本編の補筆

彼の春

第14話

彼の春


 人嫌いではないが、人好きでもない。

 どうでもいい。

 他人に対して思考を巡らす時間があるなら、絵を見て、その技巧を学び、自分の手で再現できるように研鑽を積む方がいい。

 今振り返ると恥ずかしいが、ずっとそういう考えで生きてきた。

 嫌いではないが、人付き合いが苦手である自覚はあった。人は意識的にも無意識的にも、その身体で様々な表現をしているが、どうやら俺は、無意味なものまで含め、それを一々受け取ってしまう性質らしい。他人といると、色々な感情や思考に翻弄されて、とても疲れる。それが悪い感情だったりすればなおさらだ。

 苦手だから避けた。改善の意気込みなど一切わかなかった。幸い、絵を通して、人として自尊心を得るのに充分なだけの人付き合いは保つことができた。

 絵を描けなくなったことで、その思想はより強固になった。人付き合いよりも、絵を描く時間の方が大切だと思った。

 それが余計に目を曇らせることになることには気づかずに、必要のない人間と親しく付き合う余裕などないと、俺は自分の内側に閉じこもっていた。


「清佳さん、何を?」

「咲坂くんを……見送ってた」


 彼女にそう声をかけたのも、幽霊のように玄関にいるのに驚いて、思わず声をかけてしまっただけだ。気づかいや優しさではなかった。

 むしろ、余計なことをしたと、やや後悔したくらいだ。

 彼女はどちらかと言えば、苦手な類の人間だった。何かした覚えはないのに、良くも悪くも俺を特別扱いして遠巻きにする人間がたまにいるが、彼女はそれだった。家政婦という役割のためか、食事時には律儀に四階のアトリエまで呼びには来るものの、いつもその声は怯えた調子だ。

 俺も小野寺さんと会って、よく分からないが近づきにくい、という感情を自分でも感じたから、怯えられること自体は構わない。

 だが――怯えられているのなら、あえて脅かすこともない。異性でもある。距離を置いておかれるくらいの方が、彼女も気楽だろう。

 そう理屈をつけて、彼女との関わりを俺は早々に放棄していた。

 それ以上会話が続くとも思っていなかった。


「ムラサキさん、咲坂くんって、いつも夜にどこ行ってるのか、知ってる?」


 だが、意外にもこの時の彼女は怯えた調子もなく、気さくな雰囲気で話を続けた。


「何故、俺に聞く」


 理由なく遠巻きする人間も苦手だが、理由なく親しくしてくる人間にも良い思い出はない。笠原とかまさにそれだ。うっすらと警戒しつつ尋ねると、彼女は苦笑しつつ答えた。


「今ちょうど来たからって言うのもあるけど。私以外だと、咲坂くんと同い年なの、ムラサキさんだけだから。何か知らないかなって」


 割とどうでもいい理由だった。


「同い年だからと言って、知っているとは限らない」

「うん。まあ、正直何となく。失礼しました」

「構わないが」


 拍子抜けしてから、遅れてじわじわと可笑しくなる。

 基本的に俺はアトリエにいるので、同い年であっても咲坂についてはよく知らない。食事の場や学校で見かける姿から思うところはあるが、彼女の問いに答えられるだけの情報は持たない。それは彼女も薄々分かっているだろうに。

 しかも、いつも怯えているくせに。一体どういう風の吹き回しだろうと、ほんの少しだけ興味を持った。

 どうせ息抜きに軽食を取りに来たところでもあったので、俺は気まぐれに、清佳さんに自分の知っていることを伝えた。

 大したことはない、とっくに彼女も知っていそうな、ささいな情報だ。


「ありがとう、ムラサキさん。助かる」


 けれど、彼女はお世辞でもなさそうに言って笑った。

 会釈して別れ、軽食を探して冷蔵庫を見ながら、俺はその笑みと声を反芻した。

 まっすぐで明るく素直な雰囲気だったのに、不思議と残っているのは、泣きそうだという印象だった。

 もしかすると、見た目以上に困っていたのかも知れないが、よく知らないからそれも分からない。

 第一、困っていたとしても、俺が助ける義理はない。俺が助けてほしいくらいなのに、他人を助けてなどいられない。

 そう思いながら俺は、途方に暮れたような立ち姿と、その顔に浮かんだ笑みを、記憶した。

 あとから知ったことだが、彼女はその時咲坂と揉めていて、その解決の糸口を探っていたらしい。結局その揉め事については、中々大胆なやり方で、彼女が勝利を収めた。ただ真面目なだけに見えて、意外に面白い人だと、俺は感心した。

 その後も、わがままを言うことが減った祐希や、彼女に話しかけようとして止める咲坂などの住人たちの様子、食事時の呼びかけや一言二言程度の挨拶、同じ家、教室で過ごす時間の中で、俺は自然と檜原清佳を知っていった。

 彼女はやはり何故か俺を恐れる類の人間で、話す時にはいつも少し緊張していたが、それだけの人間ではなかった。恐れる割には、何でもない話題でよく話しかけてきた。

 どうやら、彼女は他人と一緒にいることで、安心を得たいらしかった。一言で言えばさびしがり。一見するとしっかりしているように見えるが、話していると、芯のところにある心もとなさが伝わってくる。俺に話しかけてくるのも、俺を遠ざけるより、自分の孤独を埋めたい欲が勝ったから。

 こちらの邪魔にはならないように、という遠慮深さは伝わってきたから、悪い気もしなかった。助けないまでも気にかけるようになるまで、そう時間はかからなかった。


「俺、あの子のこときらぁい」


 ただ、決定的に彼女に興味を持ったのは、笠原のこの言葉を聞いた時かも知れない。

 笠原が嫌いだと言う人間は、大抵、良い人間だ。こいつは素直さや善良さを持つ人間を愛しているが、そういう人間が周囲に食い物にされている場面を見ると辛くなるから、先手を打って善良な人間は嫌いだと思い込むことで、胸糞悪い場面を回避する癖がある。

 その癖を頑なに認めようとしないせいで、愛している人間を自分で攻撃することもあるのが、困った点ではある。


「どこが嫌いなんだ」


 アトリエではなく、わざわざ部屋まで訪ねて来てまで愚痴られたので、画集を見ながら一応相づちを打ってやる。笠原はベッドに倒れ込んだ。


「……真面目すぎ生意気。くそ、もっともらしいこと言いやがってよー……」


 笠原が言いたがらなかったので詳しい内容は聞けなかったが、笠原の言い分では、どうやら彼女は、会って精々一か月程度の人間に言うにしては、かなりクリティカルなことを言ったらしい。

 だらだらと、要領を得ない愚痴は続いた。


「わざわざ言われなくても、気持ち悪いことくらい自覚してるしぃ」

「自覚しているなら直せ」

「紫純までそういうこと言う……。直せたら苦労してねぇんだよ。ほんっと二年生共かわいくねー。何、今どきの子どもって上下関係は教わらねぇの?」

「上下関係は、下の努力だけでは成り立たないだろう。年上らしく扱われたいのなら、年上らしい威厳を持て。……それに、清佳さんは本来、上下関係を重視する方だと思う。見る限り」

「だぁからもっともらしいこと言うんじゃねえよ。慰めてもらいに来てるのに~。面白くねぇなもう」


 笠原にとっては面白くないだろうが、俺にとっては痛快事だった。

 長い付き合いだから、俺も、笠原に対して色々と思うことはある。だが、口をつぐまざるを得ない場面が多い。良くも悪くも俺はこいつの人生を変えてしまった。絵描きとマネージャー、期待される者と期待する者、友人とは言いにくい関係のままで、今まで来てしまった。

 たまに、笠原は俺といない方がいいのではないかと思うこともある。

 だから笠原に、笠原が嫌うような知人が増えたことは、純粋に喜ばしかった。できれば、彼女が何かを変えてくれないかと、うっすら期待までした。

 どうせこいつは、この期に及んで、怪しげなテディベアを勝手にアトリエに置いて帰るような奴だ。多少のストレスはあった方がいい。

 ただ、俺は彼女について、一つ大きな思い違いをしていた。

 それが分かったのはまたも夜中。過集中の後、まだ思考の渦から戻り切れずに、精神の均衡を崩していた時だった。

 長く、入り組んだ夢から目覚めた後のようなしんどさの中。彼女の労るような声は脳髄に沁みた。彼女は俺をダイニングに連れて行った後も、部屋に戻らずに、何くれとなく話しかけてきた。返事がなくてもめげずに。親身に。


「そもそも、アトリエにいる時……特に絵を描いている時って、声をかけていいものなのかな。集中してると邪魔かも、とか思って、声小さめにしてたんだけど。中入って、肩揺らすまでした方がいい?」


 そして、食事時にアトリエに呼びに来る際、妙に怯えた風にしていた理由が、呆気なく分かった。

 必ずしもそれだけではないだろう。慣れたのか、遠巻きにすることはなくなっているが、俺と相対する時に空気に漂うわずかな緊張は相変わらず。加えて、最近分かってきたが、彼女は俺以外に対しても後ろめたそうな視線を向けていることがある。彼女は何か隠し事をしている。

 ただ、悪意はない――ように見える。


「じゃあ……あぁ。さっきムラサキさん、緑色について話してくれたけど。ああいうの、普段から考えてるの?」

「考えてはいない。覚えているだけ」

「ふーん。すごい」

「……すごくはない。覚えるだけなら、誰にでもできる」

「覚えているだけでもすごいと思うよ。知識があったら、思考も広がるだろうし」

「そこが――俺は上手くない」

「ううん……。ムラサキさんが見ている景色、私とは全然違いそうで、羨ましいけどな。同じ赤を見ても、思いつくことが違うと言うか。何かあるよね。自分が見ている赤と、他人が見ている赤は、本当に同じ赤なのか、みたいな話」

「それは……恐らく、違う話だ。清佳さんが、持っている知識によって、連想するものが異なる、という話をしたいのなら」

「ハハ。知ったかぶりバレた。あれどういう話だっけ?」

「色そのものと言うより、人間の意識に関する話だったと思う。哲学は専門ではないから、詳しくは知らない。俺は、赤は赤だと思う。およそ六五〇から七七〇ナノメートルの間」

「何の数字?」


 疲れで普段よりも気が緩んでいたこともあったが、笠原にしか言わないような冗談をうっかり言ってしまうくらいには、今の彼女から伝わってくる感情には、柔らかな善意と厚意が詰まっていた。

 食事時の呼びかけを、彼女の律儀さ、真面目さの現れとしか思っていなかったが、もしそこにいつも、この純朴な善意があったのだとしたら、落ち込まずにはいられない。咲坂や祐希は余計なお世話と舌を出すかも知れないが、少なくとも今の俺には、とても言えない。

 せめてもと、大して興味もないだろう話をしたことを反省したが、言い方を間違えて、逆に謝られた。人付き合いは突然上手くはならない。

 飲み物のおかわりを入れてもらいながら、ぼんやりと彼女を眺める。

 絵について、ついさっきまで酷く悩んでいた――彼女のおかげでかなり楽になった――こともあって、思うことは多かった。

 自分には関係ないと切り捨ててきたことに、今、救われている。

 そのくせ、自分からは何ら返せるものがない。

 絵を、と以前なら思っただろうが、今は絵が描けたとて何になると思ってしまう。

 俺の絵は、思い入れのない主題を、それらしく技巧で飾り立てただけの絵だ。今まで自分自身の満足を目標にして、他人に伝えるための絵を描いて来なかったから、伝えるための描き方が分からない。絵は、表現だと言うのに。

 そもそも、何かを返したいというこの感情を絵にしたところで、どれだけの価値があるのだろうとも思う。感謝に限らず、自分の思考の全てがそうだ。表現したところで、芸術として価値のあるものになるのか。


「ムラサキさん。ホットミルク、蜂蜜も入れていい? 眠れない時にはいいんだって」


 また落ちかけた思考を、何気なく引き上げられた。


「眠れないと苦しいよね。夜って、何となく不安になりやすいし……ムラサキさんはそうでもない?」

「……いや。俺もそうだ」

「あれ何でなんだろうね。やっぱり太陽がないせいかなぁ」

「さあ……」

「まあでも、自分ひとりじゃないと思うと、ちょっと安心するよ」


 穏やかなだけの言葉が心をとかす。子守唄にでもしたいと、図々しいことを考えた。

 ただ、清佳さんにも眠れないことがあるような口ぶりが、気にはなった。彼女が持つ弱さは察しているし不思議には思わないのだが、そう言えば、このところその弱さは改善されるどころか、徐々に増している気がする。

 会った頃よりも、くまが濃くなっている。

 時々見せる後ろめたさと関係はあるのだろうか。


「何故いつも、辛そうなんだ」

「……辛そう?」


 清佳さんが卓についてから、そう尋ねた。

 するとその顔には一瞬、陰鬱な疲れがよぎった。

 横着して繰り返し筆を洗った後のバケツよりも黒かった。


「何故、と聞かれても。思い当たることが多すぎて、分からないな。明日の夜ご飯何にするかまだ考えてないし、家事しながら勉強するのも大変だし」


 みるみるうちにその疲れは再び隠される。

 ただ、それはやはり、清佳さんにとっても重たいものだったようで、他の住人についての質問で話をそらしたその終わりに、またかすかににじみ出た。


「ムラサキさんは、辛そうに見える、ってだけ?」


 答えに迷っていると清佳さんはすぐに、顔を赤くして手を振った。


「何思ってても、本人には言えないよねー。……ごめんなさい。何も考えずに聞いただけだから、忘れて」


 辛そう――だけではないが、確かに言えなかった。

 本人を前にしているからと言うより、言語化ができない。

 笠原がやたらと嫌っていた理由が、善良さ以外にもあったことは分かった。清佳さんは少し笠原に似ている。笠原が軽薄さで隠しているものを、清佳さんは優しさで、より徹底的に隠している。静かに、誰にも知られないように戦っている。それが自分を見るようで嫌なのだろう。

 考えているうちに、自分たちがその相手である可能性に、遅ればせながら思い至った。

 理事長から「住み込みの家政婦を雇う」という一方的な通達があった時から、笠原たちは清佳さんを警戒していた。笠原なら適当にうまくやるのだろうと任せていたし、檜原清佳にもまるで興味がなかったから、気に留めないでいたが。

 今になって身に迫る。絵の方が大切だと言って人との関わりを避けて、何も関わっていない気になって、たぶんこんな風に幾度となく、気づかないことで傷つけてきたのだろう。


「清佳さんは、俺たちをどう思っている。嫌いなのか?」


 答えを見つけられないまま、衝動的に聞き返した。

 その時彼女の顔に浮かんだのは、いつか見た、まっすぐで明るく素直なのに、どこか泣きそうな笑みだった。


「いきなり入ってきて、色々と押し付けている私が言うなって、思われるかもしれないけど。ここにいる人、みんな好きだよ。仲良くしたいと思ってる」


 すぐそばにあるこの覚悟に無関心でいながら、一体俺は何の絵を描くつもりだったのだろうと、自嘲した。

 ――同時に。

 檜原清佳に憧れた。

 あれだけの陰鬱さを抱えながら、それでもまだ、本心から何かを好きと言える強さに焦がれた。


「何笑ってるの、ムラサキさん。変だった?」

「笑っていたか」


 不服そうな言い方にひやりとする。面白がったつもりはない。無意識だったが、恐らくは、嬉しかったから。

 すぐ、どちらにせよ良くはないと思い直した。こちらが清佳さんにとって加害者であるなら、親愛を向けるのはあまりにも厚かましい。

 だが、清佳さんの方から、拗ねと冗談の混じった顔で続けた。


「にやにやしてた」

「それはない」

「まあ、にやにやしてたは嘘だけど。笑ってはいた」


 何だその無意味な嘘。

 たまにどうでもいいところでふざける――ふざけるにしては弱い。甘えだろうか。

 少しの間、こちらを気にした様子を見せていたが、仕方なさそうに清佳さんは目を伏せた。

 かすかに不安さの残る顔に、心をくすぐられる思いがした。

 ついでのように、自分が生まれて初めて恋をしていることに気がついた。


「俺の答えは、またいつか、見せる」


 思わず言ったその言葉を守るために、俺はまた絵を描こうとしている。

 絵など紙切れだと思ったこともあったが、自分の思いを表現しようと思ったらやはり、絵以外の手段は考えられなかった。

 そうは言っても、まだ、何をどう描けばいいのかは分かってはいない。描こうとしても、筆が止まる。スランプは続いている。

 だが、以前程、苦しくはない。

 清佳さんの笑みから、想像が広がっていく。

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