよ。だって優しいもん。道を教えてくれるし、お花くれるし、私を食べないから』


 少女は笑った。木漏れ日が少女の身体を輝かせた。

 その笑みに、彼は何も言い返せなかった。求めていた感情に対して。




 森の入り口付近に会った花畑で好きなだけ花を摘ませ、少年は静かに少女に言い聞かせた。


『いいかい。この森に入ったことは絶対に喋っちゃいけないよ。花は野原かどこかで摘んだと言いなさい』


 口答えを許さない口調だったから、少しだけ少女の表情が曇る。胸が淡く痛んだが、撤回はしない。


『分かった。秘密ね……また来てもいい?』

『………それは』


 君のためにならないと思うよ。

 なぜはっきり「駄目」と言えなかったのだろう。なぜ食べようと思わなかったのだろう。名残惜しかったから? 彼の存在を「嬉しい」と受け入れてくれたから? そんなに、彼女の傍が心地良かった?


 また会いたいと、願ってしまった?


 囁きかける己への問いを無視して、少年はぐずる少女の背中を押した。

 一旦森の外に出た彼女が戻って来ないよう、彼は入り口を塞いだ。



 あれから――――そう、10年経つ。彼女は大人になっているだろう。朗らかな笑顔は輝きを増しただろうか。

 何よりあの瞳。

 大きくて愛らしい瞳。今宵の空のような、濡れた漆黒。今は誰を映しているのだろう。


 ――――無性に会いたくなる。


 来ない方がいいと告げたのは自分なのに。


 複雑に絡み合うつたと茨の扉。硬く閉ざされていた月狩りの森の入口が、ゆっくりと人を迎え入れる。

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