第10話

side:笠原光


「ムラサキさん、何か言ってました?」


 渡した食器を洗いながら、サヤちゃんは不安そうに言った。


「ん~? 何かって何?」

「……あの、ほら。伝言についてとか……。それに具合悪くて来れなかったなら、明日のメニューとか考え直さなきゃならないですし」


 白々しい。紫純が下りて来なかった理由なんか、察しがついているだろうに。

 俺はほんの少しどう答えようか考える。紫純にも「頼む」と言われたことだし、伝言はもちろん伝えるつもりはあるんだけど、すんなりと教えるのは癪だった。全く、二人とも俺を何だと思っているのか。紫純はマイディアだから許すけど、こいつに至っては友達ですらない。同じ学校に通っている年下の同居人でしかない。

 聞いてきたばかりの話を思い返す。

 サヤちゃんの不可解な行動に対する、紫純の期待と疑念。アトリエでの時間の共有。筆を踏んでコケるというしょうもないアクシデントによって、あっさりと犯された境界。俺が斡旋した初体験の前にも見せなかった、紫純の、俗な欲にまみれた顔。


「サヤちゃんのこと抱いちゃったどうしよ~って言ってた」

「嘘つけぇ! 絶対その言い方じゃないですよね!」


 こいつ、着々と俺への態度が悪くなってるよな。もう敬語止めろ。敬する気ないだろ。


「伝言の方は、俺が悪かったことにしていい、だってさ」


 不意をつくタイミングを選びつつ正直に言うと、食器同士が触れ合ったか、カチャンと高い音がした。

 サヤちゃんは一瞬、手を止めて、どこか遠くを見るような目をしたが、すぐに皿洗いを再開する。


「そうですか……」

「感想は?」

「何で光さんに言わなきゃならないんですか」

「他に何言ってたか聞きたくないの~?」

「ぐっ……と、と言うか、ムラサキさんから話は聞いてしまったっぽいですけど……どこまで聞いたんですか。そんなん言って、他が世間話とかだったらとても怒りますよ。ものすごく怒ります」

「悪ぃけど、たぶん大体全部聞いたぞ。あいつあんまり俺に隠し事しないし」

「証拠は」

「根を張りそうって何?」

「それ他の人に言ったらムラサキさんと一緒に海に沈んでもらいますからね」


 恥ずかしいことを言ったとは思っているらしい。


「結局どういうつもりなの、お前」


 遠慮などする間柄でもないので、雑に切り込んだ。

 時と場合にはよるけど、少なくとも紫純から聞いた状況からすればほとんど合意。もし俺が紫純の立場だったら、全年齢向けでは書けないことをしている。だが、紫純はしがらみを気にして散々に猶予を持たせ、サヤちゃんは最終的に、捨て台詞を吐いて逃げた。


「紫純は「俺を木石とでも思ってるのか」って珍しくご立腹だったけど。紫純のこと好きなの?」

「ぐわぁ……ちが……違くないけど、違う……でも違くない……」


 赤くなった顔を見ていると、むらむらといじめたい欲がわいてくる。こいつがうちの奴らに妙にかわいがられてる理由、素直さや憐れさと言うとかわいらしいが、身も蓋もない言い方をすれば、支配欲と嗜虐心をちょうど良く刺激するせいだと思う。色んなハラスメントに気をつけた方がいい。

 本人は自覚なく、何かぐだぐだとうめいている。


「何かこう、木石じゃないけど、森林浴とか……温泉……? ムラサキさんのそばにいると、落ち込んでたり疲れててても、全部忘れてぼんやりできて、安心できて……居眠りした時と同じ効用が……」

「アトリエでヤベェお香とか嗅がされてる?」

「焚かれてるんですか、ヤバいお香」

「さぁ。アトリエ、火気厳禁ではあるけど。あいつの親、しょっちゅう海外行ってるからな~……個人的に持ってはいるかも?」

「ヒエ……」

「な訳ねぇだろ」

「じゃあ何なんですか、この感情」


 知らん。俺に聞くな。

 つまり、紫純を散々悩ませておきながら、本人も、自分の動機を理解していなかった訳だ。一応「休息のため」でもある意味正解とは言えるんだろうが、それでは色々と取りこぼされる。紫純は、答えが用意されていない問題に取り組まされていた。

 迷惑な話。


「それはもう、紫純のこと好きって言っていいんじゃねぇ? 付き合っちゃえば?」


 適当に答えると、サヤちゃんは納得いかなそうに顔をしかめた。


「……ムラサキさんのことは、好きですけど……。これ、恋……なのかなぁ……」

「サヤちゃん、恋してなきゃ付き合えない派?」

「何ですかその派閥」

「嫌いじゃなくて好き寄りなら、付き合っちゃえば良くない? 付き合ってから好きになった、って別に珍しい話でもないし~」


 まあ、俺は紫純にこいつと付き合ってほしい訳じゃないけど。

 どちらかと言うと、紫純には興味をなくしてほしい方だ。恋愛があいつの画業に良い影響を与えるとは限らないし、ムラサキが自分以外に執着するのも複雑だし。あと、仮に一生の付き合いになった場合、俺もこいつと一生付き合うことになる。

 今のところ場当たり的に話しているせいでで、引き離すどころか、どうでもいい女から恋愛相談された時と同じく、とりあえず付き合っておけば的な対応になってしまっているが、思考の端で考える。紫純、俺、そしてサヤちゃん。三角形。将来。


「あー、まあ、光さんはそういう価値観か。そういうことなら、私はできれば、恋はしておきたい方ですかね……。結婚とかになってくると別なんでしょうけど、最初くらいは」

「サヤちゃんってそもそも恋したことあんの? 初恋いつ?」

「さっきから、デリケートな話をどうでも良さそうに聞きますね。いいですけど。中学生の頃とか、気になる人はいましたよ。付き合ったとかではなくて、いいなと思ってるだけでしたが、たぶん初恋だったと……。でも、ムラサキさんに感じるのは、あれとは違うから……」

「そもそも同じとは限らなくない? サヤちゃん高校生になってるんだし、相手も違うし。友人関係が十人十色なのと同じように、恋愛にも、恋人と結婚相手は違うとか、キスフレとかセフレとか、色々あるしねぇ。そんな厳密に考えなくていいと思うけど」

「……何、光さん何か、企んでます? 私をムラサキさんにけしかけて、さながらぬかるみのようなどろどろの人間関係を作ろうとしてます?」

「疑うのが早ぇよ。単に俺の考えを述べてるだけです~。これから先は分かんねえけど」

「すみません。まあまあ、仮に恋だったとしても、ムラサキさんの意向もありますから」

「そこはクリアしてるでしょ。抱かれたんだし」

「だからぁ……まあいいや。あれは事故です、事故。過失割合九対一の。私があまりにも図々しかったから、ムラサキさんも、何か……何かちょっとあれだったんでしょう。……ということにしているので、光さんは何も言わないでください」


 サヤちゃんもひとまず「何もなかった」に近い選択をしたらしい。しかも、紫純から向けられている感情についてもあやふやにしようとしている。察しているはずなのに。近頃の若者は臆病者だらけか。


「とにかくだから、今回の件でのムラサキさんの真意は謎のままですし。……私も……自分の気持ちは、当面は保留にしておくことにします。今日のことは恋とか愛とかの話にはなりません、しません。おしまい」

「お前いつまでその皿洗ってんの?」

「高級ホテル並にピッカピカにしようかなって」


 サヤちゃんは拗ねた顔で皿を水切りかごに入れて、手を洗った。

 どうやら、この騒動に関しては一旦、これでケリをつけるようだ。何もなかった、謎、保留。はっきりさせない。それなら紫純との関係性にもプラントポットにも、波が立つことはない。凪だ。

 俺は肩透かしの気分だけど。

 紫純がこいつと付き合うのはノーウェルカムだが、今回の件でプラントポットがしっちゃかめっちゃかになるのも、それはそれで面白そうだった。きっといい息抜きになったはず。

 とは言え、今からひっくり返す程のやる気はない。


「まあ……自分は図々しいって自覚があって安心したわ。最近のお前、ちょっと目に余ってた。優しくされるのが当然だと思ってるだろ」


 念のため今日の締めに、紫純に打ち込んだのと同じ釘を刺しておく。


「そんなことは……ないです」

「みんな、憐れみって体で見下してるか、見返りがあるからやってるんだよ。他人に優しくして気持ち良くなりてぇ、とかな。自分は楽だけど、いつかツケを払わせられる日が来るって覚えておきな。人生の先輩、光くんからご忠告」

「その忠告は、見下しと見返りどっちですか?」

「うるせぇ。黙って聞け」

「はは。光さん、ひねくれ過ぎですよ。……うん、でも、はい。最近、甘えがちになっている自覚はあります。気をつけます」


 返事には、思っていたよりもしっかり伝わった感触があった。何か心当たりがありそうな顔をしていたが、聞く義理はないので聞かなかった。どうせ両親の命日が近づいているとか過ぎたとかだろう。


「もう部屋戻る?」

「はい。話、聞いてくれてありがとうございました、光さん」

「聞いてねぇよ。テメェが勝手に話してただけ」


 何となく釣られて立ち上がってから、別に一緒に上に戻ることもないのだと気がついた。自分にイラッとするが、サヤちゃんは気づいた様子もない。それはそれで苛立つ。

 開いたままにされたドアを、後ろ手に閉めながらくぐる。

 ふと、面白そうなことを思いついた。


「サヤちゃん、恋人がやるようなこと一回してみたら? 好きかどうか分かんねぇって言うか、経験なさ過ぎで、恋愛のハードル高くなってるだけな気がするし。考えるだけじゃなくて行動してみたら、結構すんなりいくかも」


 階段を上りかけていたサヤちゃんは、振り返って長々とため息をついた。


「何を言ってるんですか。してみたら、って言われてできるようなものではない……光さんは大層おモテになられるからできるのかも知れませんが。私はそういうタイプの人間ではないのです」

「んなこと分かってるよ。だから、俺と」

「は?」


 飲み込むのにたっぷり十秒。


「恋人がやるようなことって……え?」

「何顔赤くしてるの、サヤちゃん。やらし~」

「だ、だって。そんな……は? い、いい、いくら光さんでも、言っていい冗談と悪い冗談がありますよ!」


 期待通りの反応。この反応で今夜の伝書鳩扱いの元は取れたような気がする。内心で笑いながらも、ここで笑うと怒って帰りそうだったので堪えて、ちょっと真面目な感じを装いつつ続ける。


「友達のままでもできる、恋人がやるようなこと、あるだろ? 手をつなぐ、ハグ、デート――マニアックなところで言うと添い寝とか。それくらいだったら、試してみてもいいんじゃない?」


 赤い顔にうっすらと理解の色が浮かぶ。快諾という雰囲気ではなさそうだが、こちらとしては、サヤちゃんが受けようが拒もうがどちらでもいい。どうせ、気まぐれの息抜きだ。

 手を取り、恋人つなぎにして笑いかけた。


「お前のことが嫌いな俺と、どう? 一日だけ恋人ごっこ」

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