第9話

後日。

 清佳さんは再び、アトリエにやって来た。


「おい」

「……ごめんなさい」


 アトリエの入り口に立った清佳さんは、後ろめたそうに目を伏せながら、心臓を抑えるように、胸の上で両手を重ねる。他意はないのだろうが、胸の膨らみがやや強調されていた。

 何かしていいのか。

 と、自問を繰り返すのは止めておく。さすがに懲りた。


「何をしに来た」


 ずっと聞かないでいた訪問の理由を、とうとう、本人に問いかけた。

 答えられなければ、当然追い返すつもりで。

 だが、彼女は意を決したように口を開いた。


「絵の描き方を、教えてくれないかな、って。その……例えば。一言、私が描いた絵に、アドバイスをくれる、みたいな。ムラサキさんの負担にならない範囲でいいから」


 休息よりは合理的な名目だった。

 ただ、今までアトリエに来てぼんやりしていた理由もそれだとは考えにくい。いくら遠慮がちな清佳さんでも、それくらいの頼みはすぐに言えるはずだ。


「……笠原の入れ知恵か?」


 そう問いかけると、肩がこわばった。

 うつむき気味の顔には、不安と罪悪感、そしてさみしさが浮かんでいる。

 彼女が来なくなってからも俺は、彼女の意図を考えた。結局、休息以外の答えは思いつかなかったが、その休息の中には、俺が漠然と思っていた以上の切実さがこもっていた可能性に思い至った。。

 最近は元気にしていることが多いが、彼女の中には今も、本人にもどうしようもないさみしさが滞留している。両親を亡くしたことでできた傷だ。そう簡単には治らない。

 恋は恋でも、人恋しさ。

 そのさみしさを埋めるためなら、清佳さんは、俺以外のところへ行くだろう。

 そして、これが一番重要なのだが、プラントポットには、堂々とその弱みにつけ込んで恥じない奴がいる。そいつには堪え性はなく、恋愛によってプラントポットが崩壊する可能性も一顧だにしない。


「……いいよ。アドバイス程度なら」


 またたく間に清佳さんの顔には喜色が浮かんだ。

 思わず深く、ため息をつく。反省はしたのだろうが、やはり根本的に危機感に欠けている。絵を教えるという名目を無視して、全てぶち壊す方に舵を切ることも、俺には可能だというのに。

 信じられているのか、なめられているのか。

 どちらにせよ、先の事態の二の舞いは避けておくべきだろうと考える。


「ただ、礼くらいは寄越せ」

「うん、もちろん。何がいい? お菓子とか」


 逃げられないよう首の後ろに手を添えて、いまだに油断しきっている清佳さんの頬に口づけた。


「もらった」


 強引さは、若干、咲坂のやり口から学んだ。

 だが、うまくいかない。


「……う、ん」


 目を泳がせてはいるが、そこには怯えも怒りも見当たらなかった。嫌がっているようにも見えない。警戒させられていない。

 咲坂と笠原にするような邪険な対応はどこにいった。

 と言うかやっぱり、俺のこと好きなんじゃないか、この人。

 危うく加速しかけた恋情に、寸前でブレーキをかける。


「清佳さん……俺が言うのも何だが、もう少し警戒してくれないか……」

「あ。う、うん。警戒、そうだよね。良くない……良くないよムラサキさん。いくらお礼とは言え、女子の頬をみだりに奪っては」

「弱い」

「弱いか……」


 頬を手で抑えながら、清佳さんは眉を下げる。


「ムラサキさんには、あんまり怒る気になれないんだよなー……」


 笠原、もういっそ見張っておいてくれ。俺も清佳さんもだめだ。あのテディベアどこやった。

 ため息をつきながらも、アトリエに彼女を招く。

 以来、俺は時々清佳さんに絵を教えるようになった。

 今のところはまだ、頬にキス以上のことは、起きてはいない。

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