3 汝の隣人を愛せよ

 仕事を終えて笹塚の自宅に帰宅したときには九時近くになっていた。入居者がわずか二世帯にまで減った築五十年超のアパートの一階に、めぐみは部屋を借りている。水道道路を隔てて一段下がった宅地に建てられた古びた二階建ての木造アパートで、南側の窓が段丘の縁に面しているせいで部屋にはほとんど陽が射さない。全体に薄暗い部屋だが、問題にはならない。陽が射していようがいまいが、昼間はどうせ寝ているのだから。

 幾度となく住民が入れ替わり、使い古されてきた設備はいくら改修の手を加えても設計の古さを隠しきれず、居間と食堂と台所が一体となった空間はいかにも狭く、各戸を仕切る壁の薄さは現代の水準に照らすとあまりにも心許ない。声など簡単に漏れてしまう。

 無論、めぐみは節制に徹しなければならないほどの経済的苦境にはない。〈いつもそばに〉は非営利法人だが、中野夢乃は入念な広報活動を通じて充分な寄付を集め、職員には業務の性格に見合った報酬を与えている。とくに変則的な勤務を強いられる親友を、中野は深夜手当や加算賞与を加えて厚遇した。だから市村恋の言う「この世界で一番幸せになるべき人間」がわざわざそんな場所に居を構えているのは、あくまでめぐみの意思ということになる。彼女に自虐趣味がある嫌いは否めない。

 金属の一部が腐ってたわみがちな廊下を一番奥まで進み、自分の部屋の玄関の前に立つ。一〇一号室。表札は出していない。扉は木製で、化粧合板の一部が手前にめくれている。覗き窓は曇りきっていて、家の中から訪問者を確認する役にはまったく立たない。もし訪問者がいればということだが。扉の真ん中に空けられた新聞受けにはビニール袋を被せた新版のタウンページが突っ込んであった。配達したもののどうにも奥まで入りきらなかったらしい。おそらく近頃はタウンページの投函を許してくれる家の方が少ないのだろう。管理人がおらず、通りに面していて大して怪しまれずに出入りできるこのアパートは、きっと貴重な得意先に違いない。めぐみがタウンページを引き抜いてみると、それは確かに黄色い表紙をしていたが、彼女が知っている記憶のなかのそれと比べると、随分と冊子の厚みが薄かった。時代も変わったということだ。

 鍵を開け、中に入ろうとしたとき、バタバタと足音が聞こえた。その足音はめぐみの隣の部屋の玄関扉を勢いよく開けた。飛び出してきた女の顔にめぐみはもちろん覚えがあった。三ヶ月前に引っ越してきた二十代後半と思しき母親だ。これまで父親やそれに類する男の姿を見たことはない。子供の姿も見たことはないが、壁越しに夜泣きの声を頻繁に耳にするからまだ幼いのだろうと想像していた。小学生が持ち物に貼るような名前シールに「水嶋みずしま」とサインペンで書かれたものが表札代わりに扉に貼ってある。引っ越してきた当初に挨拶を受けたとき、女はきちんと「水嶋朱里あかりです」とフルネームを名乗った。

 めぐみにとっては馴染み深い空気をまとった女だ。こんな場所にわざわざ越してくるのだから、無理もないかもしれない。

 たまたまどこかへ出かけるタイミングだったのだろうかと思っていると、水嶋は扉を素早く閉めて、こちらへ駆け寄ってきた。スーツ姿だった。安物なのは一目見れば分かるが、スカートのサイズが小さすぎてとても窮屈そうだ。明らかに着慣れていない。企業の採用面接を受けに行くつもりなのかもしれない。化粧の仕方からしてそんな印象をめぐみは持った。無造作に伸びた黒髪はヘアゴムで後ろに束ねてある。あまり容姿に金を使っている形跡はない。あるいはそんな金は初めからないのかもしれない。水嶋はめぐみの目の前へ来てちょこんと頭を下げた。

「と、突然すみません。帰ってこられるのをずっと待っていたんです・・・・・・」水嶋は小さな声で恐る恐る切り出した。

 めぐみは特別驚いた素振りも見せず、静かに相手を見下ろした。一つ黙って頷きかけてから、扉を一度閉め、鍵をかけ直した。水嶋に向き直る。

 そのまま何も言わず、相手が話し出すのを待った。水嶋は一瞬躊躇いを見せたが、しかし覚悟を通した。ひと息に用件を告げた。

「わ、わたしにもその、お仕事を紹介していただけませんか? お願いします」

 水嶋はめぐみの顔をまともに見られず、すぐにまた深々と頭を下げ、そのまま動かなくなった。仕草だけを見れば学校の体育教師に呼び出され自分がした悪さについて平謝りする野球部員みたいだ。きっと許しをもらえるまで頭を上げるつもりはないのだろう。

(どうもわたしには招き猫の才能があるらしい)

 もっとも、めぐみが招く客は、決まって一筋縄ではいかないくせ者たちばかりだ。彼女たちは大抵、めぐみが身にまとう影と同じ陰鬱さを携えてやって来る。

「水嶋さんと仰いましたか? 確か、お話をするのはこれが二度目だと思いますけれど」

「はい・・・・・・」水嶋はまだ頭を上げない。

 めぐみは水嶋の肩に両手を置き、ゆっくりと身体を起こしてやった。水嶋の身体は少し震えていた。寒さのせいだけではなさそうだ。全体に造りの小さな顔は青白く、せっかく口紅を引いた唇も色を失いかけている。どうやら水嶋はめぐみを訪ねることを随分前から何度も考えていたようだ。隣人がどんな人間なのか、それが最大の不安だったのかもしれない。とくにそれが自分が頼ることのできる最後の一人の場合は。

「それで」めぐみは右手で長い髪を掻き上げ、耳の後ろに回した。人の上手うわてに立つのが得意な女がよくやるように。「水嶋さんには、わたしがどんな仕事をしていると見えているのかしら?」

 水嶋は返答に窮した。彼女の頭に浮かんだ職業は、大きな声で口にするのが憚られる類いのものだ。

「あの・・・・・・その、夜のお仕事を・・・・・・ごめんなさい。間違っていましたか?」

「夜のお仕事も大きく分ければ二つありますよね? 水商売か、あるいは風俗か。もちろん」めぐみは努めて優しい口調で言った。「軌道工って可能性もないわけではないけれど」

 最後のジョークは水嶋には通じなかったようだ。あるいは軌道工という仕事がこの世にあることをそもそも知らなかったのかもしれない。

「それで」めぐみは首を傾げて畳みかけた。「どちらに見えるの?」

 水嶋は逃げ場を失い、いよいよ狼狽した。

「あの、すみません・・・・・・とても綺麗な方なので、クラブとかに勤めていらっしゃるのかなと最初は思ったんですけれど・・・・・・」

「けれど?」

「あの・・・・・・たぶん、わたしより年上だから、もしかしたら・・・・・・」

 水嶋は語尾を曖昧にしてそれ以上を言葉にすることはしなかった。もっとも、言わんとするところは充分に伝わっている。

 水嶋は涙声になった。「すみません、もしわたしでも勤められるようなお店をご存じでしたら、教えてもらえませんか? 仕事を探しているんです。あまり時間がなくて、すぐにまとまったお金が必要なんです。お願いします」三度みたび頭を下げた。そのまま膝をついて土下座を始めそうな勢いだった。めぐみは彼女の上半身を抱き留めてやらなければならなかった。

「とにかく落ち着いて。顔を見せて、ね?」めぐみは半べそをかいている水嶋に自分の顔を近づけた。「これからどこかの面接に行くんでしょう? だったら泣いてはダメよ。あなたがスーツを着ている姿を見るのはこれが初めてだし、きっとあまりこういうことに慣れていないのでしょうけれど、あなたなりにせっかく準備をしてきたのだから、気をしっかり持ちなさい。今日の面接が初めからダメだなんて思っていたら、合格するものも合格できなくなってしまうわ」

「はい、すみません・・・・・・」水嶋は鼻を啜りながら小刻みに何度も頷いた。

(参ったな)

 水嶋の背中をさすりながら素早くあたりを見回した。あたりに人気ひとけはない。どうしてなのか分からないが、めぐみは自分が水嶋にひどいことをしているような気分になっていた。このやり取りを誰にも聞かれていないことを祈るしかない。

 めぐみは自分の鞄からハンカチを出して、水嶋に手渡した。彼女が涙を拭う様子をそっと見守った。水嶋の気が鎮まるのを待って今度は仕事用の名刺入れを取り出し、中から一枚を抜き取った。四隅が折れていないことを確かめ、彼女の手に握らせた。そこに書かれている法人のロゴと松田めぐみの名前を潤んだ瞳で見て、水嶋がすぐに自分の勘違いに気づいたかどうかは分からない。あるいはそれをデリバリーヘルス店の名刺だと思い込んだのかもしれない。少なくとも彼女が事前に欲しがっていたのはそういう種類の名刺だったはずだ。

 水嶋はさっと顔を上げ、まるで女神に救われたかのような安堵の表情でめぐみを見た。

「困ったことがあれば、いつでもそこに書かれた番号に連絡して下さい。いつでもよ。別に夜中になっても構わないから」

 消え入りそうな小さな声で何かを口にして、水嶋はまた頭を下げた。そして自分の部屋へと戻っていった。「ありがとうございます」と言ったのかもしれないし、「すみませんでした」と言ったのかもしれない。これまで数え切れないほどそうやって頭を下げてきたのだろう。果たしていったいどれだけの人間がそんな彼女の言葉に真剣に耳を傾けたのだろうか。

 水嶋が去ったあとには、ややきつい香水の匂いが残った。その匂いを嗅ぐとめぐみの気持ちは一層深く沈んだ。めぐみはもう一度玄関の鍵を開け、素早く身を滑り込ませた。


 部屋は七畳間のダイニングキッチン D K のほかに、四畳間の寝室が一つあるだけだ。トイレは和式で、贅沢なことに個室になっている。いやに狭いシステムバスは洗面所と同じ空間にまとめられている。使うときは本来防水カーテンを引くのだが、めぐみが入居したときには既に存在しなかった。まあ、一人暮らしだから不都合はない。洗濯機はバルコニーにある。このあたりは一般的なレイアウトだ。

 物の少ない部屋だ。家具はほとんど置いていない。食器類は日常的に使うものだけを揃えて常に水切り籠に載せている。主な調理器具はフライパンと片手鍋と卵焼き器が一つずつと菜箸があるだけだ。当然、まな板と包丁はある。炊飯器は三合炊きのマイコン仕様をキッチンの隅に置いて使っている。食事を作るのはこれらで事足りる。

 リサイクルショップにただ同然で置かれていた丸い木製のちゃぶ台は一部が大きく欠けている。処分した人間はきっとその欠けた部分が視界に入るたびに毎日うんざりとしていたのだろう。めぐみは百円ショップで見つけてきたクッションに座って食事を摂る。ほかに背もたれの角度を自在に変えられる座椅子を居間の隅に置いている。寝室の隅に小さな書き物机がある。前の住人の置き土産だ。家具といえるのはそれくらいだった。化粧台や箪笥はない。

 テレビやオーディオといった高級品もない。本棚はないが、部屋の片隅に文庫本が数冊縦に積み上げてあり、どうしても一人の朝を持て余したときに読む。すべて古本で、どれも一昔前に流行った恋愛小説ばかりだ。『ノルウェイの森』、『世界の中心で、愛をさけぶ』、『冷静と情熱のあいだ』——ページは黄ばみ、背表紙が外れかかっているものもある。

 寝室には布団が敷きっぱなしになっている。押し入れの下段に季節ごとに使い分ける掛け布団が数種類押し込まれている。上段に衣装ケースが三つあり、衣服と下着はそこに入っている。畳み皺がつくと困る上着の類はパイプハンガーラックにかけてある。書き物机の上にはかつてビスケットが入っていた空き缶があり、古い郵便物がまとめられている。どうしても捨てられずに残った手紙、写真、その他諸々。

 そのくらいだ。

 ほとんどどれものないものばかりで、たとえある日突然ここを追われたとしても特別困ることもなさそうだ。めぐみは毎日ここで起居し、昼間は眠り、夜は仕事をし、その合間に家事や余暇をこなす。

 通勤鞄として使っているトートバッグをちゃぶ台の横に置き、寝室でキャミソールに着替える。化粧を落とし、目薬を差し、片手鍋に水を張ってガスコンロの火にかける。湯を沸かし、ティーバッグの封を一つ切り、マグカップでレモンティーを作る。座椅子にどかっと腰を下ろし、ゆっくり啜った。ようやくひと息つくことができた。

 ふすまで隔たれた寝室の押し入れの方をぼんやりと眺めた。壁の向こうはもう水嶋朱里の部屋だ。しばらくドタバタと慌ただしい物音がしたかと思うと、女の子の不機嫌そうな声が聞こえ、やがて玄関扉がバタンと閉められた。出かけたらしい。

 めぐみはまるで犬のように首を振った。

(忘れよう。今日のところは)

 と自分に言い聞かせた。今朝はこれ以上、難しいことを考える気になれない。

 十五分ほどレモンティーを片手にまどろんでいた。携帯電話が着信した。

 かけてきたのは中野夢乃だった。

「おはよう。まだ起きてた?」

「おはようございます。ええ、起きてるわよ。まだご飯食べてないもの」

「残業だったの?」

「そんなところ」

「市村さんの話が長引いたとか?」

「よくご存じね」めぐみは市村恋の婚約指輪の眩い輝きを思い返しながら、「ちょっと自信がないわ」と弱音を吐いた。

「自信がないって? 自分も結婚できるかってこと?」中野は訊いた。それも大真面目に。中野の質問はめぐみをヒヤリとさせた。

「そうじゃないって」動揺を隠すために少し声を大きくして言った。「四月から一人で夜勤をこなせるかっていう意味よ」

「だよね」中野は同意した。「正直、ちょっと困ってる。だいぶ前から相談されていたことだから、きちんと計画的に人員補充に取り組まなかったわたしの落ち度ではあるんだけど」

「市村さん、どれくらい前に退職の話をしてきたの?」

「三ヶ月前」

「おくびにも出さなかったわね。演技達者なこと」

「あれはなかなかの役者だよ。美人だし」

「うん」

「変わらないね」

「うん? どういう意味?」

「自分以外の人間が美人って言われると、心穏やかでいられなくなる性格」

「心穏やかよ。市村さんは綺麗な子だと思うし、誰が見てもそう思うでしょう? 焼き餅焼いたりなんかしないわよ」

「ご自分の方がずっとずっと綺麗なのに?」中野は茶化した。

「お願いだから市村さんと同じこと言わないでよ。わたし、もう今年で四十よ。あなたもそうだけれど」

「四十でその美しさはもはや犯罪レベルだと思うけれど?」

「はいはい。好きなだけ揶揄ってください」

「本気で言ってるんだけれどなぁ」中野は間延びした口調で心底不思議そうに言った。「なんであなたみたいな女が誰とも結ばれないんでしょう?」

「用件はそれなの?」

「わたしの用件は常にそれだよ。めぐみに個人的に電話をするときは」

「じゃあ、このあたりで勘弁してちょうだい。ちょっと参っているのよ、今朝は」

「市村さんのことで?」

「それもあるけれど」

「ほかにもあるんだ」

「まあ、ね」めぐみは水嶋朱里の顔を思い浮かべながら言葉を濁した。

 中野は明るい声を出した。「後任のことだけれど、頑張って探してみるから、ちょっとは期待して待っててよ。四月までまだ時間あるし」

「大いに期待しているわ。市村さんみたいな逸材を」

「参ったね。努力します。ふふふ」

「じゃあね、おやすみ」

「わたし、さっき起きたところなんだけど」

「ああ・・・・・・ごめんなさい、つい。じゃあ、お仕事頑張って下さい」

「はーい」


 中野夢乃は大学二年生のときに妊娠し、同級生の夫と学生結婚をしてともに中途退学した。生まれたばかりの我が子を育てながら家庭を支えたが、夫が翌年、若干二十一歳で病没すると途端に生活は困窮した。中野の親は娘の早すぎる結婚に反対し、彼女は家庭に入るために実家と絶縁してしまった。他方死んだ夫は幼い頃に両親を不慮の事故で失い、祖母に育てられたが、その祖母もい。中野はどこにも身を寄せることができず、東村山の小さな賃貸アパートに移り、日雇いの仕事で生活を繋ぎながら懸命に愛息を育てた。

 生活は苦しかった。

 家賃や光熱費を滞納することは日常茶飯事で、食費すら満足に捻出できなかった。就学前の息子・歩夢あゆむが高熱を出してつきっきりの看病が必要になると、当然中野は仕事を休まざるを得ない。病院へ連れて行こうにも診療代が払えず、市販の風邪薬や湿布で誤魔化した挙げ句却って病状が長引くこともあった。何とか目が離せるほどまでに歩夢が快復しても、その頃には母親のもとに職場から解雇の報せが届いた。すぐに次の仕事を探さなければ母子ともに路頭に迷うことになる。そういう綱渡りの日々を中野は優に五年は過ごした。

「母親の孤独とは、ひとりぼっちだから感じるのではないわ。子供と二人きりだからこそ感じるのよ」

 と中野はのちに法人を手伝ってくれるようになった職員たちによく言った。夫を亡くしてからの五年間、中野は歩夢のほかに話し相手のいない孤独を散々に味わった。希望があるとすれば、どんなときも一途に自分を求める愛らしい息子のあどけない笑顔くらいだ。中野はその笑顔だけは、どんなことがあっても失いたくなかった。

 東村山での中野母子の暮らしぶりを知る者はほとんどいない。その数少ない例外が大学時代の級友である松田めぐみだ。旧姓、美山。

 自分が困っているときに進んで手を差し伸べてくれる人間を友と呼ぶのであれば、中野にとってめぐみはまさに唯一の親友だった。めぐみは結婚後しばらくして仕事を辞め、専業主婦になっていた。家事の合間を縫って中野に電話をかけたり、休日に東村山までやって来て親友の相談に乗ったりした。めぐみにできることはそれほど多くなかったが、本来夫婦生活のために使うべき家計の一部を流用して保存の利く食品やおむつや常備薬を買い込んで、中野のもとに届けたりもした。親子は常にお腹を空かせていたし、栄養状態はひどいものだった。肉体労働に従事している中野が四日間何も口にしていないことさえあった。

「きちんとした支援を受けるべきだ」

 というのは誰が言わずとも中野自身よく分かっていた。このままでは親子共倒れになる。めぐみが少しばかり助けたところで先が見えないこの状況は変わらず続く。行政の支援を仰ぐべきなのは明らかだが、中野は生活保護を受ける話になるとひどく躊躇した。決まって口にするのは、

「歩夢のことは自分で守りたい。こうなったのはすべてわたしのせいだから」

 ということだった。彼女が自分を戒めるように繰り返し口にしたその自己責任論こそ、五年もの間、中野を孤独のうちに苦しめ続けた原因ともいえたが、そう言いながらも中野はこの苦境から自分たちを救い出す有効な方法をなかなか見つけられずにいた。時代も中野に不利に働いた。彼女がこのどん底の時期を過ごしたのは、官民を問わずに社会支援が積極的に用意されるようになった現代ではない。平成不況が端緒に就き、日本全体を分厚い雲が覆っているような暗い雰囲気に社会が包まれていた頃のことだ。中野が歩夢を産んだ年の初め、阪神淡路大震災が起きた。三月には地下鉄サリン事件があった。八月には戦後初めて地方銀行が経営破綻した。新聞やテレビのニュースは日本に立ち込める暗雲を捉えては危機感をあおった。誰もが悲観的だった。荒波が一つのうねりを生み、大きな波となって社会を呑み込んでいった。中野が必死に息子との暮らしを守っていたように、誰もが自分と自分の家族の生活を守ることに必死だった。

 少々暗い話が続いた。だがもちろん光明はある。なければ救いがない。

 親子の二人暮らしは五年目に入っている。歩夢はじきに就学年齢に達し、小学校に入学しなければならない。無論、公立学校に入れるしかないが、就学には様々な費用が嵩む。ランドセルや勉強道具を買わなければならないし、入学後も給食や遠足といった学校生活に必要な出費が発生するだろう。中野の貯金(といってもそんなものはほとんど存在しなかったが)ではとても賄えない。息子の学校生活を惨めなものにしないためには、彼女はいまの生活水準を引き上げるための決断をしなければならなかった。とはいえいまさら急に何か良案が浮かぶはずもない。パートタイムの仕事を掛け持ちして月収十数万円を稼ぐのがやっとの中野にこれ以上の稼ぎは望めない。中野は行き詰まった。

 めぐみが一人の老婦人を連れて中野の自宅を訪ねたのは、歩夢が小学校に入学する直前の三月のことだ。アパートには歩夢が一人で留守番をしていて、二人は部屋に上げてもらい、中野が仕事から帰宅するのを待った。

 老婦人はとても品のいい身なりをしていた。ベージュのスーツを着て、真珠のネックレスを首から下げていたが、これ見よがしに自分の家柄や出自を主張するような人間ではなかった。とても穏和な笑顔を浮かべ、陽射しの届かない狭苦しいアパートの一階で畳に正座し、親子の貧しい暮らしぶりを目の当たりにして眉をひそめるようなことは一切せず、柔やかに歩夢に話しかけて、彼の話し相手を進んで買って出た。歩夢は老婦人が漂わせる品位を敏感に感じ取り、明らかに落ち着かない様子で何度もめぐみの顔を窺った。保育園に行くことができなかった歩夢は、同じ年頃の子供たちと交流することがほとんどなかったせいでひどく人見知りをする子供だった。だから老婦人を前にして上手くものが言えなかった。とにかく母親が帰ってくるのを待つしかなかった。

 老婦人は歩夢の父親の遠縁の親戚に当たるらしい。世田谷の成城に自宅があり、専属の運転手と使用人を雇って一人暮らしをしている。資産家の夫を十一年前に亡くし、膨大な遺産を相続したが、子供はおらず、自分の死後はすべての財産を信託にしていた。いずれにせよ大変な金持ちだ。老婦人は歩夢の父親が若くして死んだことを承知していた。葬儀が開かれなかったため、香典を包んで中野に届けさせようとしたが喪主の中野にどうにも連絡がつかなかった。中野の消息を調べて大学時代の同級生である松田めぐみに辿り着くまで五年もかかったのは、その間中野がほかの誰とも交際せずに働き詰めの日々を送っていたからだ。

 中野は帰宅した。彼女は自分の亡き夫にそのような親戚がいることすら知らなかった。突然の訪問に歩夢同様に動揺したが、親子の事情はすべてめぐみが既に話してある。

「どうか負担に思わずに受け取ってちょうだい」

 老婦人はそう言うと、アパートまで携えてきた大きな紙袋を歩夢の前に置いた。中には新品の牛革の黒いランドセルが入っている。それを目にした途端、中野は大粒の涙を浮かべた。すかさず畳に頭をつけて老婦人の好意に謝辞を述べた。同時に自分の人生にようやく転機が訪れたことを知った。誰かの世話になることを由としなかった自分が、何よりもその救いの手を渇望していたことに中野はこのとき思い至った。

 親子の苦難の日々はこのあたりで風向きを変えた。

 二人はこの老婦人の支援を受けながら生活を再建していく。無論これは、この日を境に何もかもが一気に楽になったというような単純な物語ではない。中野は職業訓練を受けたのち正社員として事務用品の営業販売会社に採用され、勤労を重ね、何とか自分の稼ぎで歩夢を満足に学校に通わせることができるようになった。その後大学に戻って心理学を学び直し学士号を得たのち、自分の経験をもとに、同様に困っているひとり親を支援する非営利の慈善団体を自ら設立するまでにさらに七年を要した。その間の親子の生活を老婦人は間接的に支え続けた。

 〈いつもそばに〉が産声を上げたとき、中野は真っ先にめぐみに活動を手伝って欲しいと声をかけた。彼女の献身的な支えがなければ、中野の人生はこのようには展開しなかっただろう。自分と自分の息子に手を差し伸べ続けてくれた親友にせめてもの恩返しをしたいと中野は考えた。なぜなら当時めぐみは、子宝に恵まれず離婚し、家庭生活を失い、精神を病み、再就職もできず、一人孤独に苦しんでいたからだ。中野は当然、そんなめぐみを誰よりも一番に心配していた。

 めぐみが立ち上げから加わった〈いつもそばに〉の活動は、現在九年目に入っている。

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秦鴻太朗 @goodbye__39

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