第5話 竜の本能②
海竜への評価は上がるどころか更に下がったと思いながら、リアンはさきほどの番の話がまだ頭の隅に引っかかっていて、地竜と番った海竜の話を思い出した。
「そうやって調子のいいことを言いながら、確かヒースレイの地竜と番になった海竜は結局海が恋しくなって海軍に戻ったんだろう」
そう言うと、アドルはきょとんとした顔になった後頷いた。
「ん? ああ。そうだね。彼は海から長く離れるのはキツかったみたいだ。こっちの子も体質的に海の中に住むのは無理があったからね」
「そういうことだ」
結局、海竜は番を残して海に帰ったのだ。それも気分屋で傲慢な海竜らしい結末。
リアンが冷ややかな顔で一週間前にこの中庭でやりあった海竜のことを思い出していると、アドルが首を捻りながら「でも」と言いかけた。
「いや、もういい。あいつらの話はこれ以上聞きたくない」
あのいけすかない男の顔を思い出してしまった。海竜の話をしていたら胸くそ悪くなってきたので、ヒースレイの話はそこで遮って終わらせた。
◆
失敗した。
早く空中艦艇に戻ろうと思っていたのに、ヒースレイと中庭で思わず話しこんでしまい、王宮を発つのが遅くなった。早く帰ろうと思ったら、街でごろつきに絡まれている女性を見つけ、蹴散らして警察に引き渡していたら手間を取られた。もう日が沈んでしまった。
「飛べないな」
王都の繁華街の路地に立って、羽ばたこうとしたら翼が背中から出てこなかった。
すでに飛ぶことすらできなくなった。新月であることに加え、体調が悪いせいでさらに身体の調子が悪かった。夜になって少し熱が出てきたかもしれない。竜印の力が弱まって身体がふらつく。これではもう今夜は空中艦艇には戻れないだろう。連絡して迎えに来てもらうにも、一度王宮に戻って陸軍の通信機を借りる必要がある。そこまでの気力が残っていない。諦めて、街の宿を探して一夜をそこで過ごすことにした。
竜印が使えなくとも、軍人である自分が人間に負けるようなことはまずない。陸軍には現役の地竜は少ないから、まさかここで竜に遭遇することもないだろう。
そう考えてリアンは宿泊する場所を探そうと、ふらつく身体を壁に手をついて立て直そうとした。
そのとき、突然後ろからぞっと背中が粟立つような気配を感じた。
気づいて全身が強張った瞬間、聞き覚えのある声が響く。
「あれ、あんたこんなところで何してんだ」
頭だけで振り返って、愕然とする。
「お前……」
うそだろう。
何故今よりによってこいつに会うのか。
目を見開いて思わず固まった。
こちらに歩いてくる厳つい身体つきの大柄な男。海軍の軍服に縫い付けられているのは自分と同じ少将の階級章。暗がりでも何故か目を引く青い瞳がリアンを見ている。
ヴァルハルト・オーベル。つい一週間前に王宮の中庭でやりあった男がすぐ近くまで歩いてきて、片眉を上げてリアンを見下ろした。
常時戦艦にいるはずのこの男が何故地上にいて、しかもよりによって王都の街を歩いているのかは知りたくもないし、どうせ聞いてもろくな内容ではないだろうから興味はない。
しかし、今リアンにとって問題なのは、この男が強力な竜印を持っているということだ。
「っ」
身体から力が抜けた。
しまった、と思う頭とは裏腹に足が崩れる。咄嗟に壁についた手で体勢を支えたが、ぐらりと傾いた身体が壁にすがるようにしてかしぐ。
「おいっ、何してんだ」
ヴァルハルトが手を伸ばして肩を掴もうとしてきた。
それを壁についていない方の手で強く弾く。
「……触るなっ」
今この男に触られるのはまずい。この上なくまずい。
ヴァルハルトから感じるプレッシャーは、あまりにも大きすぎる。
「あんた、具合でも悪いのか」
触るなといっているのに、再び伸びてきた男の手を振り払おうとしたら、その手を掴まれた。ぐっと引き寄せられて抵抗できずに二、三歩足が進んでしまった。さらに近くなった竜の気配にぞくっとして膝が折れそうになる。手のひらにじわっと汗がにじんだ。
「……そういや、今日は新月か。ということは、陰の日か、あんた」
奴の眼をみたらダメだ、とうつむいたリアンの頭上から呟きが聞こえる。
月ではなく潮の満ち引きに左右される海竜とは陰の日が違うが、リアンが明らかに弱っている原因に思い至ったらしい。
最悪だ。なんでこんなことになる。
同じ海竜に会うならこいつじゃなくて違う竜の方がまだましだった。この男に自分のこんな状態を見られるなら。
陰の日は、竜印の力が限界まで弱まるが、その弱くなった竜の本能が、強い竜に対して否応なく惹かれてしまう。普段の竜印が強い分、反動が大きい。竜の本能がより強い者の庇護を求める。自分よりも強い竜には逆らえない。そう本能が理性と矜持を押さえ込んでくる。
強い。
ヴァルハルトは、今自分が対するにはあまりに相手が悪い。
全身から力が抜けて、自分の意思とは関係なく身体がグニャグニャになる。
うつむいて震えているリアンの顎に、急に手がかかった。驚く間もなく、くっと上げられた手に上を向かされる。
目が合った。
夜の闇の中で、水に映る月光のような、青い月長石を思わせる瞳とまともに眼が合う。
「っ」
頭がしびれたように動かなくなった。眼光だけで、目の前の竜に支配される。
「なあ、あんた」
ヴァルハルトが眼を細める。
その掠れた低い声を聞くと、熱に浮かされたように唇が震えた。やめろ、抗えと頭の中では繰り返し人間である部分の自分が叫んでいるが、竜としての己が本能のままに身体を動かしている。強い竜に惹かれてやまない本能が目の前の竜を求めて、身体の奥がしびれてくる。
――これは、最悪の展開だ。
リアンの顎を掴んだままヴァルハルトがぐっと顔を寄せてきた。男の黒い瞳孔が縦に開き、眼をそらせずに荒く息を吐いたリアンの目をのぞきこんでくる。肉感的な唇が愉快そうに持ち上がった。
「なんでそんなエロい顔してんの」
なんでもくそもない。
本能に負けてんだよ。クソ野郎。
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