第41話 あなたのままで

 口約束ほど信用できないものはないということで、僕たちは誓約書を作成し、公爵にサインをさせてから、その屋敷を出た。


「……結人さま。少し、昔の話をしてもよろしいでしょうか?」


 そして、僕がフレイヤさんに乳母さんから聞いたことを詳しく話すと、彼女はそう確認してきた。


「……もしかして、ゲルズさんに関することですか?」


 僕が問うと、フレイヤさんは頷いた。


「美しく聡明なお義姉ねえさまは、王家に嫁いでくる以前より、わたくしの憧れでした。ですから、ある日、本人の前でこう言ったのです。『わたくしもいつか、あなたのように立派な淑女になりたいです』と」


「なるほど……それで、ゲルズさんはどう答えたんですか?」


 フレイヤさんの沈んだ表情を見て、良い話ではないであろうことを察しつつも、僕は尋ねる。


「悲しそうな目をして、こう仰りました。『フレイヤ様、あなたはあなたのままでいてください』……と。幼く、今以上に愚かだったわたくしにも、すぐにわかりました。この話題をこれ以上続けてはいけない、ということが。今思えば、あれは自分が公爵から受けていたような教育しうちを、わたくしには受けさせたくないという意味だったのでしょう」


 ひょっとしたら、フレイヤさんが王女らしからぬ奔放な性質を持っていることには、その出来事が影響しているのかもしれない。


「そういえば『江梨子さん』も、居酒屋でフレイヤさんの口についたドレッシングを拭きながら、そんな感じのことを言ってましたっけ……」


 頭の片隅でそう考えながら、僕は答えた。


 彼女はあの飲み会の時、「パーティーがこんなに楽しいと思ったの、生まれて初めてかも」とも呟いていた。


 おそらく、表面上はきらびやかだが水面下では人間の悪意や欲望が激しく渦巻いている上流階級のパーティーとは違い、バッグサーの飲み会では良い意味で頭を空っぽにして、心の底から笑うことができる――そう感じていたのだろう。


「はい。結人さまが『エストリエはゴッドランド人かもしれない』と仰られた時、その正体がお義姉ねえさまではないかと思い至ったのは、そのためなのです」


「なるほど……」


 ゲルズさんはフレイヤさんに自分の正体を察してほしくて、わざと手札を見せていた可能性が高そうだな、と僕は感じた。


 もっとも、単純に昔のことを思い出して、口が滑ってしまっただけという可能性もあるが。


「やっぱり……優しい人だったんですね、ゲルズさんは」


「はい。そんなお義姉ねえさまが変わってしまった最大の原因は、おそらく……」


 フレイヤさんはそれ以上、言葉を続けることはなかったが、視線はハッキリと自身の実家である王城に向いていた。

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