第22話

side:北条紫純


「あ。ムラサキさんいたぁ」


 横合いから突然声をかけられ、うっかりスプーンに乗ったかき氷を地面に落とした。

 じわじわと滲みていったかと思ったら、この暑さのせいであっという間に乾いていく。何となくその様子を見ながらも、俺は頭を回転させ――もとい、空回りさせる。何かを考えようとはしているが、何を考えたらいいのかも分かっていない。

 困ったことに、さっき笠原が売店に行ってしまったせいで、ベンチの隣は空いていた。

 清佳さんは当然のように空いた場所に腰かけた。

 当然のようにと言うか、当然なんだが。一緒に来たんだし。

 視界の端に細い足が見える。


「全く姿見ないから、もしかして帰ったんじゃないかって疑ってたよ。ずっとここにいたの?」

「……や。まあ、色々見てた」

「何か面白いのあった?」

「小野寺さんが子供用プールで、子供に登られそうになって困っていた」

「それはちょっと面白いけど、そういうことじゃなくて……まあいいか。私、さっきまで祐希くんと咲坂くんとスライダー滑ってたんだけど、面白かったよ~。高くからぐるぐる回りながら落ちるから思いの外長いし、結構勢いあるし、空は青いし」


 遠目だけれど見ていた。楽しんでいそうで良かった。


「祐希と咲坂は?」

「次は流れるプール行きたいね~って、浮き輪とか、あのいかだみたいな奴……フロート? のレンタルしてる。私はちょっとお腹減ったからこれ……フライドポテト」


 容器ごとこちらに差し出してくる。


「食べる?」

「いや。大丈夫」

「そっか」


 容器が引っ込んだ。

 しばしの無言。

 前方では多くの人が行き交っているし、このベンチの周囲も、同じく休憩に来た人で賑わっている。他にもいくつかベンチが並んでいるが、どこもほとんど埋まっているくらいだ。

 それなのに、妙に静かに感じた。


「……」

「……」

「あのさ……」

「ん」

「今日、全くこっちを見ないね、ムラサキさん……」

「……」


 気づかないでほしかった。


「ちょっとぉ、それウチのツレなんで。ちょっかいかけないでもらえますか~」

「えっあっすみませ、いやすまなくないわ。光さんか……」

「俺だからってあからさまにどうでも良さそうにすんじゃねえよ。そこ俺の席だし。どけ」

「え~。一瞬譲ってください。他座るとこないし、私もムラサキさんと話したいし」

「紫純にお前の方から近づくなつったろ~。忘れたんか」

「あ。……いやでも、あんな野良猫に対するみたいな諸注意聞いてられませんよ」

「野良猫……?」


 俺がいない場所で何の話をしてるんだ、お前ら。笠原のことだから、どうせろくなことを言っていないんだろうが。

 まあ、ちょうどいい。

 このまま清佳さんといるとぼろが出そうだったので、かき氷を無理やり流し込み、頭痛に耐えつつ立ち上がる。


「じゃあ、俺がどく。ごゆっくり」

「何でだよ」

「ムラサキさんは行っちゃだめだよ」

「清佳さんまで……」

「ここで逃がしたら帰る時まで会えなくなる気がしたから……。せっかく一緒に来たんだし、この後一緒に遊ばない? 流れるプールでだらだらするだけだけど」


 抗いがたい誘惑と、下心を隠したい見栄が戦う。

 あっさり見栄が負けた。


「……遊ぶ」

「光さんも来ます?」

「何でちょっと嫌そうなんだよ。行くに決まってんでしょうが」

「冗談冗談」


 座り直しつつ、遊ぶならずっと目をそらし続けている訳にもいかないと、そっと横目に清佳さんを見た。

 遠目に何度か見てはいたし、自分で言うのも何だが、俺は別に初心な方ではない。慣れているとまでは言わないが、その手の経験は皆無ではない。それに、絵画においてヌードは定番のテーマだ。洋の東西を問わず、女性の裸体を描いた名画は無数に存在している。

 だが、胸元の肌が視界に入った瞬間、かき氷の容器が手の中で潰れた。

 そこってそんな出ていていいんだったか。


「あ、咲坂くんと祐希くん終わったっぽいんで、声かけてきます。……先輩とも一緒に遊びたいんだけどなぁ。どこいるんだあの人。大きいくせに見つからん」

「行ってら~」

「ムラサキさん、ついでにそれ捨ててくるよ」


 潰れた容器を取られる拍子に、指が触れた。

 普段はさして気にもしないような一瞬が、やけに胸を引っかく。

 思わず両手で顔を覆ってため息をついた。


「かわいい……足細ぇ……」

「……紫純、悪い。さすがに面白いわ」

「いいよ笑え。今日はもう俺はだめだ」

「アハハハハハハ!」


 笑われるが止める気力がない。

 手を外して目を向けると、浮き輪とフロートを抱えた二人に話しかけている姿が見える。

 水着姿――もかわいいが。

 ずっと陰のない笑顔を見たいと思っていた。今清佳さんが浮かべている表情は、まさにそれだ。あどけない笑みが日差しの下で輝いている。

 ここに来る途中の電車でもずっとそわそわしていて、遠足中の子供のようだった。本当にかわいかった。

 今までは一歩引いた場所にいることが多かったが、あれは彼女の性格ではなく、理事長のスパイという役割から来ていた態度だったらしい。素は思っていた以上に人懐っこい。かわいい。


「かわいいしか考えられない」

「フハッ……これ以上笑かさないでくれねえ? お前この後あいつと遊ぶんじゃないの。ずっと見惚れてたらさすがのサヤちゃんも「何なのこの人?」ってなるぞ」

「どうしような」

「あの~いきなり冷たい水に入って体がびっくりしないように、プール入る前に体に水かける奴、あるだろ。あんな感じでちょっとずつ慣らしていけば? まずは褒めるところから」

「まずは、のハードルが高くないか」

「かわいいしか考えられないならいいだろ。あとは口に出すだけだ」


 それは確か……に?

 清佳さんが咲坂と祐希を連れて戻ってきた。咲坂がフライドポテトをくわえているのにやや苛立つが、拒んだのは自分なので何も言えない。

 流れるプールに近場から入る。

 清佳さんは浮き輪に引っかかって漂っている。

 咲坂と祐希が泳いでどこかに行った隙をついて、そっと近づいた。


「……清佳さん」

「ん~?」

「水着が……よくお似合いです」

「えっあぁうん、どうもありがとうございます……今?」


 後ろで吹き出す声が聞こえる。あとで殴ろうと思ったが、清佳さんの顔に浮かんだのんびりとした笑みでどうでも良くなった。


「こんなお腹出てる水着、正直恥ずかしかったんだけど、やっぱり褒めてもらえると嬉しいねー……。みんなもあれ……水も滴る何とやら? 心なしかいつもよりかっこよく見えるよ」

「今日は俺には冗談を言わないでくれ。全部真に受ける」

「ハハ。いや分かる。直肌はねぇ。やっぱりちょっと気分違うよね」

「じかはだ」

「……。てい!」

「な、何だ! 触るな!」

「いややっぱりいきなり触られたら普通そうなるよねぇ! 咲坂くんにさっき童貞ってばかにされてさー」

「どっ……何で!?」

「アッハハハハハハ!」


 恋、すごいな。ばかになる。

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