第8話 なかったことに②
「何のって、あんたこの前起きたらもういねぇし。なんで勝手に先帰った」
またそのことに言及されて、眉間に皺を寄せた。
「お前が起きるまでとどまる理由がない」
「へえ。あんたやることやった後は結構淡泊なんだな」
「言っておくが、私はお前に抱いてくれなどとは一言も言っていない」
弱っていた自分を襲ってきたのは貴様だろう、という目で見ると、リアンをじっと見下ろしていたヴァルハルトは肩をすくめた。
「あんたこの前は可愛かったのに、もう元に戻っちゃうのな」
「あの夜のことは忘れろ。誰にも言うな。ただの不幸な事故だ。お前も飛竜と寝たなんて仲間に知られるのは我慢ならないだろう」
無駄に透明感のあるこの男の青い瞳を見ていると、思い出したくもないのにあの夜のことが想起されて眉間に皺が寄る。ヴァルハルトの熱のこもった青い眼が脳裏に浮かんで、舌打ちして目をそらした。
「俺は別に? 言いたきゃ言わせとけばいいと思うけど。まあでも、あんたがそうしたいならなかったことにしてもいい」
あっさりと引き下がった男が少し意外でもう一度その顔を無言で見据えると、リアンと目が合ったヴァルハルトは口角を上げた。
「陰の日は、もう出歩かないように気をつけろよ、グラディウス少将。あんたとのセックスはすげぇよかったから、もしその気があるならいつでも相手になる」
「死にたいのか」
眉間に青筋を立てたリアンを見て野蛮な竜は愉快そうに笑った。
思った通り、この男があの夜のことを深刻に受け止めている様子はない。単なる事故か気紛れに手が伸びただけ、というようなヴァルハルトの軽口に腹立たしさを覚えながら、それでこそ海竜、と逆に安心した。
地上が爆散してもありえないことだが、もし責任を取るなどと言われて結婚を迫られでもしたら、それこそ飛竜の最終奥義を使ってでも口封じをしなければならなくなるところだった。
「もう一度言う。忘れろ。二度とこの話はするな」
ヴァルハルトを睨みながらそう言って、リアンは返事を聞く前に身を翻した。
このままこの男の顔を見ていたら確実に手が出る。まっすぐに扉に向かった。
「はいはい。事故な。あれは単なる事故。相変わらずお堅ぇなぁ」
つまらなそうにそう答えるヴァルハルトの声には振り返らず、扉のノブを掴んだ。
「またな、グラディウス」
後ろから男の軽い声が聞こえたが、リアンは無視して部屋の外に出た。
幸いにも会議室の前でヴァルハルトと話していたことは誰にも見られていなかったようで、アマーリア宮殿の外に出るとちょうど叔父や残りの空軍の士官達も追いついてきた。王宮の敷地内にある飛行場に向かい、輸送機に乗り込む。
いつもの座席に座って地上から飛び立つと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
ため息を吐いて、次第に小さくなっていく王都の街並みを飛行機の窓から眺める。
あの男の顔を見たら、もっと憤然として斬りかかるか息の根を止めようと衝動が働くかと思っていたが、意外にも気持ちは冷静さを保っていた。
あの夜は自分も迂闊に地上に下りてしまったという自覚がある。
自分も悪かった。
それは認める。
だから弱った自分に手を出してきた奴は正真正銘最低な野郎だと思うが、あんなに毛嫌いしていたヴァルハルトと寝てしまったこと自体には、そこまでの嫌悪を引きずらなかった。忌み嫌っていた男に弾みで抱かれたわりに不思議な気がするが、あの夜の衝動は本能的で、リアンには抗えない何かがあった。あの男を拒めなかったのはそのせいで、だから仕方がなかった、という結論をすでに出している。
それに深く考えすぎると自分の愚かさを許せなくなり、感情がかき乱される。早く忘れようと気持ちを切り替えるしかない。
実際今日あの男の顔を見ても平気であったから、もう自分はあの夜のことをなかったこととして整理したのだろう。それでよかった。
あの男の眼を見ても、もうあの夜のことを思い出さなければいい。あの激しい熱のこもった眼を頭の中から追い出してしまいたい。
来月には合同演習の打ち合わせで海軍の戦艦に行かなければならない。しばらく会いたくないと思うのに、厄介な気鬱を背負ってしまった、とリアンはまた深く息を吐き出して、もう空と雲しか見えなくなった窓の外を見て目を閉じた。
◆
陸海空軍の合同演習を翌月に控えていた。
リアンはローレンと共に海蛇のデッキに駐機させた哨戒機から下りたった。『海蛇』というのは、海軍の軍艦の通称である。全長三百メートルを誇る巨大軍艦で、オーベル一族が指揮する海軍の主力戦艦だ。戦艦ではあるが、海竜であるオーベル家が常駐していることもあり、竜の居住区は豪華客船に引けを取らない造りだと聞く。それは空軍の燕と同様ではあるが、空軍からは蛸壺と呼ばれて揶揄されている。
「あれ、飛竜か。少将の階級章ってことは、あれがあの空軍のヒュドラって呼ばれてるリアン・グラディウス? 聞いてたよりも大きいな。噂を聞いた限りもっと小さいのかと思ってた」
「空軍のムササビちゃんって意外に美人なんだな。すげぇ怖いって聞いたけど」
「おい、少将こっち見てんぞ、やめろ」
「あの別嬪な顔なら地竜のまねしてうちの海竜ともよろしくやればいいのにな。肉食のお姉様たちから可愛がられそうじゃん」
「おいやめろって。あの人ヴァルハルト少将とタイマンでやり合える竜だぞ。迂闊なことを言うな。ぶっ飛ばされる」
理性的な海兵がそうたしなめたときには、すでに三人ほど宙を飛んでいた。
「ひぇ」
激しい水音を立てて甲板から海に落ちていった仲間を見た海兵が青ざめる。
翼で叩いて突き落としたのだが、竜の翼は目には見えないので睨んだだけで吹っ飛んだように見えただろう。リアンが無言で残った一人を見ると、彼は後ずさって手すりまで後退した。
「おいおい。人んちのガキに手ぇ出すのやめろ。あんた定例会議では散々俺に文句たれるくせに、自分だって気が短いんじゃねぇの」
前方から呆れた声が響いて、顔を向けると甲板の奥から海軍の軍服を着たヴァルハルトが歩いてきたところだった。
奴の顔を見て一瞬強張りそうになった唇を噛んで引き結び、眉を寄せる。
「ここは王宮ではない。陛下や王太子殿下に迷惑はかからない」
「あんたのその基準おかしくね? 規律がどうのって言ってたのは一体なんなんだ」
「よりによって出迎えはお前か。さっさと会議室に案内しろ」
「無視か。相変わらず鼻につく野郎だな。後ろのは竜か? 妙な気配がする」
呆れと苛立ちを半々に顔に浮かべたヴァルハルトが、リアンの後ろに控えていた副官に目を向けた。ローレンの竜印はかなり弱いはずだが、それでも何か感じているらしい。リアンは微かに眉を上げた。その無駄な嗅覚には少し感心する。
「私の副官だ。竜ではない」
「ふーん」
何とも言いたげな顔をしたヴァルハルトは「まあいいけど」と呟いてからリアンを連れて会議の場となる機関長室まで先導した。
「今日は中将はいるのか」
「いる。珍しく、大将もいるぞ。グラディウスの中将じゃなくてあんたが来るって言ったら同席するって急に言い出した」
それを聞いて訝しんだ。今まで何度か必要に迫られて海蛇に来たことはあるが、海軍大将には会ったことがない。海軍の中将は隣を歩くこの男の母親で雌の海竜だが、彼女には定例会議でも顔を合わせている。しかし大将に会うのは初めてだ。確か、ヴァルハルトの祖父だったと思うが、わざわざ海竜のボスが飛竜であるリアンに会おうとする理由はないはずだ。
「大将が、合同演習について何か意見があるということか」
「いや、ないんじゃね。あの人喋らねぇから」
ますます眉をひそめると、ヴァルハルトは軽く笑った。
「大体いつも仏頂面で、必要に迫られたときしか話さねぇ気難しい爺さんなんだよ。ずっと前に番に逃げられてからそんな調子らしい。怖ぇ顔して座ってるけど、置物だと思ってればいい」
「置物……?」
番に逃げられたということは海竜らしく浮気か何かをしでかしたのだろうとは思うが、番を失った祖父に対してその言い方はどうなのだ。上下関係に厳しいグラディウスでは絶対にあり得ない言い様に軽く衝撃を受けていると、今度はヴァルハルトの方から話しかけてきた。
「なあ、番っていえば、あんたヒースレイの地竜みたいに海竜と番う気あんの? 人間とは上手くいってないんだろ」
「は?」
唐突な話題にうろんな声が出た。
何故そんな個人的なことをこいつが把握しているのかはわからないが、いつもの軽口のように飛竜が断絶の危機にあることを揶揄されるのであれば不快である。
リアンは冷ややかな眼差しを返した。
「そんなことはしない。私の意思で退ける前に、叔父も祖父も飛竜に他の竜の血を混ぜる気はない」
「じゃあ人間ってことか。でもあんたの竜印に耐えられるような女、そうそう見つからねぇと思うけど」
「見つからなくとも、見つけるしかない。血を絶やすわけにはいかないからな」
「へえ」
特に感情の乗らない声で相づちを打たれる。
こいつはさっきから何を言っているんだ?
不可解すぎて眉間に皺を寄せ、もうそこから話は続けなかった。リアンの結婚相手が誰になろうが、この男には関係ない。特に揶揄うでもなく、心配するでもないヴァルハルトの態度はいつもの傲慢で人を小馬鹿にするような姿から考えると少しおかしい。リアンが何も言わないとそれきり話さなくなったので、リアンも訝しんだまま無言で機関長室まで歩いた。
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