月狩りの森

第2話 Old Tale

　いつからだろう。何の変哲もない森が『月狩りの森』と呼ばれるようになったのは。誰も知らないずっと昔のことだが、その由来は長く語り継がれている。

　空を闇が染め上げる頃。太く高い樹木や深く茂った植物で形成された森は、夜空よりも濃く暗い影に覆われる。森は天高く昇った月の沈む方角にあるので、人の目からはその影が月を呑み込んでいるように見えるのだ。そんな光景が、昔の人々には『月を狩っている』風に思えたらしい。本当は、森の影に隠されているだけなのに。

　月狩りの森は人を惑わすという。足を踏み入れたが最後、戻っては来られない。だから人は安易にそこへ近づかない。

　しかし土地の収穫が乏しかった数百年前までは、森は豊かな実りの場として重宝されていた。貴重な水場と果実を与えてくれる森に、人々は感謝の気持ちとして生贄を差し出してきたそうだ。

　そうして時が流れ、土地の収穫が豊富になってくると人々の足は森から遠ざかっていった。生贄を差し出す慣習も途絶え、次第に彼らは夜の不気味な森の姿を恐れるようになる。

　『月狩りの森』が人を狩る森へと変貌したのはその頃からだった。

＊＊＊＊＊＊＊

　一度だけ、月狩りの森へさまよい込んだことがある。

　その森の近くに住む子供たちなら、絶対にそこへは行くなと親に言いつけられる。森には怖い怪物がいるから、決して入っては駄目よ、と。

　小さい頃から物語を聞かされ、想像力が豊かな子供たちはその言葉に従っていた。怪物は人を食べる存在だということを、みんな知っていたのだ。

　だから子供たちは間違っても森へ行かぬよう、外で遊ぶ時は人家が並ぶ広い道を選んでいた。大人の目もあるのだし、誰かが森に消える心配はなかった――――はずなのに。

　あの日の遊びはかくれんぼだった。鬼に見つけられるもんかと必死になっていた私の前に、いつの間にか森の入り口がぱっくりと広がっていた。濃淡溢れる瑞々しい緑の中に、色とりどりの花が咲いていて。

　とても綺麗で、もっと近くで見たいと思ったのを覚えている。

　そこが怪物の住処だということも忘れ、私は茂みの奥深くへと踏み込んだ。

　言いつけを破ってしまった。そう後悔したのは、花畑を追い駆けるのに疲れてすぐだ。

　森の入り口に飛び込んだ途端、目の前にあったはずの花畑が遠ざかっていた。そこに入る前は、近くにあるように見えただけだろうかと思い直して走ったが、なかなか辿り着けない。私が進むたび、花の群れも逃げているようだった。

　走り続けてついに転び、我に返った時には遅すぎた。自分がどこまで来てしまったのかさえ、見当もつかなかった。

『森には怪物がいるから、入っては駄目よ』

　母の優しくも断固とした忠告が脳裏にこだまし、恐怖と絶望の入り混じった涙が溢れた。冷たい雫が止めどなく、服の袖にシミをつける。

　帰れない。怪物に食べられてしまう。頭にはそんな思いしか浮かんで来ず、私はただただ泣いていた。

　自分を覆う影に気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。