第7話 なかったことに①

 最悪の目覚めという言葉を形容するのに、今の状況ほどふさわしいものはない。


 目の前に野性味溢れる男の寝顔。

 その男の腕を枕にして起床する自分。

 死のう。

 そう思って身体を起こそうとしたら腰が痛くて出鼻をくじかれた。


「クソ……このけだもの


 昨夜、ヴァルハルトはおそらくちょっと味見しようくらいのつもりだったはずだ。それなのに奴はいつまでもリアンを離さず、宿に連れ込んでベッドで立て続けに二回やった後、バスルームに逃げ込んだリアンを追ってきてそこでも迫ってきた。ぐずぐずになって腰が立たなくなったリアンを担いで寝台に戻り、また組み敷いて何度も穿ってきた。結局何回やったのかリアンには記憶がない。

 抱かれるのが初めての人間を記憶がなくなるまで抱き潰すというのは、人として、いや竜としてどうなのか。きっと竜であるリアンでなかったらただでは済んでいない。


 軽蔑の目で横に眠る男を見下ろし、腰に響かないように慎重に身体を動かして寝台から下りた。床に落とされている服を拾って身につける。あれだけどろどろのぐちゃぐちゃになるまでやったのに、身体は中も外も綺麗になっていた。この野蛮人にそんな甲斐性があるとは思わなかったので少し意外だったが、だからといって好感は持たない。


 まだ日が昇ったばかりという時間だったが、一晩たったら陰の日から脱したリアンの竜印はある程度復活していた。もう飛べるし、ヴァルハルトの鋭い眼光にも怯まないでにらみ返せるだろう。身体の不調だけが悪化しているが、それも数日寝たら治る。


 外套を羽織りながら、まだ寝ている海竜の顔をちらりと見やった。

 一瞬ここで奴の息の根を止めておくべきではないかと思ったが、さすがに問題になるだろう。芋づる式にリアンとヴァルハルトの間で何が起こったのかが明るみになってしまう。そうなったら今度は自分が死ぬしかない。


 やめよう。なかったことにすればいい。


 どうせこの海竜もいつもいけすかないと思っていたリアンを屈服させられたのが面白かっただけで、雄の飛竜を抱いたことに特別な感傷など抱くはずもない。ヤリチン野郎、死ね。という気持ちは湧くが、これ以上この野蛮な竜に感情をかき乱されるのも耐えられなかった。

 昨日は陰の日で仕方がなかった。犬に、いや蛇に噛まれたとでも思うことにして、忘れよう。

 そう自分に言い聞かせて、リアンは満足そうに寝ている男の呑気な顔を、苦虫を噛み潰したような顔で一瞥してから身を翻した。



 軍部の人間からは『燕』と呼ばれている巨大な空中艦艇に戻ると、リアンの到着を聞きつけたのか副官のローレンが待ち構えていて、空にリアンの姿を見つけると慌てて甲板を駆け寄ってきた。


「リアン様、大丈夫でしたか」


 グラディウス一族の居住エリアにあるデッキに下り立ち、慣れ親しんだ鋼鉄の固い床を踏んでリアンはほっと一息つく。


「問題ない。ヒースレイと話し込んでしまい、体調も思わしくなかったから王都の宿で一泊してきた」

「そうですか。よかったです。昨日は陰の日でしたから、もしかしたら何かあったのではないかと」


 リアンの副官は安心したように表情を緩めた。

 ローレンはとある経緯でリアンが空軍の師団から引き抜いて、リアンの副官の位置に納まっている士官だ。今年三十五を超える年齢だがあまりそうは見えない顔で、全体的に線が細い。真っ白な髪は遠目に見ると飛竜かと勘違いされるが、ローレンの瞳は紫なので飛竜ではない。軍人というよりは侍従のような出で立ちなので周りからは揶揄われているが、本人は気にしていないらしい。それよりも自分の事情を把握しているリアンを信頼して付き従ってくれている。


 昨日は陰の日に地上に下りるリアンを最初は心配してついてこようとしていたが、リアンが不在の間の事務作業を片付けるために燕にとどまった。それでなくとも彼は陰の日は極力リアンに近づかないようにしている。以前、新月の夜にローレンと一緒に晩酌していたところ、危うく二人とも酔った勢いでおかしな雰囲気になりかけたことがあったからだ。今思えばあれはローレンの竜印に当てられていた。この副官は周囲には隠しているが、飛竜ではない竜の印を持っている。


 弾みで寝てしまうなら、ローレンの方がまだましだったな、という感傷を抱きかけて、リアンは頭を振って雑念を吹き飛ばした。

 あれはなかったことにしたのだから、後悔も何もない。いまだに腰と身体にだるさを感じるのが忌まわしいが、それも体調不良のせいだと思い込むことにして、リアンはため息を吐いて艦艇の中に入った。



 翌月の定例会議。

 あの男に会うと思うと気が重かったが、それでも各軍の大将を除く軍部の幹部が全員揃う会議を欠席するわけにはいかない。また乱闘騒ぎが起きたと中庭に呼ばれるかと思ったが、奴は珍しく今日は野蛮な騒動を起こさなかった。


 ヴァルハルトは黙って議場の席に座っていた。リアンが会議室に入ったときには、驚愕することにすでにヴァルハルトは海軍の定位置に座っていて、こちらに気づくとまっすぐに視線を向けてきた。リアンはすぐに目をそらし、自分の椅子に座った。

 会議の議題は簡単な定時報告が終わったあと、二ヶ月後に控えた軍部の合同演習の内容に終始した。もうそんな時期か、とリアンは今後生じるであろう海軍との打ち合わせに思い至り、憂鬱な気持ちになる。空軍と向かい合った海軍の座列から、ヴァルハルトの視線を感じる。会議の発言者の方に顔を向けるとふとした拍子に奴と目が合う気がしたが、リアンは完全に無視した。



「グラディウス少将」


 会議が終わって、足早に議場を出たリアンの背中に声がかかった。

 ぴたりと足を止めて、振り返るとヴァルハルトが立っている。

 ちらりと会議室の中に視線を送ると、叔父はまだ陸軍のアドル達と何やら立ち話をして打ち合わせをしている。部屋の中の人間がリアン達の方には注意を向けていないことを確認してから、目の前の男を鋭くにらみ上げた。


「話しかけるな」

「つれないな。せっかくあんなに熱い一夜をす」


 皆まで言わせずに胸ぐらを掴んだ。ムカつくことに奴を持ち上げることは敵わないので、思い切り襟首を引っ張った。近づいた奴の顔が愉快そうに歪んだのを鋭く睨んで舌打ちする。


「余計なことを言うな」

「口止めもせずに勝手に帰ったのはあんた」

「……来い」


 手を離して踵を返した。人影のない廊下を目指して早足に歩くと、後ろから悠然と歩いてリアンを追ってくる足音がする。

 アマーリア宮殿の中の、人気のない侍従の控え室を見つけ、リアンはそこにヴァルハルトを伴って入った。廊下に顔を出し誰にも見られていないことを確認してから扉を閉め、不遜なたたずまいの海竜を振り返って腕を組んだ。


「何のつもりだ」


 そう言うと、ヴァルハルトは器用に片眉を上げた。

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