梓
秦鴻太朗
1 郵便ポスト
長野の山間に小さな、とても美しい村があり、そこに奇妙な郵便ポストが立っている。
村は南北に長く、全体が標高千メートルの高地にあり、周囲を険しい山々に囲まれている。村民の多くは農家だが、村の近くに豊かな水脈があり、ダムを備え、水力発電により都市部に電気を送っているために、小村にしては豊かな財政を抱えている。こぢんまりとした村役場が集落の中心にあり、村政はかつて県議会議長を務めたという四十代の若い村長と五人の代表議員が担っており、当初予算は毎年滞りなく成立し、過去十五年にわたって大幅な財政黒字を維持している。七年前に東京の新興企業が太陽光発電事業をこの村に持ち込もうと考えたとき、村民の誰もが彼らを相手せず、
「不要である」
とにべもなく突っぱね、半ば詐欺師のようなやり口で山林の土地を取得した企業の担当者たちを憤慨させ、ついには環境調査のための予備測量すら着手させずに撤退させたというほどに住民自治の意識が成熟している。それも村の年寄りたちが先頭に立って追い返したというから世間の常識からすれば驚くほかないが、村民を一致団結させるほどに村そのものが持つ自然美が群を抜いているという証左かもしれない。三年前、この村の出身者が入閣し財務大臣に就いたが、村民たちは大して驚きもしなかった。ほかの小さな町村であればそれこそお祭り騒ぎになってもおかしくない話題のはずだが、静かに誇りに思う程度がこの村ではちょうどいいらしい。
村には七百人余りが暮らし、小学校と中学校があり、農協と郵便局と地銀の出張所があり、温泉を引いた公衆浴場と食堂とスーパーがあり、診療所と薬局があり、地場企業が三つあり、自動車整備工場が一つある。村営のバスが一番近くの大学病院の分院との間を往復しているから、それを別にすれば生活圏としては充分に独立している。
ともに小学校へ上がった。中学校も同様だ。学年には自分たち二人しかおらず、朝礼で周りを見回しても生徒は十人程度しかいない。校長も教員もPTAの役員たちも、皆彼らの試験の成績や通信簿の内容の隅々まで知っていた。めぐみは国語と社会科目がよくでき、穂高は算数(数学)が得意だった。運動会の駆けっこでは穂高が速かったが、彼と同じ学年で競い合う相手はめぐみのほかにいないのだから当然かもしれない。そういう環境で二人は育ち、すくすくと高校生になった。
高校は村外に通う。朝、同じバスに一緒に乗り、通学する。
思春期を迎えても、二人の関係がぎくしゃくすることはなかった。むしろ親密だった。同級生たちは彼らを盛んと揶揄ったが、二人は恥ずかしがることはあっても別に不愉快に思ったりはしなかった。村外の同世代たちと交流する新しい環境に戸惑うとき、相談相手はいつもそばにいた。勉強のことも課外活動のことも、何でも話し合い、互いに助け合うことができた。穂高はめぐみが好きだった。しかし思いの丈を告白するには、二人は近すぎる距離のもとで長く過ごしすぎていた。それにめぐみも穂高の気持ちは理解していた。隠すのはそもそも無理な相談というものだ。
話が前後するようだが、幼い時分から二人はよく探検をした。村の南の端から小高い山を一つ隔てたところにだだっ広い草原がある。白樺に覆われた林道を二十分ばかり歩いた先にある。林道は少し急な上り坂で、道幅は狭く、軽自動車が一台ようやく通り抜けられるほどしかない。森はよく整備されていて暗い印象はない。子供だけで山に入るのは危険なことではあるが、しかし村には二人を咎めるような人間はいなかった。子供は森で育つものだと言って二人の冒険心を積極的に支持する者さえいた。野鹿をよく見かけたが、熊と遭遇することは幸いにして一度もなかった。猟友会はまめに仕事をしていて、村にとって期待の星である二人に、森に近づいてはならない日時をよく教え含めた。白樺林のトンネルを抜けると、見晴るかす限り草原がどこまでも広がっている。
牧草地だが、牛や羊やそれらを世話する人の姿を目にすることはなかった。草は定期的に刈り込まれているようなのだが。林道は白い砂利道に変わり、草原をかき分けるように続いている。道幅は変わらない。軽自動車一台分。一対の轍が道を外れず真っ直ぐに走っているから、そこを通る者はいるのだろう。しかしすれ違ったことはない。一人の人間とも、一台の車とも。しばらく真っ直ぐ奥へ進むと、道は急に何かを思い立ったように直角に右へ曲がる。曲がった先をさらに進むと別の林道に通じていて、そこで草原は終わる。林道を下ると村へ戻ることができる。ほかにこの広大な場所を走る道はない。一本の折れ曲がった道、誰もいない草原、周囲をぐるりと囲う白樺林——郵便ポストはその曲がり角に立っている。
その不思議な場所をめぐみに教えたのは穂高だ。彼がまず見つけた。
二人は放課後になるとよくその場所を訪れた。ランドセルを背負い黄色い帽子を被っていた頃から、制服を着て革鞄を肩から提げるようになるまで。穂高が先導するように前を歩き、めぐみは彼の背中を追った。高校生になると穂高は自然とめぐみの右手を取った。誰もいない草原を並んで歩き、ポストのそばに並んで腰を下ろした。とても静かな場所だ。周りには誰一人いない。いるのはめぐみと穂高だけだ。トラクターやサイレンの音も聞こえない。聞こえるのは互いの声だけだ。夏になるとつばめが飛来して気持ち良さそうに滑空する様を眺めることができた。冬になれば一面が銀世界になった。二人はブーツを履いて、頭に雪の粒を載せてそこへ通った。真っ白に染まった草原では、目印になるのはぽつんと立つその郵便ポストだけだった。
「いったい誰がこのポストを開けて、手紙を集めているのだろう」
穂高はいつも同じ疑問を口にした。
別に特殊なポストではない。日本のどんな町にもどんな村にもある、あの赤い色をした差入れ口が一つの小さなポストだ。正式には郵便差出箱九号といったりする。所々色褪せてはいるが、錆びた部分はなく、まめに手入れがなされている。取集時刻の表示は定期的に新しい表記に改められているようだが、時刻自体はずっと変わっていない。日に二回開函することになっている。午前は十一時、午後は十六時だ。
「日に二回も」
穂高は自分自身が村の生まれでありながら、そのことに驚かないわけにはいかなかった。二人は何度もこの場所を訪れているが、郵便を取り集めに来る配達員を見かけたことは一度もなかった。
「でも、そんなことを言えば、こんな場所に手紙を投函する人なんているのかな」とめぐみは穂高に言ったりした。二人のこのやり取りはその後定番になった。
不思議だった。このポストが立つ草原は一本道の途中にあり、その両端はいずれも同じ村に通じている。ほかにどこへ行くこともできない。ポストの周りに何か特別な用事を済ませるものがあるわけでもない。というより郵便ポスト以外にここには何もない。わざわざここへやって来て、手紙を投函しなければならない理由は思い当たらない。取り集めをする郵便屋は、わざわざ林道を上ってここへ立ち寄り、ポストを開けて、郵便物を(もしあれば)回収し、林道を下って村へと戻っていくのだろう。その甲斐があるとは穂高には思えなかった。
村には郵便局が一つある。局長や窓口の局員をめぐみや穂高はよく知っている。彼らも二人をまるで我が子のように可愛がっていた。二人は一度彼らにその疑問をぶつけてみたが、村の局はいわゆる無集配特定郵便局で、配達員や郵便バイクはいなかった。配達員は村外にある別の郵便局からやって来るのだという。二人が見つけた草原に立つ郵便ポストの存在を局員たちは知らなかった。
「へえ、そんな場所にもちゃんとポストがあるんだねえ」
と局員たちは呑気に緑茶を啜りながら感慨深そうに言った。
二人は何度もそこへ通った。村の外からわざわざやって来る郵便屋がポストを開けるところを見てみたいと子供心に興味があったのだが、その瞬間はなかなか訪れなかった。二人が最後にその場所を訪れたのは高校二年生の二月、ちょうど節分の日の放課後で、あたりは前日に降った雪が一面に積もっていた。どこまでも真っ白に染まっていた。解けた雪に汚れを洗い流されたポストは午後の陽射しを浴びてキラキラと輝いていた。穂高は自分の通学鞄を雪の床に置き、めぐみをそこに座らせた。
「なあ、めぐみ」
「うん?」
「俺、高校を出たら郵便局員になるよ」
「本気?」めぐみは揶揄った。穂高の将来の夢はサッカー選手になることだと彼女は知っている。幼い頃からそれだけはずっと変わらなかったからだ。高校でようやくフルメンバーを組めるほどの数の同級生を得た穂高は、迷わずサッカー部に入部し、熱心にボールを追いかけていた。都会の大学に進学してサッカーを続けたいとよく言っていた。
「サッカー選手になるんじゃなかったの?」めぐみは指摘した。恋人の夢を邪魔するつもりはない。別にどんな夢であっても応援したい。しかしサッカー選手と郵便局員では随分違う。
「知りたいんだ。どうやってこのポストを開けているのかを」
「そんなの簡単じゃない。その穴に鍵を差し込んで、回して開けるんだよ。どんな鍵かは分からないけれど」めぐみはくすくすと笑いながらポストの前の扉についた銀色の鍵穴を指さした。
穂高は首を振った。「そうじゃなくてさ」彼はポストの側面に貼られた取集時刻表示板を指で弾いた。「どういう順序で、どういうルールで、このポストに辿り着くのか、彼らの仕事の実際が知りたいんだ。きっと
「それを知るために郵便局に就職するの?」
「そうだ」穂高は大真面目に頷いた。真剣な眼差しでポストを見下ろしている。めぐみは幼馴染みの横顔にしばらく見蕩れた。
「何だよ、俺の顔になんかついているのか?」熱心に自分を見つめ上げるめぐみの視線に気づいた穂高が照れくさそうに表情を崩した。
「ううん、何でもない」めぐみはさっとうつむいた。次に顔を上げたとき、彼女は頬を赤らめていた。「穂高って、格好いいね」
「いま頃気づいたのか?」
「うん。いま、気づいた」
「何だよ。お前、男を見る目がないよ」
「そうじゃなくて」めぐみは穂高の目を真っ直ぐ見て言った。「自分が感じた素朴な疑問の答えを突き詰めるために郵便局に就職しようだなんて言い出す穂高が、何だか格好いいなって」
「馬鹿にしているだろ?」
「そんなことないよ。それにいいじゃない、郵便局。堅い仕事って感じ」
「そう思うか?」
「うん」
めぐみが大きく頷いて見せると、穂高もうんうんと頷いた。郵便ポストの頭に右手を置き、差入れ口を覗き込むように顔を近づけ、息を吹きかけた。
「いったいどんな人がこれを開けているんだろうな」
彼は呟くように言った。
川岸穂高がその疑問に答えを得ることはなかった。彼はこのあと間もなく父親になるために村を離れた。美山めぐみもその一年後、やはり村を出た。それ以来、めぐみが生まれ育った故郷に戻ってくることはなかった。
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