2 いつもそばに

 鼻を啜る音を最後に電話の回線が途切れた。電話口の女性にはまだ何か訴えたいことがあったのかもしれないが、それを言葉にする力は残っていなかったようだ。話は始めることよりも切り上げることの方が難しい。とくに初めから結論が出ないと自分で分かっているような話の場合には。

 松田まつだめぐみが目の前のモニターから視線を上げると、カーテンの隙間から陽の光を感じた。PCのタスクバーに目をやると、時刻表示は七時を過ぎている。通話アプリの終話画面にはこれまでの経過時間が表示されていて、彼女が一つの電話に三時間以上つきっきりだったことを教えていた。外したヘッドセットのイヤーパッドは汗でたっぷり湿っている。それだけの内容だったということだ。

「お疲れ様でした、めぐみさん。大変でしたね」

 市村恋いちむられんがめぐみのデスクの隅に小熊の絵柄の入ったコーヒーカップを置いた。それからめぐみの顔を覗き込んだ。丁寧に手入れをした長い茶髪を柔らかそうな濃紺のシルクのシュシュで束ねた市村はたったいま、朝の化粧を入念に済ませてきたかのようなさっぱりとした顔をしている。既に残業時間に入っているが、市村の表情に疲れなど微塵も感じさせない。若さとはそういうものなのかもしれない。

「ありがとう。ごめんなさいね、ほかの処理を全部押しつけてしまって」

「大丈夫です。それに今夜一番の大物はめぐみさんが引き受けてくれました。ほかはびっくりするくらい平和な一日でしたよ。他愛のないチャットの相談が数件あったくらいですから。あまりにも暇なので、ずっとめぐみさんが対応している電話の内容を聞かせてもらっていました。だから記録を書くのはわたしに任せて下さい。といってももう半分くらい書いてしまいましたけれど」

「市村さんが一緒にいてくれると本当に心強いわ。あなたがいなかったらわたし、ずっと前にこの仕事を辞めていたと思う。すごく細かいところによく気がついてくれるし、丁寧にフォローしてくれるし。いつもありがとうね」めぐみは涙声になりながら言った。どうも先刻電話で話していた女性の気が乗り移ってしまったらしい。めぐみは相手の動揺に引きずり込まれないようにするために相当な努力をしなければならなかったが、しかし三時間の電話相談はさすがに応える。

 二十三歳、社会人一年目の女性だ。ひとり親家庭に育ち、父親と二人三脚でここまで生きてきた。立派な父親だ。家事も育児も仕事も、すべて一人で背負ってきた。娘が大学を卒業するまで、自分のことはすべて後回しにしてがむしゃらにやってきた末に、正月の厳しい寒さに体調を崩し、そのままあっけなく死んでしまった。たった一人の家族、誰よりも大好きだった父親を失った悲しみを彼女が吐露するのに、三時間ではとても足りない。

 相手の心の有り様が電話越しに痛いくらいに伝わってくる。それを聞き続けるのがめぐみの仕事だ。もう五年、この業務に就いている。すべては慣れが解決してくれる仕事もあるだろう。しかしこの仕事はそうではない。

 長い息を吐いた。めぐみはコーヒーに手を伸ばした。

「弱り目に祟り目みたいな仕打ちになってしまうのが心苦しいのですが」市村はめぐみの横顔を窺いながら、しかし努めて明るい口調でさらりと告げた。「それも三月までです」

「え・・・・・・」めぐみは口に運んだカップを慌てて離した。「それはどういう意味?」そう訊き返したものの彼女は市村の真意をすぐに察してしまった。「・・・・・・辞めちゃうの?」と小声で問うた。涙は引っ込めたが、それにもかなりの努力が必要だった。

「はい」市村はきっぱりと返事した。少々思い切りが良すぎるほどきっぱりとした口調で言った。「今日、めぐみさんにそのことをお伝えしようと考えていました。お客さんの少ない夜だったので、明け方近くになればじっくりお話しできると踏んでいたのですが、こうしてめぐみさんがヘロヘロになったタイミングになってしまいました」市村は笑顔で続けた。「でも、それはわたしのせいではありません。たまたま長電話がかかってきてしまったのですから、単にめぐみさんが運が悪かっただけです」

「お願いだから、そう苛めないでよ・・・・・・」めぐみは今度ははっきりと声を震わせた。抗うだけ無駄だが、それでも無駄な抵抗をしないわけにはいかなかった。「もう決まっていることなのね?」

「代表には少し前にお話しして了承していただきました。ただ、ほかのスタッフの口からめぐみさんに話が漏れ伝わるようなことだけは嫌だったので、今日まで黙ってもらっていました。何といっても、わたしはめぐみさんに直接鍛えていただいた愛弟子で、ずっとめぐみさんと二人きりでお仕事をさせてもらってきました。きちんとお礼を言いたかったんです」

「確かにあなたはよくできた愛弟子だけれど」めぐみは下を向いた。不意に涙が零れ、カップの中の黒い液体に吸い込まれていった。「問題は、師匠の方がよほど頼りないことなのよ」

「始まりましたね、めぐみさんの弱虫」市村は笑った。いつだって場を明るく和ませることができるのが市村の美点だ。「コーヒー、冷めないうちに飲んで下さいね。もう残業時間に入ってしまっていますし、さっき言った通り、最後の相談の報告はわたしが書きますから、どうか少しの間、ゆっくり休んで下さい」

 市村は自分のコンピュータに向かい、キーボードを叩き始めた。

「ありがとう・・・・・・」めぐみは後輩の涼しげな横顔を見つめながら彼女が自分のために淹れてくれたコーヒーを啜った。

 既に夜はすっかり明けている。だが事務所の窓のカーテンは閉じられたままだ。未明から三時間続いた電話相談のために機を逸したのだろう。しかしその区切りがついたいまもあえてそのままにしているのは、市村なりにめぐみの気持ちを察したからかもしれない。朝陽はときに眩しすぎる嫌いがある。めぐみの言うように、市村恋はとても細やかな気配りができる優れた女性なのだ。


 非営利法人NPO〈いつもそばに〉は南新宿のマンションの一部をオフィスにして運営している。代表の中野夢乃なかのゆめのの遠縁の親類にあたる老婦人が所有している建物で、シングルマザーの中野が一から組織を立ち上げたとき、運営資金とともに彼女に寄贈された。

「ひとり親家庭が必要とするあらゆる支援を、一切の先入観を持たず迅速に提供する」

 というのが中野が定めた組織のミッションだ。中野自身の経験をもとに出発したこの非営利活動を組織的に行うために、彼女は十五人の正規職員を雇い入れ、企業や個人から寄付を募って運転資金を集め、東京都内のひとり親家庭およそ百世帯に対し支援を行っている。

 設立当初の〈いつもそばに〉は、それはとてもささやかな組織だった。中野が最初にやった仕事は偶然知り合ったシングルマザーの七歳の息子の誕生日パーティーを企画することだった。我が子にプレゼントすら買ってやれないほど経済的に苦しい思いをしているその母親のために、あるいは一人息子のために、ボランティアを集め、地域の集会所を借り、街の八百屋やスーパーを回って余って廃棄するほかない賞味期限切れの食材やお菓子を分けてもらってケーキやプレゼントを用意し、ほとんど手作りの誕生日会を催した。会のチラシを作り、そこに自分の企画の趣旨を書き込み、なるべく多くの人間に参加を呼びかけることも忘れなかった。二組のひとり親家庭の親子が自分たちも参加させてもらえないかと自ら中野に連絡してきたので無論歓迎した。会を手伝ってくれたボランティアスタッフは最終的に八人に増えた。そのうち二人はのちに中野の部下になる。

 この誕生日会が〈いつもそばに〉の活動の原点になった。中野はそこから少しずつ活動の幅を広げ、方々に声をかけ、非営利法人を組織し、それを大きくしていった。誕生日会はその後も定期的に開催されるようになり、ひとり親同士が自然と交流できるコミュニティへと発展した。中野は集まってくるひとり親たちに積極的に話しかけ、日々の生活で何に困っているか、あるいはどんなものを必要としているかをいちいち尋ねて回った。住居費のために食費を削ったり、子供の習い事や学習道具を買うことを諦めたりしなければならない彼女たちの生活の手助けができないものかと考え中野が取り組み始めたのが、食品や日用品を無償で届ける生活支援活動だ。現在の法人の活動はこの生活支援を主軸に展開している。

 大小様々な企業を回って支援事業に必要な食品や日用品や生理用品を寄付してもらい、いつでも支援家庭に届けられるように専用の倉庫に集約し、管理する。行政支援を担当する自治体の専門部署や児童相談所を訪ねて情報を共有し、それをもとに支援の具体的なあり方を議論し、実施する。定期的に同じような境遇のひとり親同士が気軽に交流できるようなイベントを開催する企画を立案する——中野が手弁当で始めたそれらの活動を、いまでは中野の下で働く十五人のスタッフたちが担っている。彼女たちはそれぞれの能力を活かしてチームワークに取り組んでいる。

「そこに定形はない」

 と中野は言い切る。支援に「こうあるべき」という模範解答はないのだという。むしろ決まり切ったモデルを作るべきではなく、日々様々な家庭と接するなかで気づきを得てその手法を都度改めていくのがいい。

「だから一年前や一ヶ月前にやっていた活動や支援と、今日やっていることが違っているのが自然です」

 というのが中野の考え方だ。そして彼女と活動をともにする仲間は「なるべく近しい目線の人がいい」という中野の希望で職員全員が女性となっている。それも家庭を持ち、場合によっては自身もシングルマザーだという職員が少なくない。〈いつもそばに〉の支援対象はあくまでひとり親家庭であり、父子家庭や祖父母家庭も当然そこに含まれるが、実際に接する機会が圧倒的に多いのは母子家庭であり、中野が目指すきめ細かな支援活動を実現する上で「近しい目線」が大いに役に立っている。

 ところで、中野夢乃が〈いつもそばに〉の活動において「最も重要な機能」と位置づける部署がある。

 夜勤部隊

 と中野が呼んで全幅の信頼を寄せる、松田めぐみと市村恋の二人が担うホットラインがそれだ。彼女たちの姿を日中の賑やかな事務所に見つけることはできない。二人は夕方、陽が傾く頃にようやく南新宿にやって来る。日中勤務の職員たちから引き継ぎを受けたあと業務に就き、途中交代で休憩を取りつつ夜通し事務所にいる。ヘッドセットを身につけ、ひたすらモニターに向かう。夜が明けるまで二人は静まりかえったマンションの一室で作業をする。

 中野は〈いつもそばに〉に専用のウェブサイトを作り、電話やチャットで広く悩みや相談を受け付ける仕組みを設けている。受付時間を夜間に絞っているのは、それが最も問い合わせの多い時間帯であり、かつマンパワーを効率的に使えるからだ。非営利法人が相談窓口を専ら担当する職員を多く抱えることは難しい。幸いにしてめぐみと市村という有能な二人を得た中野は、女性やひとり親など不安や孤独を抱える相談者が最も活発に接触してくる夜間に彼女たちを配置し、日々寄せられる大小様々なSOSに対応させる体制を整えた。

 支援団体に相談することに抵抗を感じやすい若い女性の場合、ウェブサイトのチャット上でのやり取りを用いることで、より気軽に自分の悩みを打ち明けやすくなる傾向があることを中野は経験的に知っている。こうしたインターネットツールは電話より相談窓口の敷居を下げやすい。この小さな部署が業務で上げる成果を目の当たりにした中野は、

「こんなくだらないことを相談してもいいのだろうか、と本人が躊躇するような話題が、往々にして決して笑い事で済まないような深刻な問題を孕んでいることがよくある。わたし自身がその実体験者でありながらその事実に驚きを禁じ得ない」

 と溢したりした。

 〈いつもそばに〉を設立した当初から、このホットラインは中野の構想にあり、それもむしろ活動の中核に位置づけたいという強い希望があった。しかしこの部署の性格は、相談業務に当たる職員に極めて繊細かつ慎重な処理能力を要求する。誰にでも任せられるような簡単な仕事ではない。

「前提として」

 中野は担当者に求める能力をいくつか挙げている。

 何よりもまず、電話やチャットでSOSを訴えてくる直接顔の見えない相手の心内をよくよく想像できる感性が大事だ。

 言葉遣いも重視しなければならない。とくに会話の始まりにおいて最初のひと言にどんな言葉を持ってくるのか、よほど的確に選び抜ける語彙力が要る。

 同様に言葉を聞く力も生半可なものでは間に合わない。つらさや苦しみや死にたいという直接的な欲求を、相手がストレートな表現でこちらに訴えてくるとは限らない。奇妙なたとえ話をするようだが「最近飼い犬が吠えてばかりで自分の言うことを全然聞いてくれない」という相談者の訴えをつぶさに聞き取ることで「実は彼女は妊娠していて、自分ではどうしていいのか分からず途方に暮れていたのだ」という深層の問題に行き着かなければならない——誤解を恐れずに言えば、そんな少々無茶な読解力さえ要求されるのが、中野がまさにこの部署で取り組もうとしている現場の実態なのだ。

 中野はそんな際立った専門性を求められるこの仕事に適した人材像について、

「夜の闇の深さが分かる者」

 と表現している。中野は自分の組織を運営するとき、しばしばこうした抽象的な表現で仕事の実相を描こうと試みることがあった。中野の解釈では、松田めぐみがまさにそれに該当するらしい。

 ホットラインは中野とめぐみの二人で立ち上げ、実務のほとんどを当初めぐみが一人手探りで進め、一つ一つ形にしていった。相談件数が増えるにつれ、めぐみが夜間に引き受けたある一件がそのまま日中の職員たちに引き継がれ、実際にその家庭のもとを訪れて話を聞いてみると支援を必要としていることが分かったり、あるいはそれまでいかなる支援の目も行き届かず刻々と孤立を深めていた困窮家庭をまさに崩壊の一歩手前で繋ぎ止めたりする、といった成果が彼女の地道な努力によって少しずつ実を結ぶようになった。

 ホットラインの新設から二年後、中野はこの部署の拡充を決意し、そのために市村恋をスカウトし、彼女をめぐみの同僚に充てた。市村はめぐみより一回り以上年下で、〈いつもそばに〉のような非営利法人での仕事についてはまったくの素人だったが、中野は面接にやって来た市村の話しぶりや頭の反応の良さから何かを機敏に感じ取り、めぐみの部下に最適だと判断し、その判断が間違いでないことを市村自身に証明させた。以来市村は三年にわたってめぐみの良き後輩として、あるいは頼りになる同僚として、深夜の静かな、それでいて過酷な職場でともに戦ってきた。

 その市村が、ここを去るという。めぐみにとってはまさに一大事だろう。


「結婚するんです、わたし」市村はキーボードを叩く手を止めて言った。椅子を回転させてめぐみの正面を向き、自分の左手を相手によく見えるように突き出した。薬指に指輪がある。

「気がつかなかった・・・・・・今日、ずっとしていたの?」めぐみは驚きの表情とともに市村の婚約指輪をまじまじと見た。

 市村は隠し立てをするような女ではない。彼女は確かにこの日(正確には前夜からだが)事務所に入る時点で婚約者から贈られたその指輪を身につけていた。見せつけるような仕草はもちろんしないが、しかし隣同士で作業をしていれば普通目に入るものだ。とくにそういう私事にとかく敏感な女性であれば。

 めぐみはそんな自分の鈍さに呆れた。呆れると同時に、自分がもはや他人の恋愛事情や結婚話といったものにいささかの関心も抱かなくなっていることに奇妙な安堵を覚えた。

 離婚して十二年が経つ。めぐみは今年、四十歳になる。

(大人になったということだ)

 と頬を緩めた。自分より十三歳年下の後輩から寿退社の報告をされても何とも思わない境地に、いつの間にか至ったようだ。それが歓迎すべきことなのかどうかはよく分からない。

「おめでとう。幸せになってね」今度は涙声にも震えた声にもならなかった。浮かんだ感情は妬みでもひがみでも自己嫌悪でもなく、素直な嬉しさだった。

(すごいことだ)

 めぐみは思った。

 市村はこの三年間、一度も仕事を休まなかった。遅刻さえしなかった。

 二人の始業時刻は夜の十九時だ。途中一時間の休憩を挟み、翌日四時の規定終業時刻までひたすら勤務が続く。大抵の人間が出かけ支度をする時間に帰宅し、子供たちが陽射しをいっぱいに浴びて公園で遊び回っている頃、二人は夢の中にいる。もし夢を見ていればということだが。そして午後の陽射しが傾く頃布団から抜け出す。夕食を摂り、コーヒーを飲み(市村の場合はカフェオレかもしれない)、化粧と着替えを済ませ、夕闇の街を縫うようにして出勤するのだ。

 普通、そんな生活習慣に付き合ってくれる恋人はいない。その男が深夜の道路工事作業員であるとか、オフィスビルの警備員をしているとか、あるいはプログラマーで、米国時間に現地の企業とやり取りができればおおよそ仕事が完結するような柔軟な働き方をしているというのであれば、あるいは市村の働き方を許すかもしれない。しかしスーツを着て通勤電車に乗り、丸の内でキビキビとオフィスワークをするような男ではまず無理だろう。同棲したところで、一緒に食卓で朝ご飯を囲むことも、自分のお弁当を作ってもらうことも、仕事上がりに待ち合わせることも、夜ベッドで一つになることも、とても期待できない。

 めぐみは市村のくっきりとした目鼻立ちを眺めた。何度見ても、同性の目から見ても、惚れ惚れするような美人だ。肌は艶があり、いたずらに化粧を塗りたくらなくとも特別隠さなければならないようなシミやホクロやなかなか治らないニキビもない。上品に薄いピンクの口紅を引いた唇など赤子のようにふっくらとしている。

(なるほど、たとえ休日の昼間に手を繋いでデートができなかったとしても、彼女のような天からの授かりものを得るためならば、男はどんな我慢も厭わないものかもしれない)

 少なくとも三年、その男は耐えたのだ。その甲斐があったと死ぬまで噛みしめられるようなら幸せだ。そうであって欲しい、めぐみは心からそう思った。

「寂しくなるわね」めぐみは呟くように言った。口にしてから言わなければ良かったと思ったが、しかし口をついて言葉が出てしまった。

「わたしも寂しいです、めぐみさん。本当はもっと一緒にお仕事をさせていただきたかった。めぐみさんのこと、大好きでしたから」

「そんな嬉しい言葉をかけられたのは生まれて初めてね」めぐみは微笑もうとした。顔の筋肉が上手くついてこなかったが、まさか年齢のせいではあるまい。「わたしもあなたのこと好きよ、市村さん。これまでずっと一緒にいて、なんて素直で優しい子なんだろうっていつも思っていたから。他人ひとの気持ちを直感的にとても深く理解できる優れた感性を持った優しい人間だと。きっと、あなたの旦那さんは世界一の幸せ者だわ」

「もったいないお言葉です、めぐみさん。もったいなさすぎる。とくにわたしの旦那なんかには」市村は恥ずかしそうに笑った。彼女の瞳はあくまで乾いている。涙の出し入れも自在らしい。自分なら既に感涙しているところだけれど、とめぐみは思った。

「めぐみさん。わたし、誰と結婚すると思いますか?」市村は悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねた。

「そういえば」めぐみは真顔に戻った。「よくそんないい出逢いがあったものよね。変則的な勤務時間の仕事をしていたのに。よっぽど理解のある彼氏さんなのね」

「歌舞伎町のホストです」

「ハッ?」

「素敵な反応ですね」市村は大声で手を叩いて笑った。「百点満点かも」

「冗談でしょう?」めぐみは頭の中で血が沸騰するような感覚を覚えた。

「そう思いますよね?」

「揶揄わないでよ」

「冗談じゃないです」

「嘘でしょう? ホストって、あの・・・・・・」

「襟足の長いパーマをかけた茶髪にピアスして、女みたいにがっつり化粧して、銀色のスーツをビシって着こなして、芸能事務所の社長でもなかなか思いつかないようなすさまじい名前を名乗って、眉をひそめたくなるような軽ーいノリでシャンパンタワーにお酒を注いで、店に来た女の子たちに調子のいいことを言ってその気にさせて、大金せしめてほくそ笑んでいる男のことです」

「そういう人と結婚するの?」

「まさに」市村ははっきりと答えた。とても自慢げに。

 めぐみはこの場に相応しい質問を何とか探した。「一つ訊いてもいい?」

「訊いて下さい」

「そういう旦那さんとどういうところで出逢うの?」

「決まってるでしょう、ホストクラブです。ほかにありますか?」市村はめぐみの動揺を面白がっている。

「そ、そうよね。じゃあ——」

「もちろん、わたしも通いましたよ。仕事が休みの日は一晩中歌舞伎町に入り浸っていました。彼にために、ここで働いていたようなものです。お給料は全部使ってしまっていましたし、貯金なんていまも一銭もありません」市村はニコニコと話した。「もちろん、わたしのお給料だけで彼をナンバーワンにしてやったなんて言いませんよ。そもそもそこまで高給取りでもないですから。きっと彼はほかに数え切れないくらいの女をたらし込んでここまでのし上がったはずです。でも、わたしは彼の心だけは掴んで離しませんでした。だからこうして薬指に指輪があるんです。この指輪、百五十万円するんですよ」

「市村さんに、そんな才能が」

「意外でしたか?」そんな風に話しながらも彼女はあくまでめぐみが知っている市村恋のままだ。のんびりとした口調で、とても穏やかにものを話す。その姿が少しばかり遠い存在に感じ始めただけのことだ。

「わたしは仕事とプライベートをきちんとメリハリつけて区別することはできる方なんです。ただ、昔から遊び方が派手なところがあって、なかなか直らなくって」市村は恥ずかしそうに両手をピタリと合わせて顎の下に添えた。そんな仕草も彼女ならよく似合っている。「でも、男を見る目はあるんです。出世する男を見極める目もありますし、その男を自分に振り向かせて、最後まで自分を裏切らせない技術もあります。ナンバーワンのホストをモノにできる女って、ある意味で超一流です」

「確かにそうかもしれない」めぐみは素直に言った。「あなたには何というか、すごく非凡なところがあるから。夢乃もそれはよく言っていたわ」

「お二人に褒めていただけるのがわたし、何より嬉しいです」市村は言った。「自信になります。この先の結婚生活も絶対に上手くやっていけるっていう自信が」

 めぐみは椅子から腰を浮かせて市村に歩み寄った。市村もめぐみの意図を察して立ち上がった。二人は抱擁を交わした。

「あなたは幸せになる資格があるわ。それも、とびっきり幸せな花嫁さんになれる。こんなに可愛らしいんだもの、いろんな意味で」めぐみは耳元で囁いた。本心だった。

「ありがとうございます」市村はめぐみの背中に両手を回した。力強い抱擁に変わった。おかげでめぐみは頭が逆上のぼせていくのを感じた。市村は言葉を噛みしめるようにして続けた。「・・・・・・めぐみさんに出会えて本当に良かったです」

(こんな風に生きられたら)

 めぐみは二十六歳の後輩の温もりを感じながらそんなことを思わずにいられなかった。幸せになれる人間というのは、そうなるべく日頃から不断の努力を地道に続けているが故に、自然と幸福を手にするものなのかもしれない。

(自分も、かつてはその努力をしているつもりだった)

 ふと、松田まことから離婚を告げられた朝のことを思い出した。来るべきときが来たのだと取り乱すこともなく夫の言葉を受け入れたときの、自分の心の凍えるような冷たさを。

 抱擁が終わり、握手を交わす。しかし市村はなかなかその手を離そうとしない。

「めぐみさん」市村の眼差しはとても真剣なものに変わった。仕事をしているときでさえ見せないような目つきだ。

「うん?」めぐみは困惑した。次に出てくる言葉を、自然と恐れた。

 市村は静かな口調で言った。「めぐみさんに忠告しておくことがあります」

「あなたの先輩が頼りないのはいまに始まった話ではないわ」

「そんな風に自虐的になるのはめぐみさんが、ご自分がどういう人間かをよく分かっているからです」

「どういう、ことかしら? ・・・・・・」

「めぐみさん」市村はようやく手を放し、一度間を置いてから、ひと息に言った。「あなたはたとえようもなく美しい女性です。すれ違う男が必ず二度ならず三度凝視するような美人です」

「急にどうしたの、そんなお世辞を・・・・・・」めぐみは恥ずかしがるよりも先に背筋が凍るのを感じた。市村は射るような視線をこちらに向けている。

「そしてあなたは自分がそんな類い稀な絶世の美女であることを自覚しています。だから謙遜をする。自分はいい歳だから、だから、若い子のようにはいかないから。そんな言葉をひと通り振りまいて自分をけむに巻いている」

「わたしはいい歳だし、だし、若い子のように器用には生きられないわ。その通りよ」

 市村は一度目を閉じた。その動作はこれから打ち明けることは本心だと訴えていた。いつかどうしても言わなければいけないとこれまでずっと心に秘めてきたことだと。市村は目を見開き、続けた。

「わたしはめぐみさんのことが大好きですし、ほとんどあらゆる面で尊敬していて、そして常々憧れていました。でも、あなたのその部分だけは好きになれませんでした」

「市村さん・・・・・・」めぐみはもはや抗弁できなかった。

「いいですか、めぐみさん」市村の声は段々と熱を帯びていく。「あなたこそ幸せになるべき人間なんです。あなたには当然その資格があります。初めて会ったとき、なんて清らかで綺麗な人だろうと思いました。それからこうしてそばで仕事をしながら同じ数だけ一緒に歳を重ねるにつれて、あなたの美しさは神秘的に増していきました。女性であれば必ず嫉妬するレベルにです。もちろんわたしだって女です。盛大に嫉妬しましたよ。あなたのようになりたい、でもとてもなれないだろうなと。いまでは、ちょっと尋常でない領域にあなたはいます。それなのに、あなたは自分を卑下している。独身で、周りに男がいなくて、誰も自分に誘いをかけてこない、自分は寂しい女だと思い込んで、そんなどうでもいい理想像に自分で自分を誘導している。はたで見ていてとても腹立たしかったです。こんなことを言えば世間から大批判を浴びそうですが、わたしは美しい女こそ幸せになれるべきだとずっと考えて生きてきました。それが女が女である所以だとわたしは本気で思っているからです。もしそうでなければ、綺麗になりたい、可愛くなりたいと誰が心から思いますか? 綺麗になればイイ男が寄ってくる、それだけの動機で女は自分を磨くんです。それなのに、あなたは何もしなくてもとびっきりの美しさを手に入れ、それを悠然と身にまとっている。羨ましさを通り越して妬ましいほどに。にも拘わらず幸せになろうとしない。幸せになりたいとまるで思っていない。真夜中に仕事をして、女を求めて男が街を彷徨うろつく時間に家で一人きりでベッドにいる。そしていま、結婚して先に仕事を辞めていく後輩をこうして恨めしそうに見送ろうとしています」

「待って、市村さん。わたしそんなつもりじゃ——」

「分かっています」市村はめぐみの言葉を遮った。「めぐみさんはもちろん、そんな悪い人ではありません。それはよく分かっています。でも、あなたの本心に触れないわけにはいかないんです。ご自分が幸せになることから目を背けているあなたを見ているとわたしはつらくて悔しくて仕方ないんです。はっきりと別の言い方をしますね。めぐみさんに幸せになって欲しいんです。めぐみさんと出会う以前に、あなたにどんなことがあったのか、わたしはほとんど何も知りません。きっとひどいこともたくさん経験されたんだと思います。離婚して、別に子供がいるわけでもないのに、旧姓に戻さずに別れた旦那さんの苗字をいまも名乗っていることにも、わたしなんかにはとても想像もつかないようなつらくて悲しい理由があるんだと思います。でも、それでも、ホストを思い通りに落としてぬか喜びをしているわたしのような小娘なんかより、あなたはずっとずっと幸せになるべきなんです!」

 最後のひと言を市村はほとんど叫ぶように言った。それから右手の甲で順番に目元を拭った。めぐみはそんな彼女の仕草を、ただ呆然と眺めていた。まさか後輩にこんな風になじられるとは。

(彼女のように生きられたなら)

 もう一度、性懲りもなく同じことを心の中で呟いた。しかしその言葉が意味するところは、いまでは少し違う。

 涙を拭い、再び口を開いた市村の声に、もう責めるような口調はなかった。めぐみの後輩はいつもの健気さで語りかけた。

「めぐみさん」

「うん?」

「またいつもの占いをしてあげますね」

「あなたの占いはよく当たるから怖いのよ」

「そうでしょう? でも、それもこれが最後です」

「じゃあ、心して聞かなければいけないわね」

 市村はまためぐみの手を取った。掌を広げてそこに自分の掌を重ねるようにした。市村の左手薬指が眩しい輝きを放っている。めぐみが顔を上げると、後輩の笑顔が目の前にある。その瞳に吸い込まれるようにめぐみは市村を見つめた。

「近々、あなたに良縁がありますよ」

 市村恋はそう告げて片目だけで軽やかにウィンクをした。周囲の世界がとろけてしまうような、それはそれは素敵な仕草だった。

「ありがとう」めぐみは微笑んだ。今日ようやく初めて自然に笑うことができたかもしれない。「愉しみに待ってみるわ」

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