第42話 フレイヤの兄

「勇者さま、ようこそおいでくださいました」


 王城へと戻った僕たちは、その応接間にて、フレイヤさんの兄であり、第一王子――皇太子のフレイと面会した。


 この部屋は公爵邸のそれと造りは似通っているものの、あちらよりも更に絢爛豪華で、ソファは油断していると体が沈んでしまいそうになるほど柔らかく、天井から吊り下げられたシャンデリアが眩い。


 壁にかけられた王冠を被ってひげを生やした壮年男性の肖像画は、おそらく名君と名高い王のものだろう。


 場所が謁見の間ではないのは、そこだと王族よりも偉い勇者を下座で跪かせなければならなくなるため、らしい。


 だが、勇者を謁見の間の上座――つまりは玉座に配置し、皇太子が下座で跪くのも、王族の権威に傷がついてしまうので、それはそれで問題があるそうだ。


「フレイヤも、大儀であったな」


 僕の隣に座った妹に、下座からそう語りかけるフレイは、癖のない白髪はくはつを短く切り揃えた美青年で、いかにも「王子様」といった風貌だった。


 一応、この部屋にも上座と下座はある――というか、それはどのような部屋にも存在しているものだが、応接間のそれは謁見の間ほど、格差が見てわかるようにはなっていない。


「ありがとうございます、お兄さま。ところで、お聞きしたいことがあるのですが……」


「なんだい?」


「お義姉ねえさまのことについて、です」


「……ゲルズのことか? どうして今、そんなことを聞くんだ?」


 フレイは僕たちがやって来ただけでその目的を察していたスノリエッタ家の人々とは違い、まだいまいちピンと来ていない様子だ。


 僕がゲルズさんの元乳母と話していた時に覚えた、「本当に、実家の教育方針だけが問題だったのだろうか?」という違和感。


 その正体は、目の前に座っている男のとぼけた顔を見ているうちにわかってきた。


 ゲルズさんが両親や教育係に対して、不満を抱いていたのであれば、婚姻を待たずに失踪していたはずなのだ。


 だが、実際に彼女が行方を晦ましたのは、フレイに嫁いだ後のことだった。


 これはつまり、最後の引き金を引いてしまったのは夫である皇太子だった、ということではないか?


 おそらく、先程のフレイヤさんは、僕よりも一足早くそのことに気が付いてしまったが故に、王城を見上げていたのだろう。


「……エストリエの正体が、彼女だからです」


「あー……なるほどな」


 わずかに逡巡した後、理由を話すフレイヤさんに対するフレイの反応は、腑に落ちつつも後ろめたさも感じているようなものだった。


「お兄さま、何か心当たりがあるのですか……?」


「いや、心当たりってほどのことではないんだが……うーん……」


「些細なことでもいいので、教えてください」


「ほら、エストリエって、この国の人間から性欲を奪っただろ?」


「はい」


「あれって……もしかしたら、僕との初夜・・が原因かもしれないなー、と思って……」


「初夜……?」


「ああ。僕は舞踏会でゲルズに一目惚れして以来、ずっと楽しみにしてたんだ。でも、彼女は実家でだったみたいでさあ……思わず、こう言ってしまったのさ。『なんだ、処女じゃないのか』って」


 応接間の空気が凍りつく。


「…………」


「…………」


 僕もフレイヤさんも、言葉が出ない。


 ゲルズさんが一線を越えてしまった直接の原因は、間違いなくその心ない発言だろう。


 王家に嫁ぐために徹底した教育――虐待と言ってもいい――を受けた女性が、配偶者からそんなことを言われたらどうなるかは、想像に難くない。


 おそらく、自分の全てを否定されたと感じてしまうはずだ。


「それは……お兄さまが悪いでしょう」


「いや、だって、しょうがないだろ!? 僕は皇太子なんだぞ!? 勇者様は異世界人だからこの国の人間の中じゃ二番目に偉いし、そのうち一番偉くなるんだぞ!? その結婚相手が非処女ってさあ……臣民に知られたらどうなることやら」


 呆れるフレイヤさんに、フレイはムキになって反論する。


 王女に媚びる公爵も大概情けないと感じたが、この男の惨めさはそれ以上だ。


 どう見ても、人の上に立つ器ではない。


「お兄さま、もう喋らないでください。不愉快です」


「兄に向かってその口の利き方はなんだ、フレイヤ!」


 もはや嫌悪感を隠そうともしない妹を、立ち上がって怒鳴りつける皇太子。


 性欲を奪われてもなおこれとは、元の性格はどれだけ攻撃的だったのだろう。


 それこそアンナの父親のように、フレイヤさんに手を上げていたのではないか。


「……桃李とうり不言いわざればしたおのずから成蹊みちをなす


 僕は呆れながらも起立し、フレイを手で制しつつ、高校生の時に学校の図書室で読んだ、芥川あくたがわ龍之りゅうのすけの「侏儒しゅじゅの言葉」で紹介されていた、前漢時代の故事成語を引用した。


 場がしん、と静まり返る。


「私の世界……坂上結一郎信義の世界に伝わることわざです。桃の花や果実は言葉を発さなくても、その魅力で人を惹きつけるように、人徳のある者の元には、地位や権力を振りかざしたりしなくても、自然と人が集まるものなんですよ」


「つまり……私には人徳がないから妻も離れていってしまったと、勇者様は仰るのですか?」


 少しは落ち着いたのか、座りながらフレイは尋ねてきた。


「それはご想像にお任せしますが……賢君というのは目下の者の諫言かんげんにも、耳を傾けるものではないでしょうか」


 それに合わせて、着席しつつ僕は答える。


「…………」


「そもそも、奥さんにモラハラをかまして逃げられたことのほうが、民に知られたらマズいのでは?」


「…………」


「結人さまの言う通りですよ、お兄さま。聖書派・・・はケチをつけてくるかもしれませんが、臣民の大多数は皇太子妃が処女かどうかなど気にしないでしょう」


「……聖書派?」


 聞き慣れない言葉に、僕はわずかに眉を寄せた。

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