第8話

「しーじゅんくん! 光くんだぞ。飯持ってきた。開っけろー!」


 目覚めてしばらくうとうとしていたが、その声で渋々起き上がった。

 電気をつけて時計を見る。夕食はもう終わっている時刻だ。


「……飯か」


 基本的に、事前連絡もなしに食事の時間をすっぽかした人間の食事は、次の食事に回されるか廃棄。わざわざ誰かに部屋まで届けさせるのは、かなりの好待遇だ。

 好待遇、か。

 扉を開けると、お盆を持った笠原が立っていた。

 受け取ろうとすると、遠ざけられた。


「入れろ」


 拒むのが面倒くさくなって入れた。

 図鑑や画集が入った本棚、画材やパソコンがある俺のワンルームには、人間が二人ゆったりと座るスペースはない。俺はパソコンの上に盆を置いて、笠原は斜め後ろにあるベッドに座った。


「サヤちゃんと何かあった?」

「食べ始める前に聞くな。食い終わってからにしてくれ」


 という訳で、盆を空にした後、あらためて聞かれた。


「サヤちゃんと何があった?」

「何かがあったことを確定にするな」

「サヤちゃんから伝言を預かっていますが、お前の態度次第で俺は口をつぐみます」


 何で清佳さんはこいつに頼んだんだ。

 しかし、清佳さんの伝言を交換条件にされたら、話さない訳にもいかない。椅子に横向きに座って、背もたれに腕を預ける。

 二人でいるアトリエの静けさを思い返しながら、これまでの経緯を説明した。

 文化祭準備が始まったおよそ一か月程前から、清佳さんは時々アトリエに来るようになった。嬉しいことではあったが、しかし、その行動は少し不可解だった。話すでもなく、絵を見るでもなく、ぼんやりとして帰るだけ。強いて言えば休息のように見える行動だったが、椅子や飲み物を持ってきて、遠慮なく休んでいいという俺の勧めには、頑ななまでに従わない。

 その行動に俺はずっと、期待と、もどかしさを感じていた。

 それで今日、目が会ったのをきっかけに、探りを入れた。だが、そこで俺もまた行き詰まった。煮え切らない態度をしているのは自分もだと反省した。そうして清佳さんの微妙にちぐはぐな行動にひとまず納得して、彼女にならい、今日もまた「現状維持」で終わろうとした。――にも関わらず。

 彼女の方から、境界を踏み越えた。

 本人にとってはほんの足先のつもりだったのかも知れないが、俺にとってはそれは致命的だった。


「結局……どういうつもりだったんだ、清佳さんは……」


 背もたれにずるずると寄りかかる。


「両思いってことにしておいたら?」


 冷ややかな笑いは、ここにいない清佳さんを軽蔑している。


作業部屋アトリエとは言え、ほとんど自室みたいな場所に一人でのこのこ行く時点で、いただいてくださいって言うようなもんだろ――何も起こさないように何もしない、なんて片腹痛ぇよ。充分、してる」

「……そうだな」


 その言説に乗っかりたくはなかったが、さすがに、悪口の一つも言いたい気分だ。


「俺を木石とでも思っているのか」

「ぬいぐるみじゃない?」

「……そこまでではないだろう」


 居心地が良くて、とは言っていたが。

 アトリエに来ても俺を避けるような振る舞いをしていた理由には、彼女自身も曖昧さと自身の身勝手さに気がついてはいたから、俺に寄りかからないようにしていたという側面もあったはず――そう思いたい。


「友人……家族、か。そうだとしても、まあ、困るが」


 ゆくゆくはそうなるとしても、一足飛びは御免被る。

 こちらは恋をしているのだから。

 少しの沈黙の後、笠原は軽く笑った。


「という会話と同じことを、サヤちゃんが考えている可能性がある、と」

「ない。そこまでは言っていない」


 実質的に同じことをしている以上、俺には清佳さんを責める筋合いはないと、個人的に反省しただけだ。


「そうかねぇ。ムラサキさんの方から手出してくれないかな〜イチャイチャしたいんだけどな〜もう恋愛対象として見られてないのかな〜二人きりになったら何か言ってくれるかな~。みたいな」

「ない。止めろ」

「じゃあ、いい加減気持ち悪い目で見るの止めろよ気づかない程鈍感だとでも思ってんの? 二人きりの時間作ってやるから早く告白して来い振ってやる、って方?」

「それもない」


 清佳さんはそういう意地の悪い駆け引きをする人ではないし、仮に意趣返しのつもりでアトリエに来ていたのなら、あの反応はおかしい。


「清佳さんの人物像に関して、俺とお前との間には、著しい見解の相違があるようだな」

「解釈違いにキレんなよオタク。どうせお前にもサヤちゃんがアトリエに来てた理由は分かんねぇんだろ」

「……企みがあって来ているようには見えなかった」

「はいはい。まあ、そこんところはどれだけ俺らで考えても答えにはならねぇんで置いておいて。お前自身は今後、どうするつもりなの? ここに住み続けるなら、ずっと顔合わせないでいるって訳にはいかねぇし」


 腕に、彼女の体の感触がよみがえる。


「ここ出るって手もなくはないけど、その場合、サヤちゃんが居づらい思いするだろうな~。夕食の時も微妙に挙動不審だったから、敬司にはバレてるだろうしな~」

「出ることはない」


 反射的に答えた。

 それはほとんど身を引くのと同じだ。ここには咲坂がいる。

 清佳さんを諦めるつもりはない。


「じゃあちゃんと告白し直す?」

「いつかするとしても、今は……」


 振られても付き合えても地獄。清佳さんを困らせることにもなる。


「すると何。しらっと、何もなかったことにするつもり?」


 面白がるような声に、言い返したい気持ちがわく。

 だが、何も言い返せない。

 鬼の首を取ったように笠原は続けた。


「それこそサヤちゃんを困惑させることになるけど。ムラサキさんこの前私に手ぇ出してきたのに、その後何の音沙汰もない! あれってどういうつもりだったの! って」

「それは、そう……だが……」


 思わず舌打ちが出た。

 誠意のない対応であることは分かっている。だが、他に手を思いつかない。今の状況では二進も三進もいかない。

 悩んだ末に、俺は、開き直った。


「清佳さんのやらかしでもある。――俺だけのせいじゃない。俺の方で黙っていれば、向こうも何も言わないはずだ」

「うわぁ」

「どうとでも言え。俺は、なかったことにする」


 次に顔を合わせた時も、いつも通りの会話をしてやる。今日のことには触れない。ご飯を届けさせてくれたお礼だけしか言わない。


「まあ、お前がいいならいいけど~……。北条紫純が女泣かせの女たらしになっても、笠原光は味方だから」


 嬉しくはない。

 女たらしと言われた不甲斐なさで俺が無言になっている間にも、笠原はつらつらと話す。


「ただ、さすがに安心安全を装うのはもう止めとけ。それも策の一つではあるけど……もし、敬司が中身そのまま、外見だけすっかり好青年みてぇになってサヤちゃんのそばに寄ってったらどうよ? どんな詐欺企んでるテメェ、くらいは思うだろ。警戒させるってのも、ある意味では誠実さだぞ」


 あいつと一緒にされるのは腹立たしいが、確かに、清佳さんに向ける感情のよこしまさに関しては、俺と咲坂は大差ない。それは清佳さんにも分かっておいてもらった方がいい。また同じことがあってはかなわない。

 だが、そう言われても。


「……警戒させるってどうするんだ」

「咲坂と同じことをする。俺を参考にしても可」

「なかったことにした意味がなくなるだろ。……咲坂とお前は何でベタベタ触っておいて平気な顔していられるんだ! 清佳さんも何も言わなくなっているが、どうかと思う」

「場数? あと、何かろくでもねぇことするのが通常営業ってキャラクター。普段の行い。真面目な奴が悪いことすると、悪い奴が悪いことした時より印象悪い理論の応用」

「ずるい」

「こればっかりは俺もどうにもしてやれねぇわ。――そうだ、そう言えば、警戒させる以前の問題があった」


 首をかしげた俺に、笠原は。


「まず、あいつを憐れんで、やたらめったら優しくするのを止めろ」


 ついさっきは清佳さんに向けていた軽蔑を、向けてきた。


「秀人はあの性格だから仕方ねえけど、祐希とお前と、あと敬司も、かわいそうだからってあいつを甘やかし過ぎ。ほとんど幼児扱いしてる時あるだろ。良くねぇよ、あれ」


 憐れんではいない、とは言えない自分がいた。

 夏休み。俺は、清佳さんの抱えていたさみしさを、彼女自身に突きつけた。そして寄り添った。好きだからという理由はあったが、あの時の彼女は、あまりにも憐れだったから。

 あの時はそうしなければならなかった。後悔はない。

 だが、その後、アトリエに一人で来るのを止めなかったのは――どうだろう。間違いなく下心もあったが。

 疲れているのなら、人恋しいのなら、かわいそうだから。

 彼女は拠り所を失っているから。

 言われてみれば、そういう気持ちも、ずっとあったような気がする。

 ただ、厳しく接するのも、俺には難しいかも知れない。


「甘やかすから向こうも増長するんだよ。俺と同じ。とりあえず一回警戒させるのも兼ねて、痛い目見せおけば?」

「自覚はあるんだな」


 ――そう、笠原と同じ。

 こいつを清佳さんにまで呆れられるような人間にした責任は、半分くらいは俺にある。別にこういう人間にしようと思ってした訳ではないが、気がついたらこんなことになっていた。

 俺はどうやら、情をかけた人間への接し方が下手らしい。

 興味のない人間への対応も上手とは言いがたいが、それとはまた別方向に失敗している。


「その意見は心に置いておくが。……笠原。お前、清佳さんと死なば諸共の覚悟でいるのか?」

「分かりやすい例として出しただけだよ。俺のことはもうしばらく憐れんでおいて。甘やかして」

「全く……」


 放っておいたら、清佳さんもこうなるのだろうか。

 警戒させるのは難しいかも知れない。しかし、このままでもいけないという危惧を強く覚える。笠原は一人で充分だし、清佳さんが今以上の甘えたがりになるのも――個人的な嗜好としては惹かれるが――本人のためにならない。


「痛い目か……キスもしておけば良かったか」

「あ、何だよ。もしかして本当に抱きしめただけなの? 隠してるだけでさすがにキスくらいしたんだと思ってたわ~何だよ。臆病者」

「うるさい。で、清佳さんからの伝言は?」

「ムラサキさんが悪い訳あるか。とのこと」


 思わず笑ってしまった。「ムラサキさんが悪い」と、清佳さんにしては珍しく理不尽に他責的な捨て台詞だったが、ちゃんと反省したらしい。

 欲しくなる。


「……好きだねぇ」


 思いが顔に出たらしく、呆れられたが、この件に関しては仕方がない。


「好きだよ」


 初めての恋だから、自分でもどの程度の感情かは計りかねている。もしかするとこの先、深く後悔したり、愚かだったと恥ずかしくなることもあるのかも知れないが、今はとにかく、欲しくて仕方がない。状況的に今すぐ付き合うことはできなくても――いつか、必ず。


「笠原。清佳さんに、俺が悪かったことにしていい、と言っておいてくれないか」

「文言はそのまま?」

「そのまま」


 彼女には罪悪感の方が効く。警戒させるのなら別の言葉の方がいいのだろうが、今は思いつかないから、甘やかしながらも、ひとまずつなぎ止めておく道を選んでおく。

 このずるさを知ったら、さすがに清佳さんも警戒するだろうか。

 言う機会はないが。


「いいけどー。……何か腹立ってきたな。二人して人を伝書鳩みたいに使いやがって。何かないの、何か。お礼の品とかー、お前がいないとだめだ、的な、俺が気持ちよーくなれる言葉とか」

「お前……」

「いまだに俺のこと親友って認めてくれないくせに、こういう時ばっかり頼ってくるのずるくない?」


 一理ある。

 実際のところ、アトリエでは小野寺さんや祐希でもいいと願ったが、こんな事情は笠原以外には話せない。笠原がこちらを必要とするように、今ではこちらも、そう簡単に手放せないくらいには寄りかかっている。友達とは認めないが、だからこそお礼は必要だ。

 ただ、あまり言うと図に乗る。


「頼む。……助けてくれ」

「……ふふん。まあいいでしょう」


 笠原はお盆を持って、意気揚々と部屋を出ていった。

 これでいいのか。

 あいつも、こういうところが何だかんだ憎めない。

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