彼の梅雨

第15話

彼の梅雨


 マイディアこと紫純は、見た目からは内心が分かりにくい人間だ。ただあれは単純な話で、要は表情の変化が小さいから分かりにくい、というだけ。慣れてくると分かるようになる。

 だが、共犯者である秀人の分かりにくさは、違う。

 こっちは一見、のんびりとして優しそうで、話す内容もおおむね穏当。友人に対しては若干毒舌気味と言うか、粗雑に扱うようになってくるが、まあ誰だって気やすい相手にはそんなもんだろうという程度。難解さのない人間――に見える。

 その内実、秀人の行動は時々、跳ねる。


「敬司が前に、つまらない奴を殴るとすっきりする、って言っていて」

「あいつは血の気が多いねぇ。何が楽しいんだかな~。女と遊ぶ方がいいと思うんだけど」

「僕も何が楽しいんだろうと思っていたんだけど。最近、あの子を見ていると、鬱陶しくて仕方がなくなることがあるんだよね。殴るか、何か、酷い目に遭わせたら、すっきりできそうな気がするんだけど、できないかな」


 単なる雑談だと思っていたから、話の成り行きに戸惑った。

 雑誌から目を上げて向かいのソファにある顔を見ると、つまらなさそうな顔をしている。明るい顔とは言えないが、とは言え、暴力沙汰の実行について話すような顔でもない。「明日、雨なんだって」くらいの顔だ。


「えぇと……四月馬鹿は終わったけど」

「本気だよ」

「……本気なら、こんな、リビングで話すことではねぇだろ~。人は今のところいないけど、通りがかるかも知れねぇし」


 休日の昼。いつ誰が下りてきても不思議ではない。


「そうだね。盗聴器も仕掛けてあった」

「は?」

「とりあえずリビングとダイニングで見つけた分に関しては厚めの布で覆ってあるけど、どの程度聞こえなくなるものなのかは、よく分からない。それに建物全体を調べたのではないから、もしかすると、他の部屋にも仕掛けられているのかも知れない」

「い?」

「どこで話しても変わらないってこと。もし聞かれたとしても、それはそれで、行動の抑制にはなるだろうしね」


 さっきごそごそと何かしていたのは、それだったのか。分かったからと言って、すぐに納得のいくものではないが、こういう時に嘘を言う奴ではない。そもそも冗談を言うところを見たことがない。

 仕掛けたのは誰か、何のためか、という問いかけをしたくなったが、意味がねぇなと思って止めた。聞くまでもない。


「……あいつ以外に聞かれたって、困るだろ」

「敬司も祐希も今日は出かけてる。北条くんは、あんまり下りて来ないし、大丈夫じゃないかな。たぶんだけどね」

「なるほどね、了解……。まあいいわ。で、酷い目に遭わせたいって? まず――何で?」


 立場上の敵ではあるが、嫌悪憎悪はまた別の話だ。

 俺はああいう真面目でいい子で遊びのない女は嫌いだが、殴りたいとはそんなに思わない。秀人はそもそも、好き嫌いを言う程には人に興味がないという印象だ。敬司と祐希だけが例外。

 俺の見てないところで、余程のことがあったんだろうか。


「さあ、何でだろう。気に食わないんだよね、とにかく」

「何でだろうって……」


 俺は、善人ではない。気に食わないから殴る、という程度の動機もあるだろうと思うし、止める気もそんなにない。

 それが秀人の言うことでなければ。


「理由がなくっちゃ人を殴っちゃいけない、とは言わないけど。何か……何かあったんじゃねえの? 秀人くんらしくもな~い」

「君は僕の何を知ってるの。僕は結構、衝動的な人間だよ」

「衝動的って言うか」


 何と言ったらいいか分からないが、これを衝動的と言うのは違う気がする。今のところ冷静にしか見えない。頭に血が上っている雰囲気はない。淡々と、人を、一つとは言え年下の、たぶん暴力沙汰には縁のない女を、殴りたいと言っている。

 秀人以外の知り合いに、こういう奴がいないでもないんだけど、そいつは仲間内でもだいぶヤバい奴という扱いをされている。普段は悪い奴でもないのに、時々ふっと人が変わったようにキレる。加減を知らず、後先見ず、相手を殺しかねない冷徹さで追い詰める。人間って言うよりは、妖怪みたいな奴だ。


「衝動にしたって、きっかけか理由はあんだろ。肩がぶつかったとか、気に入らねぇこと言われた、とかさ~」


 性格について話すような空気でもないので、しつこいかと思いつつ、もう一度動機を尋ねた。秀人はやっぱり腹を立てているとは思えない、あっさりとした調子で言う。


「しいて言えば、祐希と敬司が懐きかけているのが、嫌かな。今まで僕が言っても聞かなかったくせに、あの子の言うことは聞いてる雰囲気があるし」


 あの二人関連か。いつもこの調子だから何となくスルーしてしまいがちだが、あの二人への執着も、中々度を過ぎている。普通、いくら大切でも、友達のために犯罪はやらない。つまり俺も普通ではないんだけどね。

 注意やらを聞かないことに関しては、あいつのせいというだけでなく、秀人があの二人に甘すぎるせいもあると思う。家出先を提供したり、親と連絡取らなくても済むように、保護者に近況報告したり。手をかけ過ぎだ。それのせいで、信頼が過ぎて、なめられている。その安心や庇護が必要だった時期も、あったのかも知れないけど。


「祐希と敬司が立ち直るのは良いことだけど――やり方もだいぶ強引だし。仮に二人がここを出ていった後に上手くいかなくなっても、責任を取るつもりもないくせにね。いい子ぶって正論っぽいような自分の意見を振りかざして。ただ理事長から言われて僕らを探りに来ただけの人間に、中途半端な関わり方をしないでほしいよ」


 全然「しいて言えば」じゃない。

 それだけで殴る程に嫌うってのはやっぱり少し釈然とはしなかったが、ひとまず、理解はした。誰にでも、触れられたくない場所や、言われたくない言葉がある。あの二人の面倒を見てはいるが、実のところ秀人も、安定はしていない。面倒を見られた方がいい側だ。

 俺もそうだから、もちつもたれつ。今回は俺が支える側。


「分かった分かった。たださ~、殴るってのはリスキーだろ。第三者に見られたら弁解の余地ねぇし、ばっちり体に証拠も残る。しかも俺らは理事長へのカウンターは持ってても、あいつ個人へのカウンターは持ってないんだから、チクられたら終わりだって」

「盗聴じゃカウンターにはならないかな」

「盗聴は犯罪にはならない。倫理的にどうかってだけで。抑止力になるかは……五分五分?」

「じゃあ、君の友達に、リンチが得意な人はいないの?」


 リンチつったなこいつ。本当に、どういう感情で言っているのか分からない。今ここで「冗談」って言われたら、そういうこともあるかと納得できてしまう気がする。


「いない……こともねぇけど。世間様には隠せても、紫純と祐希と敬司には隠せないだろ。さすがに、一緒に住んでるんじゃあな。学校もあるし。いや、夏休みとか、いなくなっても不自然じゃない時に、本格的に数日間拉致る感じになる……か? 分かりませんけどねぇ」

「……難しいか」

「殴るだけ、酷い目遭わせるだけ、ならできるけど~、それを隠すってなると難しいだろうな。隠さずに、理由話してあの三人に飲み込ませるってのも、相手が女じゃあ厳しい」


 あと、今あいつに出ていかれると、炊事掃除面倒臭い問題が戻ってくる。


「しかも盗聴、あいつがやったって確固たる証拠はないよな?」

「そう、だね。残念ながら。今のところ共用スペースにしかないし、設置している場面は見ていない。指紋はさすがに取ってない。取る?」

「まあそこまでしなくていいだろ。あの三人には悪いけど、一旦泳がせておかねぇ? ぼろ出すかも。この会話聞かれたらしょうがねぇけど」

「そうだね。じゃあ盗聴器の方は元通りにしておくよ」

「あいつへの苛立ちの方は、まあ……」


 本気には違いないんだろうが、どこまで真面目に取り組むんだものか。俺自身はあいつに対して、今のところは「苦手な女」以上の感情がないのもあって、協力にも今ひとつ身が入らない。

 何かしらあったら、やろうという気になるかも知れないが。


「せめて、リスクのできるだけない方法を思いつくまでは、我慢してもらうしかないかねぇ。俺も方法は考えてはみるけれども~、どの道、いつかは追い出すことにはなるだろうし。やるとしても、嫌がらせ程度で。盗聴されたなら盗撮で返すとかさ」


 秀人は「そうだね。今はこらえておくよ」と、やっぱり平坦に言った。



「やっぱりいらないです。母親ではないので」


 そんでまあ、何かしらが、あった。


「よく一個下の後輩のこと、母親とか言えますね。あまつさえ母の日にテディベアとか、貰い物だとしても……貰い物だからこそでもありますが、気持ち悪い、です。正直。私が光さんのこと好きだったとしても引くレベルですよ、それ」

「ハハ。本気で引いてる顔」

「そりゃそうですよ。先々月に知り合ったばかりの知人を、冗談だとしても母親扱いって、かなり……かなり気持ち悪いですよ。自覚ないんですか?」


 自覚があったらやらねぇよ、という言葉を飲み込んで、軽蔑のこもった視線を見返す。カメラ入りのテディベアを渡せないということよりも、その視線が面白くない。一応笑っておくが、内心には雷混じりの大雨が降っている。

 どうせ俺より幸福な人生なんだから、ちょっとくらいその優しさを俺に分けてくれたっていいだろうに。

 どうせお前だって悪者のくせに、正義漢面してこっちばっか責めんじゃねえよ。

 俺はお前の、そういうところが、大嫌い。

 他にも、雨だれのようにいくつか、ささいだが苛立つ摩擦があった。秀人の提案に引いていた俺もじきに、脅かすくらいはいいか、という気持ちになって。結局、追い出すついでに泣かせたいのだか、泣かせるついでに追い出したいのだか、自分たちでも不明瞭な計画がスタートした。

 そして、春から夏へ変わるその境目。

 雨空の鬱陶しさや迫りくる熱の気配に倦みながら、俺たちはだらだらと話す。


「止まない雨はないって慣用句があるけど、実際こう雨が続いている時にあらためて考えてみると、あんまり励まされない言葉だね。耐えるしかないんだなぁ」

「そうねぇ……。それに、我ながらつまらねぇこと言うけど、止まない雨はなくても、終わらない不幸はあるかも知れないわよね~。欺瞞よね~」

「その慣用句の派生で、傘を差すとか虹が出るとか言う人もいるけれど。そんなごまかしを言っている暇があるなら、今降っているこの雨を止める方法を考えてほしいよ。部屋干ししてる洗濯物が乾かない」

「はは。分かる~」


 洗濯物はともかく、いつもの俺であったなら同意しない考えだ。

 どうしようもない現実を、変えることができるとは限らない。

 変えることができるのだとしても、そんな現実に立ち向かうことができる人間ばかりではない。

 だから、信仰しかり、芸術しかり、現実それ自体を動かす以外の対処を、人間は必要としてきた。俺もそうだ。変えようのない現実を前にして、幾度となく、現実にありながらも現実を遠ざけるような美しさに救われた。

 秀人が「ごまかし」と言うその言葉だって救済の一つ。そう、うとむものじゃない。

 ただ、あんまりにも長く続く雨のせいで、その時は冷え切っていた。


「ま、俺らは粛々と、できることをするとしましょうや」

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