第7話
文化祭準備が始まった頃から、アトリエに、清佳さんが休憩しに来るようになった。
便宜上「休憩しに」と認識しているが、本人に直接、訪問の理由を聞いたことはない。「休憩しに」というのは、その行動からの推測である。
訪問は不定期だ。ただ、俺が彼女の訪問を知ることができるのは、俺がアトリエにいる間だけなので、実際のところは分からない。案外、俺がアトリエにいない時も来ていて、そこには何かの法則性があるが、俺がそれを把握できないでいるだけかもしれない。
不明。
訪れた清佳さんは、まず入り口で、俺の名前を呼ぶ。そして「入っていいですか」と言う。何故か敬語であることが多い。疲れていると「入っていいかい」になる。彼女は疲れている時の方が元気が良くなる傾向にある。
俺が許可すると、彼女はそっとアトリエに足を踏み入れる。
食事の用意ができたという知らせや、休憩のうながしなど、用がある時にはそのまま俺のところまで来る。だが、最近では俺も時間になったら一階に下りるようになったので、そうでないことの方が多い。割合的には七対三といったところか。
七割程度の確率で、入ってきた彼女は、無言で部屋を歩く。
壁や床にある絵に目を向けて、美術館でも巡るように、静かに。
――そう見える動きをする。
実のところ、その眼差しは、必ずしも絵を見ているばかりではない。絵に体を向けていても、思索に沈んで、何も見ていないことが多い。一言で言えばぼんやりしている。
彼女がアトリエにいる時間は、長くても十分程度。一通り見終わった「ふり」をすると、清佳さんは「お邪魔しました」と小声で言って、アトリエから出ていく。
一連のその振る舞いを、観察の末に俺は、休息と見なすことにした。
休息でなければ何だと言うのか。
彼女は「ぼんやり」以外のことはしない。こちらから話しかけなければ、会話も生まれない。俺に目を向けることもない。避けている節すらある。
休息以外に思いつかない。
ひとまず目的を休息と見なしてから、俺は彼女に、絵を見るふりはしなくてもいいと告げた。この場が画廊ならば複雑な気分になったかもしれないが、ここはアトリエ、すなわち作業場だ。その辺に適当に置いてある絵もほとんどが習作だ。そう熱心に見るようなものではない。
酷くうるさくしないのであれば、何をしていても構わないし、椅子や飲み物などを持ってきていい、とも伝えた。
だが、清佳さんは苦笑いを浮かべた。
「……ごめんね。ありがとう。椅子、持って来ようかな」
そう言いつつ、それ以降も、彼女の行動は大きく変わることはなかった。椅子も持って来ない。心なしか、絵を見るふりをする時間が減って、ぼんやりする時間が増えたようには思うが、精々がそれくらいだ。
彼女は、息をひそめつつアトリエを一回りして帰る、という形での休息を続けた。
あえて居心地の悪さを保ったまま憩う。
そういう形の休息もあるのだろう。
一時はそう納得しようとしたものの、こびりついた絵の具のように、疑念が晴れることはなかった。結局俺は、より正確な現状認識を求めて、彼女を観察し続けることになった。
いやもう、ごまかすのは止めよう。正確な現状認識などどうでもいい。
俺は「もしかして俺のそばにいたいのか?」という浮ついた期待を、木っ端微塵に破壊できるような、彼女がアトリエに来る合理的な理由を求めていた。
――もちろん、本心を言えば、否定したくはない。
だが、少なくともプラントポットに住んでいる間は、諸手を挙げて歓迎という訳にはいかない。
共同生活、高校生だけ、監視の不在。プラントポットは自由である代わりに、危うさと脆さを抱えている。軽挙妄動で人間関係を始めとした様々なものがあっさり崩壊しかねない。
俺も、好きだとは思っていても、清佳さんと基本的に恋人や夫婦といった関係にある二者がすること――例えばキスやセックスをしたいと内心では思っていても、本人の前では態度や言動には出さないように、極力自制していた。
好意は薄々知られているが、それが暴力的なまでに強い感情だとは思われていない、はずだ。
だが、二人きりのアトリエで、清佳さん自身に許されてしまったら、さすがに自制心は崩れ落ちる。本気で欲しくなる。今すぐにでも。誰かに取られる前に。
故に、両思いなど、勘違いにしておかなければならなかった。
清佳さん本人に「何故アトリエに来るんだ」と聞くのが、最も手軽で確実な方法だろう。そうは思うが聞けるはずがない。何かもっともらしい理由が返ってきたら、俺は恥ずかしさで埋まる。
もっともらしくない、非合理的で支離滅裂な、後付けのような理由が返ってきたら――それは、どうしたらいい。
飼い殺し、据え膳という単語を思い浮かべつつ、しかし何もできず。
何もないままに、時は過ぎた。
そして今日、平日放課後。
ふらっとまた訪れて、ぼんやりアトリエを巡っていた清佳さんと、不意に目が合ってしまった。
「あ……ごめん。気が散った?」
気はずっと散っている、と言えば、二度と来なくなることは明白だったので、首を振った。
「そう。失礼しました」
清佳さんは会釈して、また壁の方へ向き直ろうとした。空気が元の通りに戻りかけた。
次はもうないかも知れないと思って、俺は咄嗟に、声をかけてしまった。
「清佳さん」
振り返った顔の無垢さを見てやや後悔したが、半ば捨て鉢で続けた。
「一息つこうと思うんだが、少し付き合ってくれないか」
「うん、私で良ければ」
「……何か飲むか?」
「あぁ、持ってくるよ。何がいい?」
「俺の分はいい。ペットボトルがあるから……。実は清佳さんの分も、自室にある買い置きを、紙コップに移し替えるだけのつもりだった」
喉が渇く度に一階まで降りていくのは面倒なので、自室にペットボトル飲料を買い置きしている。今日もそばにペットボトルを一本置いている。
「一応、炭酸と緑茶と麦茶はあるんだが。……どうしても他が良ければ、一階まで下りるか」
「ハハ、そんなこだわりないよ。じゃあ、お言葉に甘えて。麦茶をお願いします」
向かいにある自室に行って、一応自分の分も紙コップにいれて、戻る。
清佳さんはいた場所に、そのまま立っていた。椅子を持って来たら座るだろうかと思いつつ、紙コップを渡して、そばに立つ。
清佳さんは受け取った途端、一息にお茶を飲み干した。
「……喉が渇いていたんだな」
しまったと顔に書かれた。
「まあ……今日はね。乾燥していたかも」
「もう一杯いるか?」
「大丈夫。ごちそうさまでした……」
紙コップを受け取って、ゴミ袋に捨てた。
俺は、休憩の名目で清佳さんのそばに居続けるために、飲まずにおく。
話しかけたものの何を話していいか分からず、結局のところ清佳さんと同じように、見るともなしに絵を見る。
壁には自分の描いた絵がかかっている。文房具のデッサンや描き殴り。描いた時期、描いた時の感情や意図も忘れてしまった。プラントポットから退去する時には、笠原が何も言わなければ、処分することになるだろう。取るに足りない絵だ。
自分でも、見ていて面白いとは思えない。ましてや清佳さんにとっては、退屈極まりないだろう。
そもそも清佳さんの好みは恐らく、映画やゲームなど、動きのあるものだ。中でも、破壊や爽快さ、ある種のチープさを主題としたものに惹かれる傾向がある。平たく言うとB級映画の類。サメとゾンビも好き。ただし、交通事故など、両親の死を想起させるものは苦手。
……思考が偏った。これは俺が疲れている時の傾向。疲れていると、一つのことについて、必要以上に考えを巡らせてしまう。今は清佳さんの趣味に関して考えても仕方がない。
「清佳さんが来ると、いい気分転換になる」
先の「気が散った?」という問いかけを言い換えた。隣からは意図を悟ったような照れ笑いが聞こえた。
「邪魔だったら、すぐ言ってね」
邪魔でない場合は――もっと長くいてほしい時は。
さすがに核心に近すぎるように思えて、言葉を飲み込んだ。
「清佳さんこそ」
「ん?」
「俺が邪魔だったら、言ってくれ」
清佳さんは吹き出すように笑った。
「何言ってるの、言う訳ないでしょ。ムラサキさんのアトリエなのに」
「……そうか?」
危うさを感じながらも、言わずにはいられない。
「壁ばかり見ているから」
沈黙が流れる。横目に見ると、気まずそうな顔をしていた。言わなければ良かったとも、やっと言ってやったとも思う。
今まで、入室してすぐや、下に戻る時以外で、清佳さんと目が合ったことはなかった。今日が初めてだ。俺は視界に入ってきたらほとんどずっと見ているのに、彼女はけしてこちらを見ようとしない。
アトリエには来るくせに、俺のことは避けている。
微妙に本心を探りあぐねている理由の一つだ。
「邪魔ではないよ、全く。壁じゃなくて絵を見ているんだし……一応。……その。作業中にちらちら見られたら、ムラサキさんも集中できないでしょう」
「……まあな」
「ね。遠慮してるんですよ。描いているところを見たいなって好奇心はあるよ」
俺の言葉には応えているが、根本的なところ、アトリエに来る理由が不明瞭なせいで、ちぐはぐさが隠せていない。
清佳さんはほんのわずかではあるが、俺と距離を取った。
それをごまかすように微笑んだ。
「今日は、どう? 進んでる?」
「……進んではいない」
「今、何の絵を描いてるの?」
「笠原が持ってきた、コンクール用の絵。テーマは自由だったから、とりあえず、昔描いた絵の再現をしてみている」
「昔描いた絵?」
「笠原に言われて、花を描いたことがあった。あの時はただ、目の前にあるものをそのまま描いただけだったが、今なら、あれを描いてほしいと言ったあいつの気持ちまで、汲み取れる気がしたから。……描き始めてみたらそうでもなかったが」
「ふぅん? 光さんが、花かぁ。こう言っちゃ悪いかもだけど、何となく意外……かな?」
「事情があった」
「事情?」
言いかけて、口を閉じる。
「秘密。清佳さんに教えたと知られたら、文句を言われそうだ」
嘘ではないが、話を本題に戻したいという理由の方が主だ。
本題などあるのか分からないが。
この時間は一体、どこを目指しているのだろう。話しかけてはみたものの、終わりどころが分からなくて苦しい。やっぱり話しかけなければ良かった。
「ハハ、そっか。じゃあまあ、光さんだって花の絵を見たくなることくらいあるよねって思っておこう」
「花に限らないが、あいつは結構、風景画が好きだぞ」
「あ、そうなんだ。……風景画って言われると何か納得いくな。人間よりは自然の方が好きそう」
「……あいつのことはよくて。清佳さんは……今日は、どうだった」
「私? どうだったって言われても……何もないよ、話す程のことは。いつも通り。学校行って、スーパー行って、さっき帰ってきたところ」
「ここに来る時は、疲れていることが多いだろう」
「あぁ、まあ……そう?」
「俺にはそう見える」
「じゃあ、そうなのかもね。自分では、あんまり、考えてないけど」
「気まぐれ?」
「気まぐれ。何となく。……です。あ、夕ご飯、何か食べたいものある?」
「今? スーパーにはもう、行ったんだろう」
「あ、ハハ。行ったけど。変えられない訳ではないし、今からまた買い物行ったっていいし。六人分なんて、いくら買っても多いってことはないからね」
「そう。もし行くなら、荷物持ちをするから、声をかけてくれ」
「……いやいや。絵を。描いてるんでしょう」
「進まないから。清佳さんの荷物持ちの方が有意義だ」
「結局、食べたいものはあるの?」
「特には」
「じゃあいいでしょ」
ふいと目をそらされた。少し怒らせたかも知れない。確信を得たい気持ちが先行して、うっかりしつこく探りを入れ過ぎた。
口を閉じて心を落ち着ける。
そして、今更ながら、確信を得てはならないことを思い出す。はっきりされると俺も困るという理屈は、散々考えた。もっともらしい理由があれば恥ずかしいし、両思いなら、我慢がきかなくなる。
――ふと、彼女のしたたかさをおぼろげに理解した。
長居せず、目を合わせず、言葉をかわさない。あれにはやはり、遠慮以外の作為があったのだろう。
彼女は積極的に、何もしないようにしている。
何も起こさないために。
俺との関係を、変えないために。
苛立ちがわく。
「……描くか」
「え?」
一拍置いて、清佳さんはあからさまに安堵を顔に浮かべた。
「あ、あぁ、休憩終わり?」
不服だったが、うなずく他ない。苛立ちは彼女にも向いてはいたが、俺には彼女を責められない。
彼女は俺に、自分がされているのと全く同じことを、しているだけだ。
極力自制しているとは言いつつ、俺は時々、冗談めかしながらも清佳さんに好意をちらつかせている。将来への布石と周囲への牽制のために。ただ、ほんのささいな、からかい程度に留めて、告白のような決定的なことはしていない。
それはやはり、プラントポットの人間関係のためではあるのだが、もし清佳さんが俺に一切興味を持っていなかったなのら、曖昧な態度は鬱陶しいだろう、とても。
拒みたくても、拒みにくい。相手の真意を読みにくい。自意識過剰とそしられるリスクを無視できない。
清佳さんの性格上、報復を意図しているとは思えないが、少なくとも俺には、気を持たせるなと恨む筋合いはなかった。
責めるべきは自分の不甲斐なさだけだ。
「じゃあ、私もそろそろ戻るよ。お邪魔しました」
清佳さんは、恐らくは両親譲りだろう折り目正しさで礼をした。
感情で言えば引き止めたくて仕方がないが、理性では安堵している。
結局お茶を少しも飲まなかったことを思い出して、軽く返事をしながら、紙コップに口をつけようとした。
だが、それで終わらなかった。
清佳さんが後ろに引いた足は、床に転がっていた筆を、踏みつけた。
その姿勢は大きく傾ぎ。
「え」と戸惑いの声は、体に引きずられて落ちていった。
考えるより先、彼女を支えようと、咄嗟に腕がのびかける。だが、俺の手にはまだ一滴も飲んでいない紙コップがあった。お茶をかけることになるかも知れないという危惧が、やはり思考を待たずに俺の動きを止めた。
その一瞬の躊躇のうちに、足を滑らせた当人の方が、近くにあった支えになりそうなもの――つまり、差し出されかけた腕につかまった。
幸い、彼女の体は俺の腕を支えにして、床に倒れる前に留まった。
だが、お茶は案の定、清佳さんを濡らした。
「悪い! 大丈夫か!」
呆然としているのか無言だったが、俺の腕にすがるようにして、清佳さんは体勢を立て直す。きょろきょろと足元を見て、自分を転ばせた筆に目を留めて「あぁ」と呟く。
驚いて、まだ少し大きくなったままの目で、俺を見上げる。
「か、片付けよう」
返す言葉もない。
まだ驚いているのか、片手で抱きしめるように俺の腕をつかんだまま、清佳さんは自分の体を見下ろした。
お茶は彼女の服の前身ごろを濡らしていた。顔にも少しかかっている。制服でなかったのは幸いだが、見る間に滲みていっている。
動くに動けず眺めていると、無防備に襟元が広げられた。
中に赤色が見えて、慌てて目をそらす。
「清佳さん……タオルを持ってくるから、腕」
「あ、そうだ! 絵は濡れてない? 大丈夫?」
「濡れてない」
確認はしていないが、どうせこの辺りにあるのは濡れても構わない絵だ。
「良かった……。床はちょっと濡れちゃったね。雑巾持ってくるよ」
「床はいいから。後でやっておく。先に自分を拭け。タオルを持ってくる」
「私はもう戻るし、タオルはいいよ」
引き止めるように、腕をつかむ手に力がこもった。
自分よりも無機物を優先するなと言いたい気持ちもあるが、清佳さんの自尊心の低さは一朝一夕でなおるものではない。今はひとまず置いておくとして。
「……じゃあ、腕を、離してもらえると」
「あ」
何も起こらないように頑なに距離を取っていたくせ、脇が甘い。あらためて省みて、自分でも距離が近いと思ったのか、清佳さんの頬はかすかに赤くなった。
辛うじて密着ではないだけで、俺にしてみれば、少し動くだけで胸に触れられる距離だ。
そういう顔をするなと思いつつ、離されるのを待っていると。
腕に、猫がすり寄るように、軽く頭が押しつけられた。
ついでに胸も少し触れた。
すぐに離れて、清佳さんは目を泳がせた。
「……ごめん」
手が、落ちるように離れていく。今度こそ彼女は足を引いて、すれ違ってアトリエを出ていこうとする。
咄嗟に腕をつかんだ。次は俺の方から。
「おい」
先は考えていない。
「何、今の」
「……」
清佳さんの顔には、困ったような微笑みが浮かんだ。
腕をつかんだまま見つめていると、微笑みは少しずつ消えていき、最終的に弱り切ったような顔になって、目はそれた。
先程飲み込んだはずの苛立ちが、熱情と一緒に、ちらと喉奥から顔を出す。
だが、俺の中にはまだ冷静な部分が残っていた。
「悪いんだが、俺は女性を好きな男で……大抵の男子高校生が持つ程度には、欲もある。そういうことをされると困る」
清佳さんは後ろめたそうに、弱々しく手を引いた。到底振りほどかれるような強さではなかったが、俺は腕を離した。
「二人きりでいるのも、本当は良くはないと思う。我が身がかわいいのなら、もう、アトリエには来ない方がいい」
二人きりで一緒にいられる時間は惜しかったが、そう告げる。結局アトリエに来る理由は分かっていないが、あんなことをされたら、どんな理由だったとしても、もう受け入れられない。次は確実に手を出してしまう。
だが、清佳さんは想定を上回って愚かだった。
「ムラサキさんのそば、居心地が良くて」
腕への抱きつきなど比にもならない甘さが、そこにはあった。
少なくとも今のところ清佳さんは俺との関係を変えるつもりはない、という結論が揺らぐ。
本当に関係を変える気がないのなら、今、この時に、俺に甘えようとするか。
「私にとっては、結構、大切な時間だったんだけど。……もう、だめ?」
無防備だ、と目をそらせる限度を超えている。この甘え方は、誘惑に近くないか。
彼女の性格を考えたら確実に勘違いだとは思うのだが、今なら、何をしても許してくれるのではないかという期待が捨て切れない。
キスでも、それ以上のことでも。何をしても彼女は受け入れて、他の四人には黙っていてくれるのではないかと考えてしまう。
助けてくれ、と内心で思う。誰か一人でも来てくれたなら、何もしないで済む。
だが、助けはなかったので、俺は彼女を抱き寄せた。
濡れるのなんてどうでもよかった。
彼女は身を寄せることはなかったが、拒みもしなかった。
「……何か、落ち着くんだよなぁ。根を張っちゃいそう」
どういう意味だ。やはり、勘違いではない? 誘われている?
勘違いだとしても俺が悪いのか、と投げやりな思考がわいてくる。愚かさにせよ誘惑にせよ、ここまで来たら清佳さんのせいだろう、と言いたい。だが、いまだに残っている理性の部分が、その言い分は、犯罪者と同じだと伝えてくる。
「……清佳さん」
仕方なく、最後通牒を告げるため、呼びかけた。
呼びかけたその声に、抱えていた欲がこもってしまったらしく、俺が言葉にするより先に、腕の中にある体はきしりと固まった。
ちら、と瞳が上向く。俺と目が合った途端、そこには後悔がにじんだ。
答えは聞くまでもなかった。
耳元に口を寄せる。
「逃げるなら今しかないぞ」
清佳さんは身を引こうとしたが、それだけで逃げられるのも癪だったので、微妙に抵抗してみせた。ほんの少し抱きしめる腕の力を強くした。清佳さんは焦り、俺の胸に手を当てて突っ張る。
だが、それでも足りないと分かると、俺の腕をつかんで。
――頭突きを、した。
思い切りではなかったが、無視はできない痛みに、さすがに腕をとく。彼女はするりと逃れた。
足音はすばやくアトリエの出口へ。
そのまま去るかと思ったが、一瞬立ち止まって。
「ムラサキさん、が。……悪い!」
そう言い残してから、今度こそ去った。
「……はい」
胸の痛みが強すぎて、それ以外の言葉は思いつかなかった。
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