第56話 約束

 こちらへにじり寄って来たバルファスが、拳を振り上げた。


「やめて……」


 フレイヤさんが懇願するが、バルファスは聞き入れない。


 両手の指で数えられるくらいしか辞世の句を知らない僕の頭に、なぜか近藤勇が処刑される寸前に詠んだそれが浮かぶ。


快受電光三尺剣こころよくうけんでんこうさんじゃくのけん只将一死報君恩ただまさにいっしをもってくんおんにむくいん……)


 だが、武士ではない僕には、自身の生命を絶たんとする一撃を、「快く受け入れる」ことなど、到底できそうになかった。


 これでも、やれるだけのことは、やったつもりだったのだが……。


 恐怖と絶望から目を閉じた僕に、刹那の鈍い痛みと永遠の静寂が――


 来なかった。


「……えっ?」


 おそるおそる目を開くと、バルファスの拳は僕の眼前、わずか数センチの位置で止まっていた。


「どうして……?」


「それはこちらの台詞だ。なぜ、ゲルズの攻撃から我を庇ったりした?」


 思わず尋ねる僕に、バルファスは低い声で聞き返してきた。


 彼は男性のようだから、おそらくこちらが本来の声なのだろう。


「僕の目的は、あなたに勝ったり、あなたを倒したりすることじゃなかったんです。それで、あの攻撃があなたに当たってしまったら、その目的は果たせなくなると思って……」


 実際にはあの時、とっさに身体が動いてしまっただけだったのだが、そう言ってもバルファスは納得してくれないだろうと考えて、僕は上体を起こし、自分の過去の行動を言語化することに努めた。


「その目的とはなんだ」


「自分は先祖とは違う……そのことを、あなたにわかってほしかったんです」


「…………」


 僕が正直に答えると、バルファスは短い沈黙の後、大きなため息を漏らした。


「……そうだな。貴様は確かに、信義とは違うらしい。弱く、愚かで、どうしようもない男だ」


「…………」


 今は命があるだけでも、ありがたいと思わなくては。


「よくわかった。貴様のような男を屠ったところで、同胞たちの無念は晴れんということが、な」


 そう考えて、僕はバルファスの侮蔑に黙って耐えていたのだが、続く言葉は目的の成就を感じさせるものだった。


「そ、それじゃあ……!」


「勘違いするな。今は消えてやるが、ゴッドランド人がこのまま変わらなければ、いつかは滅ぼす。今度はゲルズが提案したような手ぬるい方法ではなく、地獄の業火によって焼き尽くしてくれるわ」


 こちらに背を向けて、吐き捨てるように言うバルファスに、僕は膨らんだ希望がしぼんでいくのを感じたが、彼はそのまま立ち去らずに、


「坂上結人。フレイヤ・スカディ・ヴァン・ヴェヌス・ゴッドランド」


 と、僕たち二人のフルネームを呼んだ。


「変えてみせろ。お前たちの手で」


 少しだけ柔らかい口調で最後の言葉を残し、バルファスは空間に穴を開ける。


「……はい!」


 そして、背中越しに僕の言葉を受け止めると、一瞬だけ立ち止まった後、闇の中へと消えていった……。


×       ×       ×


「結人さまあああああ!!」


「穴」が完全に消えた後、そう泣き叫びながら抱きついてきたのは、もちろんフレイヤさんである。


「良かったです、本当に良かった……! 結人さまがご無事で……!」


「僕もホッとしてます。一時はどうなることかと思いましたけど……」


 フレイヤさんを抱きしめ、その頭を撫でながら、僕は言った。


「ごめんなさい。悪気はなかったのだけど……」


「いえいえ、結果オーライですから。情報の共有も不足してましたしね……」


 申し訳なさそうに謝るゲルズさんを、僕は笑って励ます。


「はい。お義姉ねえさまのあの攻撃がなければ、バルファスは結人さまに心を開いてくれなかったかもしれないのですから、あまりお気になさらないでください」


「それを言うなら、そもそも私がバルファスの誘いに乗らなければ、こんなことには……」


 フレイヤさんもフォローを入れるが、ゲルズさんはますます落ち込んでしまう。


「そんなに自分を責めないでください。あなたのおかげで、救われた人だっているんですから」


 僕がアンナのことを話すと、ゲルズさんの表情はいくらか和らいだ。


「そう……それなら私のやったことも、完全な間違いだったわけではない……そう考えても良いのかしら」


「そうですね……ただ、やり方は良くなかったと思いますけど」


 ゲルズさんに限らず、理念からして根本的に間違っている人間など、そう多くはないだろう。


 大抵の場合は、やり方に問題があるだけなのだ。


 無論、フレイのように、根っこの部分から腐っている者もいなくはないが……。


「ともかく……これでようやく、長年に渡る因縁に決着がついたのですね」


「フレイヤさん、それは違いますよ。むしろ、これからが本当の始まりです」


 安堵するフレイヤさんの言を、僕はやんわりと否定する。


「えっ?」


「バルファスが言っていたでしょう。僕たちの手で変えてみせろ、って」


「そう……でしたね」


 真剣な面持ちで頷くパートナーの顔を見ながら、僕は思う。


 ゴッドランド人の意識改革を行う、ということは、陰謀と欲望の渦巻く宮廷社会に身を投じなければならない、ということだ。


 スノリエッタ公は比較的、話の通じる人物のようだが、全ての貴族がそうだとは思えない。


 むしろ、曲者のほうが多いだろう。


 彼ら、彼女らはある意味では、バルファス以上の強敵かもしれない。


 平和な日本に生まれ、権力闘争とは無縁の人生を歩んできた僕が、そのような連中と「武器なき戦い」を繰り広げなくてはならないのは、正直、非常に憂鬱だ。


 だが、それでもやるしかない。


 僕はバルファスと、約束をしてしまったのだから……。

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